『天津守護』-I'll never lose my mind
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【あらすじ】 十三年前、紫黒い天蓋と異形の怪異に閉ざされた魔都・東京。時間の流れが狂った結界の中で13年間閉じ込められていた17歳の少年・大神護(おおがみ まもる)と、外界から彼を救うために戦い続けた27歳の特殊部隊元隊長・神崎志乃(かんざき しの)。 崩れかけた廃屋で分け合った不味いスープ、指先を傷だらけにして削られた手作りのオルゴール。世界を繋ぎ止める人柱「天津守護」となった護は、「生きろ」という言葉と手作りのオルゴールを志乃に遺し、光となって消え去ってしまう。 あの日から、志乃は生涯誰とも婚姻を結ばず、ただ一人「大神護」という少年だけを愛し続けた。甥や姪、その子どもたち(孫世代の葵)を我が子のように愛し、生涯の戦友・風間とともに復興の時代を泥を啜って生き抜いた志乃。 そして50年以上の歳月が流れたある夕暮れ。80歳を超え、愛する家族と仲間に囲まれて穏やかに人生を全うした志乃の前に、あの日と変わらぬ17歳の姿で護が手を差し伸べにやってくる――。 【こんな人におすすめ!】 一途で切ない「純愛・生涯愛」ストーリーで泣きたい方 歳の差・時間の歪み・運命に翻弄される重厚なドラマが好きな方 悲劇で終わらず、長年の想いが報われる美しいハッピーエンドを読みたい方 戦友としての絆や、復興を支える温かな家族愛に触れたい方 0話含め全57話(最終回56話)
本文
第6話:『雨の記憶』
視界をすべて塗り潰すように、ただ激しく、冷たい水滴が降り注いでいた。
ザーザーと、鼓膜の奥を絶え間なく揺らし続ける雨の音。それは世界のあらゆる雑音をかき消し、ただ一つの境界線だけをそこに形作っている。
その雨の中で、護は誰かと並んで歩いていた。
視線を落とせば、水たまりを跳ねる自分の足元が見える。身に纏っているのは、今着ているような戦闘用の引き締まった衣服ではなく、どこかサイズが合っていなくて動きにくい、紺色の古いブレザーの制服だった。
隣には、誰かがいる。
背丈は自分より少しだけ低く、差し掛けられた赤い傘のせいで、その顔はどんなに目を凝らしても見えない。ただ、濡れたセーラー服の裾と、その人が一歩進むたびに微かに漂う、雨の匂いに混ざった微かな潮風のような香りが、狂おしいほどの現実感を持って護の五感を揺さぶっていた。
何かを話しかけようとする。けれど、喉が張り付いたように声が出ない。
手を伸ばして、その赤い傘の柄に触れようとした瞬間――。
バキバキと、世界のガラスが割れるような悍ましい地鳴りが響き、目の前の空間が紫黒色の瘴気によって引き裂かれた。
「――っ!」
護は、荒い呼吸と共に勢いよく跳ね起きた。
崩壊したビルの一室。窓の外からは、いつも通りのどんよりとした紫黒い霧が部屋の奥へと忍び寄っている。
護は自分の胸元を強く掴んだまま、しばらくの間、荒くなった呼吸を整えることができなかった。額からは冷たい汗が流れ落ち、首筋を伝っていく。
「また、あの夢だ……」
記憶がない、という感覚は決して目に見える痛みではない。ただ、自分の内側にぽっかりと穿たれた巨大な穴を、冷たい風が通り抜けていくような、形のない「喪失感」だ。
夢の中で感じたあの圧倒的な切なさと、胸が張り裂けそうになるほどの愛おしさ。それは脳が覚えている『記憶』ではない。肉体の細胞一つ一つが記憶している、消せない『感覚』そのものだった。
護は寝癖のついた頭を乱暴に掻きむしると、ベッドから這い出た。
今日は朝から、外界の調査部隊との合同哨戒任務が入っている。深く考えるのをやめるように頭を振り、護はいつものように、自分を「普通の大神護」へと仕立て上げるために、制服のブレザーへと袖を通した。
避難民シェルターの東側ゲート前。紫黒い霧が朝の冷気と混ざり合い、視界は十メートル先も見通せないほどに悪かった。
定刻の数分前。護がゲートに到着すると、そこにはすでに、あの黒い戦闘服を纏った大人の女性――神崎志乃が佇んでいた。背中に背負った巨大な狙撃銃のケースが、霧の中で異様な存在感を放っている。
「おはよう、神崎さん」
護はいつものように、努めて明るい声を出して手を挙げた。誰に対しても崩さない、彼なりの親しみやすい「日常」のトーン。
志乃はゆっくりと振り返り、その鋭く美しい双眸で護を見つめた。
「おはよう、護くん」
昨日から彼女が口にするようになった「護くん」という響きが、再び護の胸の奥の琴線を小さく弾く。けれど、今の護にはそれが不思議と心地よかった。
二人は言葉を交わすことなく、霧の中へと歩き始めた。
並んで歩く歩幅。足音のテンポ。
不思議なことに、昨日あれほど強く感じた「近すぎる距離感への戸惑い」は、今日の護の中にはほとんど残っていなかった。むしろ、彼女が自分の右側にいるという事実が、昨晩の悪夢で擦り減った彼の心を、驚くほどの速さで満たしていく。
何も喋らなくても気まずくない「沈黙」。
他人であれば感じるはずの警戒心が、彼女の隣にいるだけで完全に霧散してしまう。
(やっぱり、変だな)
護は前方を警戒しながら、選ばなかった言葉を飲み込み、心の中でだけ首を傾げた。
自分は彼女のことを何も知らない。昨日出会ったばかりの、外界の優秀な戦士。それなのに、どうして自分の肉体は、こんなにも彼女を信頼しきっているのだろう。まるで、夢の中で顔の見えなかった「あの人」の輪郭に、彼女の存在がぴったりと重なるかのような――。
その時、霧の奥からギチギチと不気味な関節音が響いた。
怪異の気配。
志乃の動きは疾風のようだった。護が刃を抜くよりも早く、背中の重火器を構え、銃身に刻まれた術式を起動させる。
ドン、と重い銃声が霧を裂き、死角から飛び出そうとしていた怪異の頭部を正確に消し飛ばした。灰となって崩れ落ちる怪物の向こう側で、志乃は何の感慨もなさそうに銃口を下げる。
「……見事なもんだね。相変わらず隙がない」
護は素直な称賛を口にした。
「あなたこそ、私の動きに完璧に合わせてカバーに入ろうとしていたわ。教えてもいないのに、息がぴったりね」
志乃が、少しだけ声音を和らげて言った。
「あはは、本能ってやつかな」
護は照れくさそうに笑いながら、頭の後ろで手を組んだ。その屈屈のない笑い方は、地獄のようなこの世界において、奇跡のような人間味を放っている。
哨戒ルートの折り返し地点に着く頃、空からは紫黒い霧を吸い込んだ、ねっとりとした暗い雨がポツポツと降り始めていた。
魔都東京の雨は、肌を刺すように冷たく、浴び続ければ瘴気汚染を進める有害なものだ。
二人は近くの壊れたバスの停留所の屋根の下へ逃げ込み、雨宿りをすることにした。
激しくなる雨音が、コンクリートの屋根を叩く。
護は、屋根の隙間から流れ落ちる雨の雫をじっと見つめていた。
ザーザーと響くその音は、今朝見たあの夢の音と、驚くほどよく似ていた。
いつもなら、この有害な雨は「早く止まないかな」と嫌悪する対象でしかなかったはずだ。この雨のせいで、街は滅び、自分は孤立し、多くのものが失われたのだから。
なのに、不思議だった。
今、神崎志乃と二人で並んでこの音を聞いていると、胸の奥にある空白が、温かい何かで満たされていくような気がした。
「……神崎さん」
護は、雨を見つめたまま呟いた。
「何?」
志乃が、静かに彼の方を向く。
護は少しだけ照れくさそうに唇を尖らせ、自分の胸の奥から湧き上がった不思議な『感覚』を、そのまま言葉にして吐き出した。
「俺さ、記憶がないから、昔の自分が雨をどう思ってたか知らないんだけど」
護は振り返り、志乃の目を真っ直ぐに見つめた。そこには、三年間必死に人間らしくあろうとしてきた少年の、ありのままの素直な笑みがあった。
「いま、こうしてあんたと一緒に雨の音を聞いてるとさ。……雨、嫌いじゃないかもって、思ったんだ」
その瞬間、志乃の身体が目に見えて強張った。
志乃の息が、ピタリと止まる。
彼女の美しい瞳が大きく見開かれ、その奥で、十三年分の決意と切なさが激しく奔流となって渦巻くのを、護は見た。
彼女の手が、何かを選び取ろうとするように微かに震え、そして、何も言わずにぎゅっと握り締められた。
沈黙。
降り続く雨の音だけが、二人の間に横たわる十三年というあまりにも残酷な距離を、静かに埋めていく。
「……神崎さん?」
護が不思議そうに首を傾げた時、志乃はゆっくりと顔を伏せ、選ばなかった全ての言葉を飲み込んで、ただ静かに仮面を被り直した。
護には分からない。自分が何気なく口にしたその一言が、あの日の二子玉川駅で、赤い傘を差した少女に伝えたかった「選べなかった言葉」の破片そのものだったということを。
記憶はなくても、魂はあの日の約束を、雨の温もりを覚えている。
そのかすかな兆しを残したまま、理不尽な運命の歯車は、次なる過酷な事件へと二人を巻き込んでいく。
【第6話 『雨の記憶』 終わり】
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