第8話 雪の夜に名前を呼ぶ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第8話 雪の夜に名前を呼ぶ
本文
ミアは、自分の指先を見た。
「しなくていいよ」
「ミア」
「手をつなぐのも、名前で呼ぶのも。嫌なら、全部やめていい。前のエルナがどう思っていたかは、今のエルナを縛るものじゃないから」
言葉にすると、胸が痛んだ。
それでも、ここだけは間違えたくなかった。
「私は、忘れる前のエルナが好きだった」
とうとう口にした。
「笑うときに少し首を傾けるところも、誰かを助けるとき、自分の怖さを後回しにするところも。頑固で、甘いものを食べるたび目を丸くするところも」
エルナは何も言わない。
「でも今のエルナも好き。思い出してほしいからじゃない。ここ数日で、また好きになった。だから、私の気持ちは私のもの。返してもらえなくても、エルナのせいじゃないよ」
最後まで言ってから、息を吐いた。
怖かった。
どんな天裂を前にしたときより、返事を待つ時間が長い。
「それは、少し困ります」
エルナが言った。
「……困る?」
「私も、あなたを好きになってしまったので」
ミアは顔を上げた。
エルナの頬が、暖炉の火より赤い。
「手帳を読んだからではありません。雪道で手を取ってくれたこと。私が以前と同じように振る舞えなくても、急かさず待っていてくれたこと。眠る前に母の歌を歌ってくれたこと」
毛布の下で、エルナの手がミアの手を探した。
「あなたを忘れたのに、会って数日でまた好きになるなんて。少し悔しいです」
ミアの目から、涙が一粒落ちた。
「笑うところじゃないかもしれないけど、嬉しい」
「泣いています」
「嬉しいときも出るんです」
エルナの指が、頬の涙を拭う。
「触れてもいいですか?」
「もう触れてる」
「そうではなくて」
視線が、ミアの唇へ落ちる。
心臓が大きく鳴った。
「……うん」
エルナが近づく。
最初の口づけは、確かめるように短かった。
柔らかな唇が離れる。すぐそばで若葉色の瞳が揺れていた。
「これで、合っていますか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も初めてだから」
二人で笑った。
今度はミアから顔を寄せた。二度目は少しだけ長く、触れた手の温かさまで覚えていられるように、ゆっくりと唇を重ねた。
離れたあとも額を寄せたまま、エルナが囁く。
「忘れたくありません」
「うん」
「怖いです。また朝になって、あなたを知らない人に戻っていたら」
「そのときは、また好きになってもらえるように頑張る」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃないよ」
ミアは、つないだ手に力を込めた。
「忘れられるのは怖い。すごく怖い。もう一度あの朝が来たら、また泣くと思う。それでも、エルナを好きになったことを後悔したくない」
しばらくして、エルナの腕が背中へ回る。
「私も、あなたを好きになったことは、渡しません」
「糸にしない?」
「しません」
「絶対?」
「絶対です」
抱き合ったまま、小指を絡めた。
窓の外では、吹雪が森を白く閉ざしていた。
けれど毛布の内側には、確かな温もりがあった。
翌朝、先に目を覚ましたミアは、息を詰めて待った。
隣でエルナが瞼を開く。
若葉色の瞳がミアを映し、ゆっくり細められた。
「おはよう、ミア」
たった一晩を越えただけなのに、長い旅から帰ってきたような安堵が押し寄せた。
「おはよう、エルナ」
「朝は不機嫌ではなかったんですか?」
「今日は特別」
「では、もう少しだけ」
エルナは目を閉じ、ミアの胸元へ額を寄せた。
ミアは淡い髪を撫でる。
書庫を出れば、残された時間は少ない。
それでも二人は、あと少しだけ同じ毛布にくるまっていた。
◇
四つ目と五つ目の星杭を起こす旅は、時間との競走になった。
森を出た二人は馬を乗り継ぎ、凍った湖を渡り、夜も交代で手綱を握った。
大裂が満ちるまで、あと六日。
宿が見つからず、廃屋で肩を寄せた夜もある。固いパンを温める暇もなく、ククの背で齧った朝もある。
それでも、つらいばかりではなかった。
四つ目の星杭がある湖畔で、ミアはエルナへ風の乗り方を教えた。
「目を閉じないで。怖いなら、私の手だけ見て」
「目を閉じたほうが怖くないのでは?」
「着地できなくなります」
「先に言ってください」
二人の身体を風が持ち上げる。
湖面を覆う薄氷の上を滑り、対岸へ渡った。途中でエルナが均衡を崩し、ミアの胸へしがみつく。着地したあとも、しばらく離れなかった。
「もう着きましたよ」
「知っています」
「怖かった?」
「少し。もう少しだけ、このままでいたいです」
誰もいない湖畔で口づけた。
冷えた頬に触れる唇は温かく、二人の吐息が白く混じった。
五つ目の星杭へ向かう草原では、野宿の火を囲んで踊りの練習をした。
「右、左、回って」
「ミア、逆です」
「エルナが逆なんだって」
「向かい合っているから、同じ右ではないと前にも」
足がぶつかり、二人で草の上へ倒れた。
星空の下、目が合う。
「上手くなりませんね」
「次にリノアへ行くまでには」
「いつになりますか?」
「春。無理なら夏。遅くても、次の花灯り祭」
「ずいぶん先です」
「何度だって行けばいいよ」
そう言うと、エルナは眩しそうに微笑んだ。
未来を話すたび、胸の奥には恐れがあった。
けれど二人とも、口にするのをやめなかった。
最後の星杭が光ったのは、大裂が満ちると告げられた日の三日前だった。
五つの光がエルナの胸で一つになり、白い星の形を作る。
「これで、準備は整いました」
エルナが言う。
「うん。あとは王都の教会にある頁を見つける」
「もし、見つからなかったら」
ミアは彼女の唇へ人差し指を当てた。
「帰ってから考えよう」
「言わせてもくれないんですか?」
「今は聞きたくない」
エルナは、その指をそっと握った。
「では、帰りましょう。一緒に」
「うん」
王都が見えたのは、翌日の夕刻だった。
城壁の向こうに、夜が浮かんでいる。
空を覆う大裂は、巨大な黒い瞳のようだった。真昼の光を呑み込み、周囲では稲妻に似た白い筋が走っている。
街道には、都から逃げる人々が列を作っていた。
「星織り様だ!」
誰かがエルナに気づき、声を上げた。
「もう大丈夫だ。星織り様がお戻りになった」
「女神は我々をお見捨てにならなかった」
安堵が波のように広がる。
エルナは人々へ微笑み、励ましの言葉をかけた。その手がミアの外套を掴んでいることには、誰も気づかなかった。