風が生まれる場所3
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あらすじ
風、凪ぐ頃の後日譚ですが、初めての方でも読めます。 未来世界でも紙の本は残っていた。 これは図書館の司書と、少し変わった常連客との、静かな物語。
本文
第十一章 凪の選んだ場所
次の非番の日、凪は、待ち合わせの場所に、いつもより早く着いていた。
手には、小さなメモ帳があった。
「おはようございます。」
凛が来ると、凪は、メモ帳を鞄にしまいながら、立ち上がった。
「おはようございます。それ、何のメモですか。」
「――今日の、順路です。」
「順路?」
「はい。歩く道と、時間を、確認していました。」
凛は、少し笑った。
「そんなにきっちり計画立てたんですか。」
「――念のため、です。」
***
向かった先は、バスで三十分ほどの場所にある、小さな集落だった。
終点でバスを降りると、周囲には、古い赤瓦の家々が並んでいた。
観光地化されていない、静かな街並みだった。
「ここ、初めて来ました。」
凛が言うと、凪は、頷いた。
「訓練の移動中に、地図で見つけました。実際に来たのは、先週が初めてです。」
「先週、下見したんですか。」
「はい。」
短い返事だった。
けれど、その一言に、凛は、小さく口元を緩めた。
***
集落の中心には、大きなフクギの並木道があった。
木々が、道の両側に高く伸び、緑のトンネルのようになっている。
「涼しいですね、ここ。」
「はい。防風林として、植えられたものだそうです。」
「台風から、家を守るために。」
「よく調べましたね。」
「――先週、資料館で聞きました。」
並木道を抜けると、古い井戸の跡があった。
石で組まれた円形の枠が、苔むしたまま残っている。
「昔は、ここが、集落の水源だったそうです。」
凪は、井戸の縁に、そっと手を触れた。
「今は、使われていませんが。」
「凪さん、本当に調べてきたんですね。」
「――案内するので。最低限のことは、知っておきたかったので。」
***
集落を抜けた先に、小さな高台があった。
石段を上ると、古い拝所があり、その先に、視界が開けていた。
眼下に、赤瓦の屋根と、緑の畑、そして、遠く海が見渡せた。
「ここが、今日、一番見せたかった場所です。」
凛は、しばらく、その景色を眺めていた。
「静かですね。」
「はい。」
「風の音しか、しません。」
石段の脇に、古い石のベンチがあった。
二人は、そこに並んで腰を下ろした。
「凪さん、こういう場所、よく見つけますね。」
「――歩いていると、目に入るので。」
「それを、覚えておくんですか。」
「はい。凛さんに、見せたい場所を。」
凛は、その返答に、隣を見た。
凪は、まっすぐ景色を見つめたまま、特に表情を変えなかった。
けれど、その横顔は、どこか満足げだった。
***
「お昼、持ってきました。」
凪は、鞄から、包みを取り出した。
開くと、街のパン屋で買ったらしい、サンドイッチがいくつか入っていた。
「自分で作ったんじゃないんですね。」
「――まだ、料理は、あまり自信がなくて。」
「今度、教えましょうか。」
「――お願いします。」
即答だった。
二人は、サンドイッチを分け合いながら、しばらく景色を眺めた。
遠くで、鳥の鳴き声がした。
風が、フクギの葉を揺らす音が、下のほうから、微かに聞こえてくる。
「凪さん。」
「はい。」
「今日、すごく、良い一日です。」
「――それは、良かったです。」
凪は、そう答えると、少し間を置いて、続けた。
「準備した甲斐が、ありました。」
「準備、大変でしたか。」
「はい。」
「けれど。」
凪は、サンドイッチの包み紙を、丁寧に畳みながら、言った。
「大変さより、楽しさのほうが、大きかったです。」
「――どこに、案内しようか。何を、持っていこうか。考えている時間が。」
「思ったより、良いものでした。」
凛は、その言葉に、小さく頷いた。
「分かる気がします、それ。」
***
日が傾きはじめる頃、二人は、拝所の高台を下りた。
来た道を戻り、フクギの並木道を、また通り抜ける。
木漏れ日が、道の上に、細かい模様を作っていた。
「バス、あと二十分後です。」
凪は、腕時計を確認しながら言った。
「メモしてたんですか、時刻表。」
「はい。」
「用意周到ですね。」
「――失敗したくなかったので。」
その言葉に、凛は、また笑った。
バス停のベンチに座り、二人は、バスが来るのを待った。
「今日の場所、覚えておきます。」
凛が言うと、凪は、小さく頷いた。
「はい。また、来ましょう。」
「季節が変わったら、景色も、違って見えると思うので。」
「秋とか、冬とか。」
「はい。」
遠くから、バスのエンジン音が、近づいてくるのが聞こえた。
夕方の風が、フクギの葉を、大きく揺らしていった。
ーーー
第十二章 わずかな遅れ
その日は、朝から蒸し暑かった。
梅雨明けが近いことを、空気の重さが告げていた。
図書館は、いつも通りの時間に開館した。
凛は、カウンターで新着図書の登録作業をしながら、時折、入口のほうへ目をやった。
いつもなら、開館から一時間ほどで、凪が姿を見せる日だった。
けれど。
正午を過ぎても、自動扉は開かなかった。
***
昼休憩、凛は、事務スペースでコンビニのおにぎりを食べながら、スマートフォンを確認した。
通知はない。
(今日、来る日だったよね)
先週、確かにそう約束していた。
けれど、催促のような連絡をするのも、気が引けた。
凛は、スマートフォンを鞄に戻し、午後の業務に戻った。
***
午後二時を過ぎ、雨がぱらつき始めた。
梅雨の名残のような、弱い雨だった。
窓の外の景色が、少しずつ、灰色がかっていく。
カウンターで返却処理をしていると、遠くから、自動扉の開く音がした。
顔を上げると、そこに、凪が立っていた。
***
いつもの、丁寧な姿勢ではなかった。
肩が、わずかに上下していた。
前髪が、汗で額に張り付いている。
「――遅く、なりました。」
息を整えながら、凪は、そう言った。
「大丈夫ですか。」
凛は、カウンターを出て、駆け寄った。
「走ってきたんですか。」
「はい。バスの、時間に間に合わなくて。」
「基地から、ここまでですか。」
「途中まで、走りました。」
凪の額に、汗の粒が、いくつも浮かんでいた。
シャツの襟元も、少し湿っている。
***
凛は、事務スペースから、タオルを一枚持ってきた。
「これ、使ってください。」
「――ありがとうございます。」
凪は、タオルを受け取り、額と首筋を、丁寧に拭った。
「何かあったんですか、基地で。」
「訓練が、延長になりました。」
短い答えだった。
「急に、決まったことで。連絡する、時間がありませんでした。」
「そうだったんですね。」
凛は、それ以上、詳しくは聞かなかった。
給湯室から、冷たい水を、紙コップに入れて持ってきた。
「飲んでください。」
「――すみません。」
凪は、水を、一気に飲み干した。
紙コップを、丁寧に、両手で持ったまま、しばらく息を整えていた。
***
「もう、閉館まで、あと二時間もないですけど。」
凛が言うと、凪は、少し困ったような表情を浮かべた。
「――それでも、来たかったので。」
「無理しなくても、良かったのに。」
「いえ。」
凪は、首を振った。
「約束していたので。」
その一言に、凛は、少し黙った。
窓の外、弱い雨が、変わらず降り続いている。
「じゃあ、座ってください。お茶、淹れます。」
「はい。」
***
いつもの窓際の席に、凪は腰を下ろした。
まだ、少し息が上がっているようだった。
凛は、温かいお茶を運び、隣の椅子に座った。
「訓練、何時に終わったんですか。」
「――一時間前くらいです。」
「そこから、走ってきたんですか。ずっと。」
「バスの、待ち時間も、惜しかったので。」
凛は、その返答に、小さく息を吐いた。
「そんなに、急がなくても。」
「明日でも、良かったのに。」
凪は、湯呑みを両手で包んだまま、少し視線を落とした。
「――今日、会う約束だったので。」
「明日に、延ばすのは。何か、違う気がしました。」
その言葉に、凛は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、隣で、静かにお茶を飲んだ。
***
しばらくすると、凪の息は、すっかり落ち着いていた。
窓の外の雨も、いつの間にか、上がっていた。
雲の切れ間から、夕方の光が、薄く差し込んでくる。
「短い時間しか、いられませんが。」
凪が、静かに言った。
「今日、来られて、良かったです。」
「私も。」
凛は、湯呑みを机に置きながら、答えた。
「来てくれて、嬉しかったです。」
「――良かったです。」
短いやり取りだった。
けれど、それ以上の言葉は、必要なかった。
***
閉館の時間が近づき、凛は、館内放送のスイッチを入れた。
凪は、静かに席を立ち、椅子を、丁寧に机の下へ戻した。
「今日は、無理させてしまいましたね。」
凛が言うと、凪は、首を振った。
「無理では、なかったです。」
「――走るのは、少し、大変でしたが。」
「凛さんに、会えたので。ちょうど、良かったです。」
その言い方に、凛は、小さく笑った。
「変な言い方。」
「――そうでしょうか。」
「はい。でも、嫌いじゃないです、そういうところ。」
凪は、その返答に、少しだけ、口元を緩めた。
自動扉の前で、二人は、いつものように、短い挨拶を交わした。
「また、次の非番に。」
「はい。次は、ちゃんと、時間通りに来ます。」
「無理しなくていいですよ、本当に。」
「――善処します。」
その生真面目な返事に、凛は、また、小さく笑った。
夕方の風が、湿った空気を、少しずつ運び去っていった。
凪の後ろ姿が、バス停のほうへ、静かに遠ざかっていく。
凛は、しばらく、その姿を見送ってから、館内に戻った。
カウンターの上に、まだ、凪が使ったタオルと、空の紙コップが、そのまま残されていた。
ーーー
第十三章 突然の信号
七月に入り、梅雨は明けていた。
蝉の声が、朝から絶え間なく響いている。
その日、凪は、非番だった。
図書館の窓際の席で、いつものように本を読んでいた。
凛は、カウンターで、貸出処理をしていた。
昼下がり、館内は、静かだった。
冷房の音と、時折めくられるページの音。
それだけが、空間を満たしていた。
***
異変は、突然だった。
凪の座る席のあたりから、微かな電子音が鳴った。
一度。
二度。
短く、規則的な音だった。
凪は、本を閉じ、鞄から、小さな端末を取り出した。
黒い、無機質な形状の機器だった。
画面に、緑色の文字列が、点滅していた。
その瞬間、凪の表情から、それまでの穏やかさが、すっと消えた。
***
凛は、カウンター越しに、その様子に気づいた。
「凪さん?」
声をかけても、返事はなかった。
凪は、端末の画面を、無言で見つめていた。
指先が、素早く、画面上の文字をなぞる。
その動きは、これまで凛が見たことのない、正確で、無駄のないものだった。
数秒後、凪は、端末を鞄にしまい、席を立った。
「――申し訳ありません。」
その声は、いつもより、低く、平坦だった。
「今から、出なければなりません。」
***
凛は、カウンターを出た。
「何かあったんですか。」
「詳しくは、言えません。」
凪は、そう答えながら、鞄を肩にかけた。
その動作は、これまで見てきた、丁寧でゆっくりとした所作とは、明らかに違っていた。
必要最小限の、速い動き。
「緊急、ということですか。」
「はい。」
短い返事だった。
凪の視線は、すでに、出口のほうへ向いていた。
***
「送りましょうか。」
凛が言うと、凪は、初めて、こちらに視線を戻した。
「――いえ。」
「一人で、行きます。」
その言い方には、これまでのような柔らかさが、なかった。
まるで、別人と話しているような。
そんな硬さが、声に滲んでいた。
「分かりました。」
凛は、それ以上、何も聞かなかった。
ただ、静かに、頷いた。
***
凪は、出口に向かって、歩き出した。
その足取りは、速く、迷いがなかった。
自動扉の手前で、一瞬、足を止める。
振り返り、凛のほうを見た。
「――行ってきます。」
その一言だけを残し、凪は、扉の向こうへ消えていった。
外の日差しの中、金色の髪が、一瞬、強く光った。
それから、走り出す後ろ姿が、窓越しに、小さくなっていく。
***
館内には、静けさが戻っていた。
冷房の音だけが、変わらず、低く響いている。
凛は、凪が座っていた席に、目をやった。
読みかけの本が、そのまま、机の上に残されていた。
ページの途中に、栞代わりのレシートが、挟まっている。
凛は、その本を、そっと手に取った。
表紙をなでると、まだ、わずかに、人のぬくもりが残っているような気がした。
***
その日、凪は、閉館まで、戻ってこなかった。
凛は、カウンターの仕事を続けながら、時折、窓の外に目をやった。
蝉の声が、変わらず、外から響いていた。
いつもと同じ、夏の昼下がりだった。
けれど。
窓際の席だけが、いつもより、ひどく静かに見えた。
***
閉館作業を終え、凛は、鍵を閉めた。
外に出ると、日は、すでに傾いていた。
赤く染まった空を、一羽の鳥が、横切っていく。
スマートフォンを確認したが、通知は、何もなかった。
凛は、それを、鞄にしまった。
バス停へ向かって、一人、歩き出す。
夕方の風が、乾いた土の匂いを、運んできた。
蝉の声が、少しずつ、遠ざかっていった。
ーーー
第十四章 長い夜
バス停のベンチに、凛は座った。
鞄の中には、凪が読みかけていた本が入っていた。
閉館作業の最後、返却棚に戻す前に、つい、持ち帰ってしまった。
理由は、自分でもうまく説明できなかった。
バスが来るまで、あと十分ほどあった。
凛は、鞄から、その本を取り出した。
栞代わりのレシートが、まだ、同じページに挟まったままだった。
表紙を、指先で、一度なでる。
特に、何をするでもなく、また鞄にしまった。
***
家に着くと、母が、台所で夕食の支度をしていた。
「おかえり。今日、遅かったね。」
「うん。閉館作業、少し長引いて。」
凛は、いつも通りに答えた。
自分の部屋に荷物を置き、洗面所で手を洗う。
鏡に映る自分の顔を、少しの間、見つめた。
特に、変わったところはなかった。
***
夕食は、いつもと同じ、母の作ったチャンプルーだった。
「今日、凪くん来なかったの?」
母が、何気なく尋ねた。
「来たよ。お昼過ぎに。」
「そう。今日は、泊まっていかなかったのね。」
「うん、用事があって、早めに帰った。」
凛は、それだけ答えて、箸を進めた。
母は、それ以上、深く聞かなかった。
食卓には、テレビの音だけが、静かに流れていた。
***
食後、凛は、自分の部屋に戻った。
窓を開けると、蝉の声が、少しずつ、弱まっているのが分かった。
代わりに、虫の声が、庭のほうから、聞こえはじめていた。
スマートフォンを、机の上に置く。
画面を、一度、点灯させた。
通知は、なかった。
しばらく、その画面を見つめてから、また、伏せて置いた。
***
鞄から、本を取り出す。
凪が読んでいた、地元の作家の短編集だった。
以前、凛自身が勧めた一冊でもあった。
栞のレシートが挟まったページを、開いてみる。
短い一編が、途中で止まっていた。
漁師の男が、亡くなった妻を思い出しながら、海を眺める場面だった。
凛は、そのページを、しばらく読んだ。
読み終えて、本を閉じる。
表紙を、もう一度、指先でなでた。
***
机の上の時計は、九時を回っていた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
遠くで、車の音が、一度だけ聞こえた。
それが、通り過ぎていく音だと分かるまで、凛は、耳を澄ませていた。
***
ベッドに横になっても、なかなか、眠気は来なかった。
天井を見つめながら、今日、凪が座っていた席のことを、思い出していた。
いつもの、静かな横顔。
本をめくる、一定の速度。
そして、電子音が鳴った瞬間の、あの表情の変化。
これまで、見たことのない顔だった。
穏やかさが、一瞬で、消えた。
その落差の大きさが、今になって、じわりと、胸の中に残っていた。
***
(大丈夫、なのかな)
そう思ってから、凛は、自分でも、その問いの意味に、少し戸惑った。
大丈夫というのが、何を指すのか。
無事に任務を終えられるか、ということなのか。
それとも、もっと別の、うまく言葉にできない何かなのか。
分からなかった。
けれど。
その問いが、頭から離れないことだけは、確かだった。
***
スマートフォンを、もう一度、手に取った。
画面を、点灯させる。
通知は、やはり、なかった。
凛は、それを、枕元に置いた。
いつもなら、意識することもない、その画面の存在が。
今夜は、やけに、大きなものに感じられた。
***
窓の外、虫の声が、絶え間なく続いている。
その音の合間に、時折、遠くで、車の音がした。
そのたびに、凛は、わずかに、体を起こしかけた。
けれど、どの音も、家の前を、通り過ぎていくだけだった。
***
いつの間にか、時計は、十一時を回っていた。
凛は、机の上の本に、もう一度、目をやった。
閉じられたままの表紙。
その本を、一度、手に取り、枕元の棚に、そっと置いた。
明日、返却するつもりだった。
けれど、なぜか、すぐには、そうする気になれなかった。
***
目を閉じても、意識は、なかなか静まらなかった。
図書館の、あの席。
急に立ち上がった凪の後ろ姿。
「――行ってきます。」
その一言だけを残して、消えていった背中。
普段の、丁寧な別れの挨拶とは、明らかに違う、短い言葉だった。
その短さが、今になって、じわりと、重さを増していく気がした。
***
凛は、暗い天井を見つめたまま、静かに、息を吐いた。
いつからか、凪がいない一日は、こんなにも、長く感じられるようになっていた。
図書館に来るか、来ないか。
それだけのことで、一日の色合いが、これほど変わるということに。
今夜、初めて、はっきりと、気づかされた。
***
虫の声は、変わらず、窓の外で続いていた。
時折、風が、カーテンを、微かに揺らした。
その揺れを目で追いながら、凛は、ゆっくりと、瞼を閉じた。
スマートフォンの画面は、枕元で、静かに、暗いままだった。
ーーー
第十五章 戻ってきた日常
翌朝、空は、晴れていた。
昨夜の虫の声は、すでに止み、代わりに、蝉の声が、また勢いを取り戻していた。
凛は、いつも通りの時間に、図書館へ出勤した。
開館前の館内は、ひんやりとしていて、静かだった。
カウンターの内側で、返却ポストの本を、一冊ずつ取り出していく。
昨日と、変わらない作業だった。
***
開館時間になり、自動扉が開いた。
最初に入ってきたのは、いつもの、新聞を読みに来る老人だった。
「おはようございます。」
「おはよう。」
凛は、いつも通りの挨拶を交わした。
老人は、いつもの席に向かい、新聞を広げた。
館内には、また、静けさが戻った。
***
午前十時を過ぎた頃、自動扉が、また開いた。
凛は、顔を上げた。
そこに、凪が立っていた。
いつもの、白いシャツ。
穏やかな表情。
けれど。
目の下に、わずかな影があった。
普段より、少しだけ、肌の色が、白く見えた。
***
「おはようございます、凛さん。」
声の調子は、いつも通りだった。
「――おはようございます。」
凛は、そう答えながら、その顔を、じっと見た。
「大丈夫でしたか。」
「はい。」
短い返事だった。
「無事に、終わりました。」
それ以上の説明は、なかった。
凛も、それ以上は、聞かなかった。
***
凪は、鞄から、小さな紙袋を取り出した。
「これ。」
「何ですか。」
「昨日、突然、いなくなってしまったので。」
「お詫びに。」
紙袋の中には、街のパン屋で売っているらしい、個包装のクッキーが入っていた。
「――律儀ですね。」
凛は、小さく笑った。
「そんなの、気にしなくて良かったのに。」
「――気になったので。」
その返答に、凛は、少し目を細めた。
昨夜、あれほど、頭から離れなかった不安が、今、目の前にある、この何気ないやり取りの中に、静かに溶けていくのを感じた。
***
「あと、これも。」
凛は、カウンターの下から、凪が読みかけていた本を取り出した。
「昨日、忘れていったので。持って帰ってました。」
凪は、その本を、両手で受け取った。
「――ありがとうございます。」
栞代わりのレシートは、まだ、同じページに挟まったままだった。
凪は、そのページを、少し開いて、確認した。
「続き、読んでもいいですか。今日。」
「はい、もちろん。」
***
凪は、いつもの窓際の席に向かった。
腰を下ろし、本を開く。
その姿は、これまでと、何一つ変わらないように見えた。
けれど。
凛は、カウンターの内側から、その横顔を、しばらく見ていた。
普段より、ページをめくる速度が、少しだけ、遅かった。
昼過ぎ、凛は、いつものように、給湯室でお茶を淹れた。
紙コップを二つ持って、凪の席に近づく。
「休憩、どうですか。」
「――はい。」
凪は、本を閉じ、姿勢を正した。
隣の椅子に、凛が座る。
しばらく、二人とも、何も話さなかった。
窓の外、蝉の声だけが、変わらず、響いていた。
***
「昨日。」
凛が、静かに切り出した。
「心配、しました。」
凪は、少し、視線を落とした。
「――申し訳ありません。」
「謝ってほしいわけじゃないです。」
凛は、湯呑みを両手で包みながら、続けた。
「ただ、何も分からないまま、待ってるのは。少し、しんどかったです。」
凪は、しばらく、黙っていた。
窓の外を、一羽の鳥が、横切っていった。
「――今度からは。」
やがて、凪が、口を開いた。
「難しいとは、思いますが。」
「戻ってきたら、必ず、連絡します。」
「無事だということだけでも。」
その言葉に、凛は、小さく頷いた。
「それで、十分です。」
***
「凛さん。」
「はい。」
凪は、少し、間を置いた。
「昨日、いなくなってしまったとき。」
「凛さんは、どんな一日を、過ごしていましたか。」
その問いに、凛は、少し考えた。
答え方を、選んでいるようだった。
「――普通の一日でした。」
「仕事して、家に帰って、ご飯食べて。」
「いつもと、同じです。」
凪は、その返答を、静かに聞いていた。
「ただ。」
凛は、湯呑みの水面を、少し見つめてから、続けた。
「凪さんが、座ってた席が。すごく、静かに見えました。」
「それだけです。」
その簡潔な言葉に、凪は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、静かに、湯呑みを、両手で持ち直した。
「――そうですか。」
短い返事だった。
けれど、その声には、これまでの、丁寧なだけの応答とは、少し違う、確かな響きがあった。
***
休憩を終えると、凪は、また、窓際の席に戻った。
本を開き、読み始める。
凛も、カウンターに戻り、午後の業務を始めた。
館内には、いつも通りの、静かな時間が流れていた。
けれど。
その静けさの質は、昨日までとは、わずかに違っているようだった。
***
閉館の時間、凪は、いつものように、椅子を丁寧に机の下へ戻した。
「今日も、ありがとうございました。」
「また、来てくださいね。」
いつもの、短いやり取りだった。
けれど、凛は、その言葉に、いつもより、少しだけ、力を込めた。
凪は、それに気づいたのか、気づかなかったのか。
ただ、静かに、頷いた。
「はい。また、来ます。」
自動扉が開き、夕方の光が、館内に差し込んだ。
金色の髪が、その光を受けて、輝いた。
凪の後ろ姿が、外の明るさの中へ、ゆっくりと、溶けていった。
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