旅行代理店(三)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
長編&連作 作品集
本文
旅行代理店(三)
【消えない匂い】
ツアーから戻って数日、佐藤純の日常は変わらず流れていく。事務所のデスク、次の団体予約の電話、参加者からの問い合わせ。忙しさは、以前とまったく同じ形をしていた。
けれど、何かが以前と違う。
たとえば、ふとした瞬間に鼻先をよぎる、あの甘い香り。ロビーに足を踏み入れた瞬間に感じた匂いが、資料をめくっているときや、窓を開けたときに、唐突に蘇る。周りを見回しても、香りの元になるものは何もない。
隣のデスクの婚約者も、様子が少し変わったように見える。仕事ぶりに乱れはない。むしろ以前より、どこか落ち着いた雰囲気を纏っているようにさえ感じられた。
「あのツアー、また問い合わせが来てるんですよ」
ある日、彼女がそう報告してきた。
「同じホテルへ?」
「はい。今度は別の団体さんから」
純は、資料を受け取りながら、胸の奥にかすかな引っかかりを覚える。だが、それが何を意味するのか、うまく言葉にできない。
「あのとき撮った写真、消してしまったんですか」
彼女がふと尋ねる。純は首を横に振り、スマートフォンを取り出す。だが、あの日撮ったはずの記念写真は、どこを探しても見当たらなかった。フォルダにも、ゴミ箱にも。まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。
「変ですね」
彼女はそう言って、それ以上は追及しない。純の胸の奥で、何かが小さく波立った。だが、それもすぐに、日々の忙しさの中へ溶けて消えていく。
【記録の中のホテル】
その週末、純は自宅で、あのホテルのことを調べてみることにした。
検索窓に、宿泊施設の名前を打ち込む。だが、出てくるのは無関係な結果ばかり。地図アプリで同じ場所を開いても、表示されるのは施設名のない、青く塗られた水域だけだった。
——地図には、確かに名前が出ていたはずだ。
あの日、婚約者がスマートフォンを覗き込みながら「うん、この道で合ってる」と言っていた光景を、純ははっきりと覚えている。だが今、同じ地図を開いても、そこにはただ、輪郭のはっきりした湖が広がっているだけだった。
地域の資料館のサイトを見つけ、古い写真のアーカイブをたどってみる。ダム建設前後の集落を写した写真の中に、見覚えのある建物が一枚だけ紛れていた。解説には短い一文が添えられているだけで、それ以上の記述はない。写真の隅に写る人々の顔は、ぼやけて判別できなかった。
純は、その写真を長い間見つめた。何かを思い出しかけているような、思い出してはいけないような、奇妙な感覚が胸の中で拮抗していた。ふと、母がかつて「もうなくなった場所だから」と口にしたことを思い出した。あの一言と、目の前の写真とが、静かに重なっていく。
パソコンを閉じ、部屋の明かりを消す。それでも、まぶたの裏には、あの白い建物と、噴水の水音とが、いつまでも居座り続けていた。
【再びの依頼】
翌週、事務所の電話が鳴った。
「このツアー、担当をお願いします」
本社からの連絡だった。行き先を聞いた瞬間、純の指先が、受話器の上でわずかに止まった。同じホテル。今度は、また別の団体からの依頼だという。
断るべきだ、と頭のどこかでは分かっていた。写真が消えたことも、地図から名前が消えたことも、本来なら誰かに相談すべき異常のはずだった。それなのに、純の口からは、まったく逆の言葉が出てきた。
「純さん、大丈夫ですか」
婚約者が、心配そうにこちらを覗き込んだ。純は、少し間を置いてから答えた。
「ああ——大丈夫だ。担当しよう」
自分の声が、思っていたより落ち着いていることに、純自身が驚く。断るという選択肢が、なぜか頭に浮かんでこない。それどころか、受話器を置いた瞬間、胸の奥にじんわりと広がっていくのは、恐れではなく、どこか懐かしさに似た感覚だった。
——もう一度、あの庭に立ちたい。
そう思う自分がいることに、純はうっすらと気づいていた。理由を突き詰めれば、それが恐ろしい欲求だということは分かる。だが、分かっていてなお、その引力に逆らう気持ちが起きてこない。まるで、深く冷たい水の底に何かを落としてしまい、それを拾いに戻らずにはいられないような感覚だった。
窓の外を眺めた。特別な景色があるわけでもない、いつもの通りが広がっているだけだ。
それなのに、純の中では、まだ見ぬはずの庭園と、円いプールの輪郭が、すでにはっきりと像を結び始めていた。
隣のデスクで、婚約者が静かに微笑んでいる。純もまた、気づかぬうちに、同じ表情を浮かべていた。
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