第6話 忘れた朝
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第6話 忘れた朝
本文
ミアを、塔の奥に残った小部屋へ運んだ。
夜獣の影が傷口から広がっている。薬も、止血も意味をなさない。脇腹から胸へ伸びた黒い筋は、心臓に届こうとしていた。
エルナは震える手を握り合わせた。
星織りには、命縫いと呼ばれる術がある。
裂けた空と同じように、人の命にできた傷を縫い合わせる。けれど小さな天裂より、はるかに多くの記憶を使う。そのうえ、縫えるのは他人の命だけだ。
歴代の星織りが、自分の寿命を延ばすために使わないよう定められた戒めだと教わった。
そんなことは、どうでもよかった。
「ミアさん」
呼びかけても、返事はない。
いつも笑っている唇が、青ざめている。朝は話しかけるなと眉を寄せることも、干し葡萄をエルナの皿へこっそり移すことも、もうないかもしれない。
嫌だった。
この人がいない明日を、初めてはっきりと怖いと思った。
「私は、あなたと帰りたい」
祭りで見つけた願いより、ずっと強い願いだった。
エルナはミアの隣に膝をつき、その手を両手で包んだ。
記憶は、選べることもある。
鮮やかで、大切で、糸になりたがっているものほど、引き出しやすい。
王都の中庭。
雨宿りの宿。
蜂蜜焼き。
花灯りの川。
赤い外套と、焦げ茶の瞳。
どれも渡したくない。けれど、渡さなければ、その人自身を失う。
「あなたが覚えていてください」
エルナは、眠るミアの額へ自分の額を重ねた。
「私が忘れても、あなたと過ごした時間は、なくならないと」
胸から、白い糸を引く。
指先が光に灼かれる。
一針目で、王都の中庭が消えた。
二針目で、雨音が消えた。
三針目で、花灯りが消えた。
四針目で、名前が消えた。
最後まで手を離さなかったことすら、エルナはもう覚えていなかった。
◇
目を開けると、雪明かりが天井に揺れていた。
ミアは息を吸い、痛みを覚悟した。
何もない。
脇腹に手を当てると、服の下に新しい傷痕があった。けれど黒い筋も、熱も消えている。
「エルナ様」
身を起こす。
小部屋の隅に、彼女はいた。
壁にもたれ、膝の上に手帳を広げている。淡い髪から、青い硝子の花が外されていた。
「よかった。目を覚ましたんですね」
笑顔に安堵はあった。
けれど、どこか遠い。
「傷は? どこか痛むところはありませんか?」
「ない。エルナ様が治したの?」
「手帳には、そう書いてあります」
「手帳には?」
エルナは青い組紐を手に取った。
「ごめんなさい」
若葉色の瞳が、まっすぐにミアを見る。
「あなたは、どなたですか?」
風の音が、崩れた窓から入り込んだ。
聞き間違いだと思った。
冗談なら悪趣味だと笑い飛ばそうとした。
けれどエルナの手帳は、旅立ちの日の頁から、いくつも角が折られていた。自分の筆跡を追いながら、知らない誰かの物語を読んでいる顔だった。
「ミア・レイン」
喉がひどく乾いていた。
「あなたの護衛です。王都から、一緒に旅をしてきた」
「ミアさん」
初めて呼ぶように、エルナが繰り返す。
たったそれだけのことが、夜獣の爪より深く刺さった。
「そう。ミア」
泣くな、と自分に言い聞かせる。
この人は、自分を助けるために忘れた。そんな相手を、悲しませるわけにはいかない。
いつものように笑おうとした。口元がうまく動かなかった。
「私、明るいのが取り柄なんです。すぐ慣れますよ」
「無理をしないでください」
知らない相手へ向ける、優しい声だった。
「あなたは、つらそうです」
ミアは俯いた。
床に落ちた涙が、石の上で小さな染みになる。
「ごめんなさい」
エルナが近づこうとする。
「謝らないで」
思ったより強い声が出た。
「助けてくれて、ありがとう。私が勝手に、寂しいだけだから」
「でも、私が忘れたせいで」
「エルナ様のせいじゃない」
顔を上げると、彼女は戸惑ったまま立っていた。
抱きしめてほしかった。
祭りの夜のように、背へ腕を回してほしかった。
そんなことを、今のエルナに望めるはずがない。
ミアは自分で涙を拭い、寝台から足を下ろした。
「まずは山を下りましょう。話は、歩きながらでもできます」
「傷は塞がっても、身体は弱っているはずです」
「平気です」
「平気な人は、そんなに青い顔をしません」
同じ言葉。
覚えていないのに、同じように心配する。
ミアは泣きながら笑った。
「本当に、エルナ様だ」
山小屋で一晩休み、翌朝に麓を目指した。
道中、ミアはこれまでの旅を話した。中庭の青い花。水門を直した村。狭い寝台。蜂蜜焼きと、花灯りの踊り。
エルナは静かに聞き、ときどき手帳を確かめた。
「私たちは、親しかったんですね」
「たぶん」
「たぶん?」
「私は、そう思っていました」
恋をしているとは言えなかった。
エルナが失ったものに、自分の想いを重ねて返してもらおうとするのは卑怯に思えた。
雪道で、エルナが足を滑らせた。
ミアは反射的に手を掴む。
「大丈夫?」
「はい」
手を離そうとしたが、エルナの指が残った。
「山を下りるまで、このままでも?」
「怖い?」
「いいえ。不思議と、安心するので」
記憶がなくても、指は重なり方を知っているようだった。
ミアは、今度こそ自然に笑った。
「私もです」
麓の宿で、エルナは青い組紐を髪へ戻した。
「無理につけなくていいんですよ」
「無理ではありません。きれいだと思ったので」
「そう?」
「それに、これを選んだあなたのことを、私は信じたいです」
「私を?」
「あと、これを大切にしたいと思った、昨日までの私を」
エルナは組紐を結ぼうとしたが、髪の後ろではうまくいかない。ミアはそっと受け取り、代わりに結んだ。
指が髪に触れるたび、胸が苦しい。
「できました」
「ありがとうございます、ミアさん」
「ミアでいいです」
気づけば口にしていた。
エルナは鏡越しにこちらを見た。
「では、私のことも、エルナと」
「前と同じように?」
「いいえ」
彼女はゆっくり振り返った。
「今日から、そうしてください」
失った時間を、そのまま取り戻すことはできない。
けれど同じ道を、違う足取りで歩くことはできるのかもしれない。
「わかった。エルナ」
名を呼ぶと、彼女は少し照れたように微笑んだ。
その夜、エルナが母の歌を口ずさんだ。
一番の途中で旋律が途切れる。ミアは隣から、忘れた続きを歌った。
「私が教えたんですか?」
「うん。雨の夜に」
「では、今度は私が覚えます」
二人で何度か繰り返した。
歌い終えるころ、エルナは眠っていた。毛布の上に出た手が、ミアの袖を掴んでいる。
そっと指を重ねる。
「好きだよ」
眠る人にだけ届く声で、ミアは初めて言った。
返事はなかった。
それでよかった。
今はただ、同じ朝を迎えられることが嬉しかった。