『天津守護』-I'll never lose my mind
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【あらすじ】 十三年前、紫黒い天蓋と異形の怪異に閉ざされた魔都・東京。時間の流れが狂った結界の中で13年間閉じ込められていた17歳の少年・大神護(おおがみ まもる)と、外界から彼を救うために戦い続けた27歳の特殊部隊元隊長・神崎志乃(かんざき しの)。 崩れかけた廃屋で分け合った不味いスープ、指先を傷だらけにして削られた手作りのオルゴール。世界を繋ぎ止める人柱「天津守護」となった護は、「生きろ」という言葉と手作りのオルゴールを志乃に遺し、光となって消え去ってしまう。 あの日から、志乃は生涯誰とも婚姻を結ばず、ただ一人「大神護」という少年だけを愛し続けた。甥や姪、その子どもたち(孫世代の葵)を我が子のように愛し、生涯の戦友・風間とともに復興の時代を泥を啜って生き抜いた志乃。 そして50年以上の歳月が流れたある夕暮れ。80歳を超え、愛する家族と仲間に囲まれて穏やかに人生を全うした志乃の前に、あの日と変わらぬ17歳の姿で護が手を差し伸べにやってくる――。 【こんな人におすすめ!】 一途で切ない「純愛・生涯愛」ストーリーで泣きたい方 歳の差・時間の歪み・運命に翻弄される重厚なドラマが好きな方 悲劇で終わらず、長年の想いが報われる美しいハッピーエンドを読みたい方 戦友としての絆や、復興を支える温かな家族愛に触れたい方 0話含め全57話(最終回56話)
本文
第28話:『ユラの囁き』
人間を捨てるというのは、崖から飛び降りるような劇的なものではない。
それは、朝の霧が深くなるにつれて周囲の景色が見えなくなるように、静かで、滑らかで、あまりにも緩やかな「消失」だった。
さっきまで感じていたパイプベッドの硬い感触が、急速に遠のいていく。
呼吸をするたびに肺腔を充たしていた、鉄と油脂と湿ったカビの匂い――この地下シェルターの無骨な日常の臭気すら、まるで水底から見上げる泡のように泡立ち、消えていく。
気づけば、大神護(おおがみ まもる)は、純白の空間の中に立っていた。
そこには壁もなく、天井もなく、床すら存在しなかった。ただ、足元と思われる場所から無限の深みへと向かって、無数の枯れた花弁――かつてソメイヨシノと呼ばれていたらしい薄桃色の花びらが、風もないのに静かに舞い落ちていた。
時間の感覚が麻痺していく。
ここには、壊れたデジタル時計のチクタクという針の音も、遠くで響く非常警報のサイレンもない。
ただ、どこか懐かしく、同時に途方もなく巨大な「何か」の脈動だけが、足裏を通して静かに響いていた。
「……また、来たのか」
護の口から漏れた声は、自室で発した時よりもさらに透明で、自分の声ではないように聞こえた。
舞い散る花弁の向こうから、ひとつの影が歩み寄ってくる。
紺色の制服、膝上で揺れるセーラー服の裾、肩で切り揃えられた艶やかな黒髪。
十四歳の頃の神崎志乃と、背格好も、顔立ちも、纏う雰囲気すらも寸分違わず瓜二つの少女。
ユラ。
「ふふ。……『また』じゃないよ、護くん」
ユラは軽やかな足取りで花弁の絨毯を踏み、護の正面――目と鼻の先の距離で足を止めた。
その瞳は、昨日志乃が見せた苦痛と拒絶に満ちた瞳とは対極にあった。一切の濁りがなく、底の底まで澄み切った、どこか悲しげで愛おしそうな湖のような眼差し。
「護くんが、私を呼んだんでしょう? 『ここ』は、あなたが望んだ場所なんだよ」
「俺が……望んだ?」
護は己の手を見つめた。
昼間、老人の死に瀕した肺をただ「手をかざすだけ」で完治させ、避難民たちに神と崇められた右手。
志乃が恐怖に引きつった顔で後ざさり、握りしめていた袖から手をはなした、あの冷たい手。
「そうだよ」
ユラは小さく微笑み、子供が秘密の宝物を見せるように、そっと両手を広げてみせた。
「あの地下の狭いお部屋でね、みんながあなたを恐怖の目で見つめていたでしょう? 神様って崇めながら、本当は化け物みたいに恐れて、遠ざけて……。志乃ちゃんだって、あなたの冷たい手に怯えて、逃げ出してしまった」
ユラの声は、耳の奥で奏でられる子守唄のように甘く、そして残酷に優しかった。
「だって、仕方のないことだもの。彼らは『人間』だもの。自分たちと違う強すぎるもの、理解できないものを、人間は愛せないんだよ」
ユラが一歩、踏み出す。
二人の距離が、わずか数センチに縮まる。
外界の冷気も、地下の湿気も存在しないその空間で、ユラからは大崩壊前の「昔の東京」の匂いがした。満開の桜と、濡れたアスファルトと、もうどこにも存在しない穏やかな午後の陽射しの匂い。
それは、三年間を泥と血の中で生きてきた護にとって、一度も味わったことのないはずの、けれど細胞の記憶が知っている「絶対の平穏」の香りに他ならなかった。
「……志乃さんは」
護は、重く冷えた舌を動かして呟いた。
脳裏に、ひとりの女性の姿が浮かび上がる。
黒い防護服を着て、背中に大型ライフルを背負った女性。
雨の中で一本の傘を差し出し、自分自身の右肩を濡らしながら、涙を流して『私は今……この子を好きになり直している』と微笑んでくれた人。
神崎志乃。
けれど――その面影すら、いまの護の頭の中では、まるで水に濡れた絵の具のように急速に滲み、ぼやけ始めていた。
あの時、自分は志乃に対して何を感じていただろうか。
彼女の手の温もり。彼女が作ると約束してくれた温かいスープの匂い。屋上で『帰る場所って、誰かが待ってる場所なのかもしれない』と語り合った時の、胸が締めつけられるような愛おしさ。
それらが、すべて遠いおとぎ話の出来事のように思える。
悲しくない。悲しくないから、志乃の顔が思い出せなくなっていくことに対しても、何の焦りも湧いてこない。
かつて人間として持っていた「執着」という名の絆が、一本、また一本と音もなくちぎれていく。
「志乃ちゃんはね、可哀想な子」
ユラは首を傾げ、心底からの同情を込めた瞳で護を見つめた。
「十三年間、ずっと止まった時間の中に囚われているの。あなたを『人間』の側に繋ぎ止めようとして、必死に手を伸ばして……でも、その手があなたをどれほど苦しめているか、あの子には分からないんだよ」
ユラがそっと手を伸ばす。
その細く白い指先が、護の胸元――昼間、志乃が掴んで、そして恐怖とともに手放したその場所に、優しく触れた。
志乃の手のような、悲壮な熱はない。
リリスの手のような、異界の不気味な冷たさもない。
ユラの指先から伝わってくるのは、世界そのものが呼吸しているかのような、途方もなく巨大で、静謐な「全肯定」だった。
「もういいんだよ、護くん」
ユラは囁く。
「もう、誰も庇わなくていい。怪異の爪に貫かれて、痛みに耐えて刀を振るわなくてもいい。……あなたが『人間』のフリをして、誰かのために涙を流そうと苦しまなくてもいいんだよ」
「……俺が……人間のフリを……?」
「そうだよ」
ユラは柔らかく微笑み、護の手を包み込んだ。
その触れ合いには、重力も、質量すらも存在しないかのようだった。
「あなたはね、最初からそっちの生き物じゃないの。この街の……壊れてしまったこの東京の、悲しみと記憶をすべて受け止めるために生まれた『核』なんだよ」
東京。
その言葉が響いた瞬間、護の視界が一変した。
白かった空間が、一瞬で透明なガラスのように透けていく。
眼下に広がるのは、雲の上から見下ろした「魔都東京」の全貌だった。
崩落した高層ビル群。紫黒い霧の渦。その影で蠢く無数の怪異たち。
そして、地下シェルターで怯え、傷つき、互いに争いながら必死に生を貪る人間たちの、小さな心臓の鼓動。
それら数百万の生命の「痛み」と「祈り」が、濁流のような情報となって護の脳裏へ直接流れ込んできた。
「あ……」
護は息を呑んだ。
巨大すぎる情報量。普通の人間の脳であれば、一秒と持たずに焼き切れ、狂死してしまうほどの世界の重み。
けれど――護の意識は、それらを何の苦痛もなく、まるで乾いた海綿が水を吸い上げるように、平然と受け止めていた。
痛みがない。
世界全体の悲しみをその身に宿しながら、自分自身は傷つくことも、狂うこともない。
「すごくい心地がいいでしょう?」
ユラが護の頬に両手を添えた。
その瞳の奥に、人間のものではない、この死んだ街そのものが宿す「意志」の揺らぎが、わずかに透けて見えた。
「ここに来れば、誰もあなたを責めない。誰もあなたを『化け物』なんて呼ばない。……あなたがここに満ちるだけで、この街のすべての痛みが消え去るの」
ユラは、誘うように自分の胸元へと護の手を引き寄せた。
「来ない? 護くん。……もう誰も傷つけなくていい場所へ」
ユラの差し出す「救済」。
それは、痛みに満ちた人間世界からの、完全なる解脱だった。
ここへ行けば、可憐の死に涙を流せない自分を責める必要もなくなる。
風間から向けられる恐れと拒絶の視線に晒されることもない。
御門の密命や、外界の争いすらも、すべて遥か眼下の小さな塵の戯言へと変わる。
何より――「大神護」という不完全な17歳の少年の器を捨て、世界の理そのものへと昇華することができるのだ。
(ああ……)
護の胸の中で、最後の抵抗の芽が萎えていく。
楽になりたかった。
記憶もなく、三年間ただ怪異を斬り続け、自分が誰かも分からないまま泥を啜るような日常。
写真の中の「本物の彼」と比べられ、偽物ではないかと怯え続けた日々。
それらすべてから解き放たれ、この静かで透明な無の世界へ溶けてしまえば、どれほど穏やかだろうか。
護の足が、一歩、境界の深みへと踏み出しかけた。
その時だった。
『――護くん!』
耳奥で、幻聴のような声が響いた。
ユラの透き通った声ではない。
もっと低く、掠れていて、悲鳴のような絶望と、狂おしいほどの熱を帯びた声。
雨の音。
一本の黒い傘。
右肩を濡らしながら、泣き顔で自分を見つめていた女性の姿。
『お願いだから……私を置いていかないで……っ!』
「……っ」
護の足が、ピタリと止まった。
胸の奥、完全に死に絶えたと思っていた領域で、固く凍りついていた何かが、ほんのわずか――針の先ほどだけ、疼いた。
志乃。
名前が、胸の底から泡となって浮かび上がってきた。
写真の中の14歳の彼女ではない。
27歳になり、大人になり、傷つきながらも自分を探し続けてくれた、あの「神崎志乃」。
「……志乃……さん……」
護の口から、掠れた声が漏れた。
ユラの表情が、ほんの少しだけ悲しそうに曇った。
「まだ……その名前を呼ぶの?」
ユラは静かに首を振った。その指先が、護の手からそっと離れていく。
「可哀想な護くん。……その名前が、あなたを一番傷つける枷なのに」
ユラは数歩、後ざさった。
彼女の背後に、再び無数のソメイヨシノの枯れた花弁が舞い散り、真っ白な空間が濁った紫黒い霧へと侵食され始める。
「でもね、時間はもうないよ」
ユラは境界の向こう側へと溶け込みながら、最後にもう一度、可憐で、どこか恐ろしい微笑みを浮かべた。
「あなたの身体はもう、半分以上『こちら側』に来ているの。……志乃ちゃんの手じゃ、もうあなたを繋ぎ止めることはできない」
「待て……ユラ……お前は……」
護が手を伸ばそうとした瞬間。
ゴォォォォン……!!
地響きのような恐ろしい全界の振動が、護の意識を強烈に引き戻した。
白かった世界がガラスのように砕け散る。
ユラの姿も、舞い散る花弁も、透明な東京の全貌も、すべてが泡となって消え去っていく。
「っ……ハァ、ハァ……っ!」
護は、跳ね起きるように目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、自室のパイプベッドと、チチチと不規則な雑音を立てる薄汚れた蛍光灯の白光だった。
湿ったカビと鉄の臭い。地下シェルターの、無骨で泥臭い現実の空気が、痛いほどに肺を満たす。
護は、激しく上下する自分の胸に手を当てた。
(今のは……夢……なのか?)
いや、夢ではない。
護は自分の右手を持ち上げた。
蛍光灯の光に透かされた自分の右手が――指先の皮膚が、光の粒子のように、かすかにチラチラと透けていた。
物質としての肉体が、世界の理(概念)へと溶け出し始めている証拠。
ユラが言った通りだった。護の身体は、すでに人間としての存在の限界を迎え、この世界から「消失」しようとしていたのだ。
「……俺は……」
護は、掠れた声で呟いた。
自分が何者なのか。
自分は人間なのか、怪物なのか、それともこの街の意志そのものなのか。
答えは出なかった。
ただ、胸の奥に残された小さな痛みの痕跡だけが、彼がかつて「人間」であったことの唯一の証明として、虚しく脈打っていた。
その頃。
作戦本部の暗い部屋で、神崎志乃は冷や汗を流して飛び起きていた。
胸が、千切れそうなほど痛む。
胸騒ぎなどという生ぬるいものではなかった。
いま、この瞬間にも、大切など何か――己の命よりも大切な存在が、世界の果てへとすり抜け、消え去ろうとしているという、絶対的な直感。
「護くん……!?」
志乃はベッドから跳ね起き、補衛用の防護服を羽織るのも忘れて、廊下へと飛び出した。
足音が、静まり返った地下通路に響く。
志乃の頭の中に浮かんでいたのは、御門からの密命でも、外界の追手でもなかった。
ただひとつ――護のもとへ行かなければならないという、狂気にも似た焦燥感だけだった。
扉を蹴破るようにして、志乃は護の部屋へと足を踏み入れた。
「護くんっ――!」
パイプベッドの上に座っていた護が、ゆっくりと顔を上げた。
その姿を目撃した瞬間、志乃の絶叫が喉の奥で凍りついた。
パイプベッドの上に座る少年の身体。
彼の右腕が、そして脚の先が――まるで紫白色の光の粒子となって、空気中に溶け出すように、静かに透け始めていたのだ。
「あ……あぁ……っ」
志乃の手から、抱えていた懐中電灯が床へと落ち、乾いた音を立てた。
消失の兆候。
少年は、いま、志乃の目の前で――この世界から完全に消え去ろうとしていた。
【第28話 『ユラの囁き』 終わり】
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