第10話 明日の約束を結び目に

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/12 📚 シリーズ: 夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 📝 2,742文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第10話 明日の約束を結び目に

本文

「青い花を、持っていてください」

 エルナが髪から組紐を外し、ミアの手のひらに置く。

「嫌だ」

「ミア」

「それを渡したら、本当にさよならみたいだ」

「さよならにはしません」

 エルナは泣きながら微笑んだ。

「私が何も覚えていなくても、生きて戻れたら。もう一度、あなたに会わせてください」

「何度でも会うよ」

「蜂蜜菓子も、食べさせてください」

「毎日でも」

「それは、食べすぎです」

 涙で顔をくしゃくしゃにしながら、二人で笑った。

 エルナが、ミアの唇へ口づける。

 別れのためではない。

 必ず戻るという約束のように、強く、長く。

 唇が離れる。

「愛しています」

 初めての言葉だった。

 嬉しいのに、胸が引き裂かれそうだった。

「私も、愛してる」

 ミアはエルナの手を握り、そして自分から離した。

 エルナは塔へ向かって歩き出す。

 一度も振り返らなかった。

 振り返れば、きっと行けなくなるからだとわかっていた。

 白い扉が閉まる。

 ミアは手のなかの青い花を、強く握った。

 泣いている暇はなかった。

 塔を見上げる。

 五つの星杭から光が伸び、大裂の下へ集まり始めていた。

 多くの心を結べば、糸は夜明けまで切れない。

 星杭は、遠く離れた光を一つにする。

 最後の頁がなくても、できることはある。

 ミアは風渡りの笛を取り出し、夜空へ向けて吹いた。

 鋭い音が、風に乗って王都中へ響く。

「みんなの記憶を借りる」

 誰にともなく、口にする。

「一人から全部奪わせたりしない」

 赤い外套を翻し、ミアは走り出した。

     ◇

 塔の最上階には、屋根がなかった。

 円い壁に囲まれた空の中央で、大裂が口を開けている。

 エルナは祭壇の前に立った。

 風に煽られ、白い衣がはためく。五つの星杭から届いた光は彼女の周囲を巡り、細い糸となって指先へ集まっていた。

 下の街では、人々が逃げ惑っている。

 黒雪に触れた屋根が崩れ、夜獣の遠吠えが響く。

 怖い。

 足が震えていた。

 母の顔を失ったときより、ミアを忘れた朝より、ずっと怖かった。

 これから糸にするのは、思い出の一部ではない。自分を形作るもの、そのほとんどだ。大裂を縫い終えたあと、身体だけは生きていても、エルナという人間は残らないかもしれない。

 手のひらを開く。

 青い花は、もうない。

 ミアに預けてきた。

「さよならには、しません」

 自分が口にした言葉を、もう一度言う。

 たとえ忘れても、彼女は会いに来てくれる。

 また蜂蜜菓子を食べ、また好きになれるかもしれない。

 それは今のエルナにとって救いであり、同時に胸が潰れそうなほど悲しい希望だった。

「始めよ」

 階下から、ハイネの声が届く。

 エルナは胸に手を当てた。

 記憶の底へ指を入れる。

 最初に触れたのは、母の手だった。

 針を持つ細い指。急いでは指先を刺し、痛いと笑っていた人。

 それを糸に変えた。

 一針。

 大裂の端に、白い光が走る。

 母の手が見えなくなる。

 二針。

 白嶺の麓で迎えた朝が消えた。

 青い組紐を髪へ戻し、ある人と初めて名前だけで呼び合った。その人が誰だったのか、もうたどれない。

 三針。

 雪の森へ続く道が消えた。

 古い地図をくれた老司祭も、手をつないで歩いた静かな木々も、白い霞の向こうへ遠ざかる。

 糸はまだ足りない。

 大裂はあまりに広く、縫ったそばから闇が光を引き裂いていく。

 エルナは、次の記憶へ手を伸ばした。

     ◇

 教会の裏手には、風渡りの塔がある。

 道が夜獣に塞がれたとき、国中へ警告を送るためのものだ。最上部に吊られた五つの風鐘は、東西南北と王都の風を拾う。

 ミアは螺旋階段を駆け上がった。

「鐘を全部鳴らす!」

 当直の風渡りが目を見開く。

「全部? 国境が破られたときでも、二つだぞ」

「国の空が破られてる。細かいことはあと!」

 止める間も与えず、中央の台へ飛び乗った。

 杖を掲げ、塔に集まる風を掴む。王都から延びる五本の風路。そのうち三本には、自分たちが通ってきた町の匂いがあった。

 雨に濡れた土。

 花蜜と川の水。

 雪を抱いた針葉樹。

 ミアは息を吸い込んだ。

「星杭のある町へ告げます。星織りを助けてください」

 声を風へ乗せる。

「大切な人と共有する思い出を、一つだけ貸してください。同じ出来事を覚えている二人で手を取り、明日一緒にしたいことを口にしてください。強制ではありません。怖い人は、何もしないでいい。わからない人も、差し出さないでください」

 風鐘が鳴る。

 五つの音が重なり、声を遠くへ運んでいく。

「一人の記憶ですべてを救うのではなく、みんなの記憶で、一人を助けてください」

 風が途切れた。

 これで正しいのかはわからない。

 最後の頁に何が書かれていたのかも知らない。

 ただ待つことしかできない時間は、すぐに終わった。

 北の風鐘が、一度鳴る。

 返事だ。

 風の向こうから、老女の声が聞こえた。

『聞こえるかい、赤い外套のお嬢さん』

 水門を直した村の人だった。

『うちの爺さんと、あの日のことを覚えてる。聖女様が泥だらけになって、六つも土嚢を運んだ日のことさ』

 別の、しわがれた声が続く。

『明日は壊れた納屋を直す。婆さんに一人で屋根へ上がらせんよう、見張るつもりだ』

『あたしがあんたを見張るんだよ』

 いつものように言い合っているのだろう。

 二人の笑い声とともに、淡い糸が風路を走った。

 次に、東の鐘が鳴る。

『お姉ちゃん、聞こえる?』

 リノアで助けた女の子だった。

『お母さんと、花灯りを拾ったこと、覚えてるよ。明日は新しいのを作るの。青いお花の形にする』

『星織り様にも見せようね』

 母親の声が重なる。

 川の光を映した糸が、王都へ届いた。

 一つ、また一つ。

 湖畔の漁師たち。白嶺の老司祭と、幼いころから仕える寺男。名も知らない旅人や、王都から逃げずに残った家族。

 同じものを見た二人が手を取り、明日の話をする。

 糸が、風鐘の周りへ集まり始めた。

「何をしている」

 低い声に振り向く。

 階段の入口に、ハイネが立っていた。

「古い儀式です」

「やめろ。今すぐ鐘を止めろ」

「嫌です」

「何人を危険にさらすつもりだ」

「誰にも無理はさせていません」

「善意で差し出した者が、何を失うかわかっているのか!」

「わかりません」

 ミアはまっすぐ答えた。

「だから、教えてください。最後の頁には何が書いてあるんですか」

 ハイネの表情が強張る。

「二人が同じ記憶を差し出せば、糸には両端が残る。明日の約束を結び目にすれば、縫い終えたあと、互いのもとへ記憶を引き戻せる。そう書いてあるんじゃないですか」

「なぜ、それを」

「織物を見ればわかります。みんな一人ではなかった。隣の人と手をつないでいた」

 ハイネは、風鐘を囲む光を見た。

「先代の儀式では、国王が民を集めた。何を差し出すかも、誰と組むかも選ばせなかった。同じ未来など願っていない者たちを、一つの輪へ縛りつけた」

「だから失敗した」

「条件を揃えても、成功する保証はない。記憶は目に見えず、人の心は測れない」

「一人の心なら、失ってもいいんですか」

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