第4話 花灯りの夜
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第4話 花灯りの夜
本文
宿の女主人が、エルナに薄青の服を貸してくれた。娘が若いころに着たものだという。旅装より柔らかな布地で、袖口には白い小花の刺繍がある。
着替えて現れたエルナを前に、ミアはしばらく何も言えなかった。
「似合いませんか?」
「逆です」
「逆?」
「すごく似合っていて、言葉が出ませんでした」
正直に言うと、エルナは少し目を伏せた。耳の先が赤くなっている。
「ミアさんは、そういうことをすぐ口にするんですね」
「思ったことは伝えないと、ないのと同じですから」
「では、私も」
エルナの指が、ミアの外套の襟に触れる。雨の日に縫い直してくれたところを、丁寧になぞった。
「その赤い外套、よく似合っています。あなたを見失わずに済みます」
今度はミアが言葉を失う番だった。
「……行きましょうか」
「はい」
広場には甘い香りが満ちていた。
蜂蜜焼きを二つ買い、花蜜を溶かした温かい飲み物を分ける。エルナは一口ごとに驚いたような顔をした。甘いものを食べ慣れていないらしい。
「おいしいですか?」
「はい。蜂蜜は、お茶に入れるものだと思っていました」
「人生の半分を損しています」
「教会では、甘いものは慎みを失わせると」
「残り半分も損しています」
ミアはもう一つ買い、半分に割って差し出した。
「食べすぎでは?」
「今日はお祭りです。祭りの日に食べたものは、女神様も数えません」
「教会でそんな教えを聞いたことはありません」
「今、風渡りのあいだで決まりました」
笑いながら受け取るエルナの唇に、蜂蜜がついた。
ミアは自分の指を伸ばしかけ、慌てて止めた。代わりに、自分の口元を指す。
「ここ」
「え?」
「蜂蜜が」
エルナが舌先で舐め取る。
見てはいけないものを見た気がして、ミアは川のほうを向いた。
「顔が赤いですよ」
「花灯りのせいです」
「黄色い灯りなのに?」
「いろいろ混ざるんです」
露店で、青い組紐を見つけた。
細い糸の先に、硝子の花が一輪ついている。中庭でエルナが拾った花と同じ色だった。
「少し、かがんでもらえますか」
代金を払い、ミアはエルナの髪に組紐を結んだ。淡い金色に青が映える。
「贈ってくださるんですか?」
「旅の記念、二つ目です」
「一つ目の花は、もう枯れてしまいました」
「栞になったでしょう」
エルナは髪に触れ、それから大切そうに手を下ろした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「手帳に書いておきます」
胸が小さく痛んだ。
嬉しい出来事さえ、忘れることを前提に残さなければならない。けれど今は、その痛みをエルナの笑顔に重ねたくなかった。
川辺で、輪になった人々が踊っていた。
恋人も、夫婦も、子どもも老人もいる。決まった相手と踊るものではなく、音楽が一巡するたび隣の人と手を取り合うらしい。
「行きましょう」
「私、踊れません」
「大丈夫。私も得意じゃありません」
「それは、大丈夫なのでしょうか」
答える前に手を取った。
人の輪へ飛び込み、音に合わせて一歩、二歩。エルナは慎重に足を運び、ミアは勢いでごまかす。三歩目で靴先がぶつかり、同時に笑った。
「右です」
「エルナ様の右? 私の右?」
「同じです」
「向かい合っているから逆ですよ」
「あ……」
また足がもつれた。
倒れそうになったエルナの腰を、ミアは咄嗟に抱いた。
楽団の音が遠ざかった気がした。
腕のなかで、若葉色の瞳が見開かれている。髪につけた硝子の花が、灯りを受けて揺れた。
「すみません」
「いえ」
離さなければと思うのに、エルナの手がミアの肩へ置かれたまま動かない。
「ミアさん」
「はい」
「旅が終わったら、またここへ来たいです」
初めて見つけた願いだった。
「来ましょう」
「次は、もう少し上手に踊れるように」
「それまでに練習しておきます」
「二人で練習しないと、同じところで間違えそうです」
「じゃあ、旅の途中でも」
約束、と言いかけたときだった。
花灯りの一つが消えた。
次に、その隣も。
川上から黒い霧が流れてくる。水面が凍りつき、花の小舟が端から灰に変わっていった。
音楽が止まる。
夜空に黒い亀裂が開いていた。
「みんな、川から離れて!」
ミアは杖を抜いた。
人々が我先にと広場へ逃げる。泣き声と怒号のなか、岸辺に小さな女の子が取り残されていた。凍った川へ落ちた花灯りを拾おうとしている。
「お母さんにあげるの!」
黒霧が子どもの足元へ迫る。
ミアが風を放った。霧を押し戻すが、天裂から次々に溢れてくる。大勢を逃がしながら子どもまで助けるには、距離がある。
「エルナ様、待って!」
薄青の影が、もう走り出していた。
エルナは子どもを抱き上げ、自分の外套で包んだ。黒霧が二人を取り囲む。
胸元に、白い光が灯る。
「まだだめ! 私が道を開けるから!」
「間に合いません」
エルナはミアを見た。
祭りを楽しんでいたときと同じ、穏やかな顔だった。けれど瞳の奥に、はっきりと恐怖があった。
「ごめんなさい」
白い糸が、夜空へ伸びる。
今まで見たものより太く、眩しい糸だった。
エルナの指が動く。
一針。
川を覆った黒霧が割れる。
二針。
凍りついた水が、音を立てて流れ始める。
三針。
亀裂が光に縫い合わされ、夜の闇が戻ってきた。
花灯りが、再び水面を照らす。
歓声のなか、エルナは膝をついた。
ミアは駆け寄り、子どもごと抱きしめた。
「何を忘れたんですか」
「……わかりません」
「手帳を。確かめましょう」
エルナの手が、胸元に触れる。けれど手帳を取り出さず、震える指で空を掴んだ。
「母の顔が」
声がかすれた。
「思い出せません」
ミアは何も言えなかった。
「髪は、私より少し濃い色で。目尻に小さなほくろがあって。笑うと、とてもきれいな人だったんです」
言葉は出てくるのに、エルナは迷子のような顔をしていた。
「わかっているのに、見えないんです。どこにも」
助けられた子どもの母親が駆けつける。泣きながら娘を抱き、エルナへ頭を下げた。
エルナはいつものように、大丈夫ですよ、と微笑んだ。
その笑顔があまりに優しくて、ミアは腹が立った。
誰に向けた怒りなのか、自分でもわからない。幼い子どもにではない。助けたエルナにも怒れない。記憶を糸に変えなければ人ひとり守れない、この世界そのものに手を上げたかった。
騒ぎが収まってから、二人は川下へ歩いた。
祭りの灯りは半分ほど消えていたが、残った小舟は静かに流れ続けている。
エルナは泣かなかった。
「泣いていいですよ」
ミアが言うと、彼女は首を振った。
「あの子が無事でしたから」
「それと、つらいのは別でしょう」
「でも」
「笑わなくても、誰もエルナ様を責めません」
エルナの足が止まった。
暗い川を見つめる横顔が歪む。
「忘れたくなかった」
ようやく、声が震えた。
「母の顔だけは、最後まで」
ミアは彼女を抱き寄せた。
祭りの広場で触れたときより、ずっと強く。細い肩が壊れないように、それでも腕のなかからこぼれてしまわないように。
「忘れたく、なかったです」
「うん」
「もう一度、会いたい」
「うん」
胸元に、温かい涙が染みた。
ミアは何度も背を撫でた。大丈夫とは言わなかった。元に戻らないものを前に、そんな言葉は使えなかった。