第12話 もう一度の朝
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第12話 もう一度の朝
本文
甘い匂いがした。
蜂蜜と、焼いた小麦の匂い。
エルナはゆっくり目を開いた。
白い天井。薄いカーテン。窓から差し込む朝の光。
ここがどこなのか、すぐにはわからなかった。
身体を起こそうとすると、右手が重い。
寝台に伏せた女性が、手を握ったまま眠っていた。赤い外套を椅子の背にかけ、焦げ茶の髪を乱している。
胸が、温かくなる。
「ミア」
声にした途端、すべてが戻ってきたわけではなかった。
むしろ、戻らないものの形がはっきりした。
王都を出た日のことを、エルナは覚えていない。
雨宿りをした村も、最初の花灯り祭も、夜獣に襲われた白嶺も。手帳を読めば何があったかはわかる。それでも、自分の目で見た景色としては思い出せなかった。
母の顔も、針を持つ手も、白い穴のままだった。
けれど雪の書庫で、ミアを好きになった夜は覚えている。
湖の上を風で渡ったことも、草原で踊ったことも。塔へ向かう前に交わした口づけも、最後の一針を二人で縫ったことも。
失ったものは戻らず、守れたものはここにある。
エルナは指先を動かし、眠るミアの手を握り返した。
「朝ですよ」
ミアの肩が跳ねた。
勢いよく顔を上げ、椅子を倒しかける。
「エルナ?」
「はい」
「私が誰かわかる?」
「ミア・レイン。風渡り。朝は少し不機嫌で、縫い物が苦手。蜂蜜菓子と、知らない道と、雨上がりの匂いが好き」
「干し葡萄は?」
「嫌いです」
「迷子には?」
「よくなります」
「それは違う」
ミアは泣きながら笑った。
立ち上がり、エルナを抱きしめる。腕の力が強く、まだ少し痛む身体には苦しいほどだった。
「七日も眠ってた」
「そんなに」
「何度呼んでも起きなくて。治癒師は大丈夫だと言ってたけど、もしこのまま」
声が途切れる。
エルナは、震える背を撫でた。
「待っていてくれたんですね」
「いるって言ったから」
「覚えています」
ミアの身体が止まった。
「最後のことも?」
「愛していると、言ってくれたことも」
「エルナが先に言ったんだよ」
「そうでした」
「そこ、大事だから」
「手帳に書いておきます」
「覚えてて」
顔を見合わせ、笑う。
そのまま、ミアが額を寄せた。
「口づけてもいい?」
「前は聞かなかったのに?」
「起きたばかりだから」
「では、お願いがあります」
「何?」
「もう少し、近くに」
エルナはミアの襟を引いた。
唇が重なる。
朝の光のなかで交わす口づけは、別れの前より穏やかだった。急がなくても、次がある。そう信じられる触れ方だった。
離れたあと、ミアの頬に触れる。
「蜂蜜の匂いがします」
「目が覚めたとき食べられるように、毎朝買ってたから」
「七日分?」
「古いのは私が食べました」
「食べすぎです」
「祭りのあとだから、女神様は数えません」
「七日間も?」
「大裂を閉じた祝いです」
ミアは皿から蜂蜜焼きを取り、半分に割った。
差し出されたものを一口齧る。
甘さが舌に広がった。
「おいしい」
思わず目を見開くと、ミアが泣きそうに笑う。
「そこは変わらないね」
「以前も、同じ顔を?」
「いつも」
覚えていない過去を聞くと、まだ胸は痛む。
それでも、知らない自分をミアの中に見つけることは、失ったものに触れるだけではなかった。
二人で過ごしてきた証を、少しずつ受け取ることでもある。
「教えてください」
「何を?」
「私が忘れたことを。全部でなくて構いません。あなたが話したいときに」
「つらくならない?」
「つらいと思います」
エルナは正直に答えた。
「でも、聞きたいです。あなたが覚えていてくれた私のことを」
ミアは少し考え、寝台の端へ腰を下ろした。
「最初に会ったとき、エルナは花壇で青い花を拾ってた」
「あの組紐と同じ花ですか?」
「そう。踏まれそうだったからって」
「摘んだら同じなのに」
「同じことを言ってた」
二人の話は、昼近くまで続いた。
命を縫うために失った最初の旅。語り直しても、それがエルナ自身の記憶になることはない。
それでいいとは、まだ思えなかった。
けれど悲しいときには、悲しいと言える。
隣には、その痛みを急いで消そうとせず、一緒に抱えてくれる人がいた。
◇
王都の被害は大きかった。
黒雪で崩れた家。夜獣に傷つけられた人々。戻った記憶に泣き、抱き合う者たち。
それでも、大裂は閉じた。
星杭へ記憶を預けた人々の多くは、約束を結んだ相手と語り合ううちに、失ったものを取り戻した。細部が曖昧になった者もいたが、自分の名や大切な人を失った者はいなかった。
教会は、古い儀式の記録をすべて公開した。
星織りを一人きりで育てる制度も、廃止されることになった。各地の小さな天裂は、星杭を介して複数の術者と希望者が縫う。誰かの記憶を差し出すときは、必ず本人の意思を確かめ、同じ記憶を持つ相手と明日の約束を結ぶ。
それはまだ、始まったばかりの仕組みだった。
間違いも起こるだろう。失われたものが、制度を変えただけで返ってくるわけでもない。
退院を翌日に控えた夕方、ハイネが病室を訪れた。
祭司長の白い衣ではなく、飾りのない黒い服を着ている。
「このたびの責任を取り、祭司長を退いた」
「そうですか」
「謝って済むとは思っていない。私は古い術を隠し、君を一人の犠牲にしようとした。教会は君から、選ぶために必要な人生そのものを奪っていた」
ハイネは深く頭を下げた。
エルナは、すぐに答えなかった。
幼いころから世話をしてくれた人でもある。
母を亡くした夜、朝まで扉の外に座っていたことを、手帳の記録で知っている。
けれど同時に、旅の先を望まないよう育てた人でもあった。
「今すぐ、許すとは言えません」
「ああ」
「あなたを恨むことも、簡単ではありません。大切にされたことも、閉じ込められていたことも、どちらも本当ですから」
ハイネは顔を上げた。
「それでも、変えようとしてくださるなら。新しい仕組みを作るお手伝いはします」
「教会へ戻ってくれるのか」
「いいえ」
エルナは首を振った。
「手伝うことと、ここで暮らすことは別です」
ハイネは驚いたあと、わずかに笑った。
「旅で、ずいぶん変わったな」
「以前から、頑固だったそうです」
病室の窓辺で、ミアが吹き出した。
「それは変わってません」
「聞いていたのか」
「ずっとここにいました」
「気づかなかった」
「赤い外套がないと、意外と目立たないんです」