第12話 もう一度の朝

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/12 📚 シリーズ: 夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 📝 2,510文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第12話 もう一度の朝

本文

甘い匂いがした。

 蜂蜜と、焼いた小麦の匂い。

 エルナはゆっくり目を開いた。

 白い天井。薄いカーテン。窓から差し込む朝の光。

 ここがどこなのか、すぐにはわからなかった。

 身体を起こそうとすると、右手が重い。

 寝台に伏せた女性が、手を握ったまま眠っていた。赤い外套を椅子の背にかけ、焦げ茶の髪を乱している。

 胸が、温かくなる。

「ミア」

 声にした途端、すべてが戻ってきたわけではなかった。

 むしろ、戻らないものの形がはっきりした。

 王都を出た日のことを、エルナは覚えていない。

 雨宿りをした村も、最初の花灯り祭も、夜獣に襲われた白嶺も。手帳を読めば何があったかはわかる。それでも、自分の目で見た景色としては思い出せなかった。

 母の顔も、針を持つ手も、白い穴のままだった。

 けれど雪の書庫で、ミアを好きになった夜は覚えている。

 湖の上を風で渡ったことも、草原で踊ったことも。塔へ向かう前に交わした口づけも、最後の一針を二人で縫ったことも。

 失ったものは戻らず、守れたものはここにある。

 エルナは指先を動かし、眠るミアの手を握り返した。

「朝ですよ」

 ミアの肩が跳ねた。

 勢いよく顔を上げ、椅子を倒しかける。

「エルナ?」

「はい」

「私が誰かわかる?」

「ミア・レイン。風渡り。朝は少し不機嫌で、縫い物が苦手。蜂蜜菓子と、知らない道と、雨上がりの匂いが好き」

「干し葡萄は?」

「嫌いです」

「迷子には?」

「よくなります」

「それは違う」

 ミアは泣きながら笑った。

 立ち上がり、エルナを抱きしめる。腕の力が強く、まだ少し痛む身体には苦しいほどだった。

「七日も眠ってた」

「そんなに」

「何度呼んでも起きなくて。治癒師は大丈夫だと言ってたけど、もしこのまま」

 声が途切れる。

 エルナは、震える背を撫でた。

「待っていてくれたんですね」

「いるって言ったから」

「覚えています」

 ミアの身体が止まった。

「最後のことも?」

「愛していると、言ってくれたことも」

「エルナが先に言ったんだよ」

「そうでした」

「そこ、大事だから」

「手帳に書いておきます」

「覚えてて」

 顔を見合わせ、笑う。

 そのまま、ミアが額を寄せた。

「口づけてもいい?」

「前は聞かなかったのに?」

「起きたばかりだから」

「では、お願いがあります」

「何?」

「もう少し、近くに」

 エルナはミアの襟を引いた。

 唇が重なる。

 朝の光のなかで交わす口づけは、別れの前より穏やかだった。急がなくても、次がある。そう信じられる触れ方だった。

 離れたあと、ミアの頬に触れる。

「蜂蜜の匂いがします」

「目が覚めたとき食べられるように、毎朝買ってたから」

「七日分?」

「古いのは私が食べました」

「食べすぎです」

「祭りのあとだから、女神様は数えません」

「七日間も?」

「大裂を閉じた祝いです」

 ミアは皿から蜂蜜焼きを取り、半分に割った。

 差し出されたものを一口齧る。

 甘さが舌に広がった。

「おいしい」

 思わず目を見開くと、ミアが泣きそうに笑う。

「そこは変わらないね」

「以前も、同じ顔を?」

「いつも」

 覚えていない過去を聞くと、まだ胸は痛む。

 それでも、知らない自分をミアの中に見つけることは、失ったものに触れるだけではなかった。

 二人で過ごしてきた証を、少しずつ受け取ることでもある。

「教えてください」

「何を?」

「私が忘れたことを。全部でなくて構いません。あなたが話したいときに」

「つらくならない?」

「つらいと思います」

 エルナは正直に答えた。

「でも、聞きたいです。あなたが覚えていてくれた私のことを」

 ミアは少し考え、寝台の端へ腰を下ろした。

「最初に会ったとき、エルナは花壇で青い花を拾ってた」

「あの組紐と同じ花ですか?」

「そう。踏まれそうだったからって」

「摘んだら同じなのに」

「同じことを言ってた」

 二人の話は、昼近くまで続いた。

 命を縫うために失った最初の旅。語り直しても、それがエルナ自身の記憶になることはない。

 それでいいとは、まだ思えなかった。

 けれど悲しいときには、悲しいと言える。

 隣には、その痛みを急いで消そうとせず、一緒に抱えてくれる人がいた。

     ◇

 王都の被害は大きかった。

 黒雪で崩れた家。夜獣に傷つけられた人々。戻った記憶に泣き、抱き合う者たち。

 それでも、大裂は閉じた。

 星杭へ記憶を預けた人々の多くは、約束を結んだ相手と語り合ううちに、失ったものを取り戻した。細部が曖昧になった者もいたが、自分の名や大切な人を失った者はいなかった。

 教会は、古い儀式の記録をすべて公開した。

 星織りを一人きりで育てる制度も、廃止されることになった。各地の小さな天裂は、星杭を介して複数の術者と希望者が縫う。誰かの記憶を差し出すときは、必ず本人の意思を確かめ、同じ記憶を持つ相手と明日の約束を結ぶ。

 それはまだ、始まったばかりの仕組みだった。

 間違いも起こるだろう。失われたものが、制度を変えただけで返ってくるわけでもない。

 退院を翌日に控えた夕方、ハイネが病室を訪れた。

 祭司長の白い衣ではなく、飾りのない黒い服を着ている。

「このたびの責任を取り、祭司長を退いた」

「そうですか」

「謝って済むとは思っていない。私は古い術を隠し、君を一人の犠牲にしようとした。教会は君から、選ぶために必要な人生そのものを奪っていた」

 ハイネは深く頭を下げた。

 エルナは、すぐに答えなかった。

 幼いころから世話をしてくれた人でもある。

 母を亡くした夜、朝まで扉の外に座っていたことを、手帳の記録で知っている。

 けれど同時に、旅の先を望まないよう育てた人でもあった。

「今すぐ、許すとは言えません」

「ああ」

「あなたを恨むことも、簡単ではありません。大切にされたことも、閉じ込められていたことも、どちらも本当ですから」

 ハイネは顔を上げた。

「それでも、変えようとしてくださるなら。新しい仕組みを作るお手伝いはします」

「教会へ戻ってくれるのか」

「いいえ」

 エルナは首を振った。

「手伝うことと、ここで暮らすことは別です」

 ハイネは驚いたあと、わずかに笑った。

「旅で、ずいぶん変わったな」

「以前から、頑固だったそうです」

 病室の窓辺で、ミアが吹き出した。

「それは変わってません」

「聞いていたのか」

「ずっとここにいました」

「気づかなかった」

「赤い外套がないと、意外と目立たないんです」

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