第2話 同じ顔で、はじめまして
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あらすじ
同じ顔、同じ名前。デビューできるのは、ひとりだけ。 母に起こされたはずの朝、十七歳の多喜川まひるは、知らない白い部屋で目を覚ました。 変わっていたのは、景色だけではない。声も、髪も、身体も。鏡に映るのは、ポスターの中で笑う、とびきり可愛いVTuber「アイナ・リオ」だった。 帰り道も、母に連絡する手段も見つからない。 そんなまひるの前に、自分とまったく同じ顔の少女が現れる。 彼女の名前は、瀬尾紬。 アルバイトをしながら個人VTuberとして活動し、いつか自分の歌でステージに立ちたいと願う人。 紬は、新しいVTuberプロジェクトに応募していた。まひるには、応募した覚えさえなかった。 同じ姿でも、帰りたい場所も、叶えたい夢も違う。 名前を呼び合い、言葉を交わすうち、知らない相手が、そばにいてほしい人になっていく。 けれど、その募集の採用枠は、一人だけ。 白い部屋の先には、歌いたくなる曲と、立ってみたくなるステージがある。 この顔で笑いたいと思う気持ちまで、偽物なのだろうか。 そして、誰か一人がこの名前を手にしたとき、ほかの「私」はどうなるのか。 ひとり分のデビューをめぐり、違う人生が同じ姿で出会う。 華やかなアイドルの夢と、自分であり続けたい願いが交差する、VTuber×密室サスペンス。
本文
これまでのあらすじ
十七歳の高校生・多喜川まひるは、見知らぬ白い部屋で目を覚ました。顔も身体も声も、自分のものではない。ポスターに描かれたバーチャルアイドル「アイナ・リオ」と同じ姿になっていた。
家に帰ろうと出口や連絡手段を探すが、何も見つからない。「ログアウト」と呼びかけても、白い部屋は何も答えなかった。鏡に映る少女は可愛い。けれど、その顔には昨日までの自分がどこにもいない。まひるは、いつものように自分の名前を呼ぶ母の声を聞きたかった。
*
鏡の中に、私が二人いた。
ポスターから、隣の大きな鏡へ目を戻しただけだった。
一人は、ポスターの隣に立っている。
もう一人は、その後ろに。
私は動かなかった。
後ろの私が、片手を上げた。
「……あの」
声は、背中のほうから聞こえた。
振り向くと、白い壁にドアがあった。さっきまで見つからなかったドア。その開いた隙間から、女の子が半分だけ身体をのぞかせている。
淡い茶色の長い髪。白いドレス。肩から腰へ渡る、薄いオレンジのリボン。
さっきまで鏡で見ていたのと、全部同じだった。
アイナ・リオ。
ポスターで知ったばかりの女の子が、もう一人いる。
息を吸い損ねて、一歩下がった。かかとが白い壁に当たる。
女の子も、びくりと肩を揺らした。
「ごめん。びっくりさせた」
今の私と、同じ声だった。
女の子は上げかけていた手を下ろし、ドアの縁を握った。こちらへは来ない。私の返事を待つように、少し身体を引いている。
私は、自分の頬に触れた。
女の子は触らなかった。
その代わり、私の指先と顔を、落ち着かない様子で見比べていた。
「その顔……」
相手が言いかけて、止まった。
その続きを、私も言いたかった。
あなた、どうして私の顔をしているんですか。
いや、この顔は別に私のものではない。ついさっきまで、誰なのかも知らなかった。
でも、それにしたって。
「そっちも……」
どうにか声を出した。
「起きたら、こうなってましたか」
女の子が、ゆっくりうなずく。
「うん」
「服も、髪も、全部?」
「全部。声も」
困ったように眉が寄った。鏡で見た私とは違う動きをする、同じ顔。
「あなたも?」
「……はい」
答えた途端、膝から力が抜けそうになった。
おかしなことは増えている。
知らない場所で、知らない身体になって、その身体と同じ人まで現れた。どう考えても安心する場面ではない。
なのに、返事があった。
聞いたことに、誰かが答えてくれた。
それだけで、さっきまで必死にこらえていたものが、喉のあたりまで上がってきた。
「そっち、行ってもいい?」
すぐには答えられなかった。
女の子は待っていた。私がうなずくまで、ドアから手を離さなかった。
白いブーツが床を踏む。近づいてきた足は、私の二歩ほど手前で止まった。
同じ高さに、同じ色の目がある。
「私、瀬尾紬。紬は、糸へんの」
「多喜川、です」
名字だけ答えて、口を閉じた。
こういうとき、どう名乗るのが正解なのか分からない。学校のクラス替えなら、もう少しましにできると思う。
紬さんは、続きを急かさなかった。
私は一度、息を吸い直した。
「多喜川まひる」
「まひるちゃん、でいい?」
自分の名前だった。
この顔になってから、私以外の誰かが呼んでくれた、初めての。
「……はい」
「そっか。よろしく、まひるちゃん」
よろしくと言われるような場所なのかは、分からなかった。
それでも、私は頭を下げた。
*
「ここ、どこなんですか」
紬さんと鏡の前に立ったまま、最初にそれを聞いてしまった。
目の前の顔が、少しだけ曇る。
「ごめん。それ、私も聞こうと思ってた」
「あ……ですよね」
「誰かいませんかって、ずっと呼んでたんだけど。返事がなくて」
「私もです」
紬さんが入ってきたドアは、開いたままだった。その先にも白い床が続いている。外の景色でも、廊下でもない。ここによく似た、もう一つの部屋。
奥に、ぽつんと椅子が一脚あった。
「あっちにいたんですか」
「うん。気がついたら床で寝てて。起きたらこれだった」
紬さんが、白い衣装の袖をつまむ。
「最初、衣装を着たまま寝ちゃったのかと思ったんだけど」
「こんな衣装、持ってるんですか」
「持ってない。寝起きって、変な納得するよね」
ほんの少し、口元が緩んだ。
それを見て、紬さんも笑った。私の顔を確かめてから笑う、その間が、私とは違っていた。
「どこかに電話、ないですか。お母さんに連絡したくて」
「探したけど、見つからなかった。私もバイト先に連絡しないと」
「バイト」
「今日、入ってるはずなんだ。シフト代わってもらったばっかりなのに」
今日。
学校の教室が、頭に浮かんだ。私の席だけ空いたまま、担任が出席を取る。家に連絡が行くかもしれない。
今、何時なのだろう。
そもそも、朝なのだろうか。
「まひるちゃんも、何か予定があった?」
「学校……です。たぶん」
「高校?」
「はい。十七です」
答えてから、紬さんの顔を見た。
同じ顔では、年上なのかどうかも分からない。
「紬さんは」
「私は……二十一」
一拍、間があった。
自分の年齢にまで返事をためらうのかと思ったけれど、私もさっき、名字しか言えなかった。
四歳上。
分かった途端に、少し頼ってもよさそうな気がした。
顔は同じなのに。我ながら、ずいぶん簡単だった。
紬さんの目が、鏡の隣のポスターへ向いた。
「そのポスター、私のいた部屋にもあった」
「向こうにも?」
「うん。同じの。アイナ・リオ」
自分の名前を言うような調子ではなかった。知らない人の名前を、確かめながら読む声だった。
「この子、知ってますか」
「ううん。初めて見た」
紬さんは、ポスターの少女と私を交互に見た。
「ただ、関係あるのかなって思ってることは、あって」
私は顔を上げた。
「VTuberのオーディションに応募したんだ。新しく始まるプロジェクトの」
「オーディション?」
「募集には、大きな事務所と組むって書いてあった。キャラクターの名前も見た目も、まだ出てなかったから、この子かどうかは分からないけど」
アイナ・リオは、ポスターの中で笑っている。
オーディション。
言葉だけなら知っている。歌ったり、自己紹介をしたりして、選んでもらうもの。
こんなふうに、身体まで着替えてやるものだっただろうか。
「それで、ここに来たんですか」
「……分からない。こういうことをするなんて、説明はなかったし。ここへ来た覚えもないの」
袖をつまんでいた手が、ゆっくり下りた。
「まひるちゃんは? 何か、応募した?」
「してないです。少なくとも、そういうのに応募した覚えはないです」
「そっか」
紬さんが小さく息を吐く。当てが外れたのか、ほっとしたのかは分からなかった。
私たちはしばらく、ポスターを見ていた。何かを説明してくれそうな笑顔なのに、見直しても答えは増えない。
「……ログアウトって、言ってみました?」
「言った」
「終了、とか」
「それも。あと、係の人を呼んでください、も」
私より少し、現実的な頼み方だった。
「誰も来なかった」
「そうですか」
紬さんは、片手でもう片方の手首に触れた。
「変だよね。こういうのって、目が覚めるか、機械を外すかすれば終わるはずなのに」
私も後頭部へ手をやった。ゲームの機械か何かをかぶっているなら、外したい。
でも、指に触れるのは髪と、小さなリボンだけだった。さっき一人で調べたときと、変わらない。
「鏡は、出たんです」
私は、すぐそばの大きな鏡を指した。
「最初はなかったんですけど、顔が見たいって思って。それで、変なことを言ったら」
「変なこと?」
「もしも、鏡があるとしたら、どこにあるのだろう、って」
口にすると、やっぱりおかしな台詞だった。
「言おうとしたのは、もっと普通の言い方だったんです。でも、そう言っちゃって。そのあと、ここに鏡が」
指した先で、鏡の中の私も手を伸ばしている。紬さんはその隣で、動かずに聞いていた。
「勝手に口が動いた、みたいな?」
「それも、ちょっと違って……」
うまく説明できない。
言わされた、と言い切るには、あのときの自分の気持ちが邪魔だった。
「言ってる間は、自分で言ってるつもりだったんです。あとから、何であんな言い方したんだろうって」
紬さんは、少し黙っていた。
「……それ、怖いね」
小さな声に、私はうなずいた。
気のせいだよ、と言われたら困ったと思う。でも、何か分かると言われるのも怖かった。
「声に反応してるのかな。私も、椅子は出たの」
紬さんが、開いたドアの向こうを指した。隣の部屋に見えている、白い椅子。
「座るところが欲しいって言ってたら、あれがあった。水もお願いしたんだけど、それは出なくて。電話も」
「ドアは?」
「誰かいないか呼びながら、壁を触ってたら見つけた。最初はなかったと思うんだけど……いつ出たのかは、分からない」
開けたら、私がいた。
紬さんも、出口だと思ってあのドアを開けたのかもしれない。
私は隣の部屋へ続く白い床を見た。人には会えた。でも、帰り道はまだ見つかっていない。
「私、出口も同じ言い方で頼んだんです。でも、出なくて」
「同じ言い方?」
「もしも、出口があるとしたら、って」
言いかけて、壁へ目を戻した。
今見えるドアは、紬さんの部屋へつながる一つだけだ。
「もう一回、試してみてもいいですか」
「もちろん」
何を頼むか、少し迷った。
家に帰りたい。
でも、どこかも分からない場所から帰るより、電話を一つ出してもらうほうが簡単な気がした。
基準なんて、何もないのに。
「もしも、お母さんに電話ができるとしたら、どこにあるのだろう」
言ってから、文章がおかしいことに気づいた。
何がどこにあるのか、これでは分からない。
「……電話が。もしも、電話があるとしたら、どこにあるのだろう」
壁を見て、足元を見た。どこかで着信音が鳴らないか、耳も澄ませた。
何も起きなかった。
隣で、紬さんが息を吸う。
「もしも、外への出口があるとしたら、どこにあるのだろう」
落ち着いた、よく通る声だった。
私よりも、ずっと正しい言い方に聞こえた。
けれど、白い壁に新しいドアは現れなかった。
握り締めた手のひらに、爪の先が当たっている。
さっきはできたのに。
鏡なんかより、こっちのほうが欲しいのに。
「……ごめんね。だめだった」
「紬さんが謝ることじゃ」
「そうなんだけど」
紬さんが困ったように笑った。私も何を言えばいいのか分からず、もう一度、何もない壁を見た。
欲しいと言えば何でも出る場所なら、そもそも、まだここにはいない。
「少し、座ろうか」
紬さんが、私に身体を向けた。
「大丈夫。出口、きっとあるから。いったん落ち着いて、考えよ」
うなずきかけて、その指先が目に入った。
腰から垂れたリボンの先を、親指と人差し指で挟んでいる。なでて、折って、また伸ばす。同じところを、何度も。
さっきまで、しっかりした人だと思っていた。
今も、そう思う。
ただ、それと怖くないことは、同じではないらしかった。
「椅子、持ってくるね」
紬さんがドアへ向かった。
「あ、私も」
思ったより大きい声になった。
振り返った紬さんに、置いていかないで、と聞こえただろうか。実際、半分くらいはそうだった。
「ドア、押さえてます。運びにくいかもしれないから」
残りの半分を、慌てて付け足す。
紬さんは一度まばたきをして、それからうなずいた。
「うん。ありがとう」
*
ドアのところまで行くと、紬さんのいた部屋がよく見えた。白い床と壁。その壁には、こちらと同じアイナ・リオのポスターがある。
紬さんは部屋の奥へ戻り、椅子を持ち上げた。背もたれまで真っ白な、ごく普通の椅子。会議室に並んでいそうな形で、細い脚の先に黒いゴムがついていた。
私はドアを押さえ、椅子の脚が引っかからないように道を空けた。紬さんが通り抜けてから、その後ろについて自分のいた部屋へ戻る。
椅子は、片手で運ぶには少し重そうだった。
身体ごと変わってしまったのに、椅子の運びにくさは普通にある。それが妙に腹立たしくも、ありがたくもあった。
鏡から少し離れたところへ椅子を置くと、紬さんが私を見た。
「どうぞ」
「紬さんは」
「私はこっちで」
スカートの裾を押さえ、椅子のそばの床に座った。
私が立ったままでいると、空いている座面を軽くたたく。
「立ちっぱなし、疲れたでしょ」
そう言われると、疲れている気がした。
椅子に腰を下ろし、足の裏を床につける。それだけで、脚に入っていた力が少し抜けた。
「ありがとうございます」
「ううん」
紬さんが、床から私を見上げる。
目が合うと、ほんの少しだけ首を傾けた。
何か話したいの、と聞かれている気がした。
鏡で見たのと同じ目なのに、向けられると、こんな感じがするのか。
「……人と話す仕事、してますか」
「え?」
「何か、上手なので」
言ってから、自分の言い方が気になった。
人と話すのが上手ですね、なんて。ずいぶん偉そうではないだろうか。
紬さんは、少し笑った。
「接客のバイトはしてるけど」
「あ、そうなんですね」
「あと、配信。そっちの癖かな」
「配信?」
「VTuber、やってるの。個人で。全然有名じゃないけど」
ポスターを見て、それから紬さんへ目を戻した。
「もう、やってるんですか」
「うん。事務所とかには入ってない。家で、自分で」
「何を配信するんですか」
「ゲームしたり、話したり。歌も、少し」
さっきまで、どう話せばいいのか分からない相手だった。
それが急に、画面の向こうにいたかもしれない人になった。
VTuberの動画なら、私も見たことがある。おすすめに出てきた切り抜きや、知らないゲームで大騒ぎしているところ。誰かが送ってきた短い動画を見て、元の配信まで探したこともあった。
その人たちにも、電話しなければいけないバイト先があるのかもしれない。
知識では、当たり前のことだった。
でも、その当たり前が、今は同じ顔で床に座っている。
「今日も、配信する予定で」
紬さんが、何も持っていない手を見下ろした。
「夜だから、まだ時間はあると思うんだけど。せめてお休みって、言わないと」
「待ってる人がいるんですね」
「たぶん。いつも始まる前から待っててくれて、必ず挨拶をしてくれる人がいるの。常連さん」
紬さんの口元が緩んだ。
「一回、その人が来なくて。勝手に心配しちゃって。あとで『寝てました』って来たとき、ちょっと腹立った」
「心配したぶん」
「そう。寝てたならよかったんだけど。私だけ大げさで」
いつの間にか、指先がリボンから離れていた。
その人の書いた短い言葉を、今も思い出しているようだった。
「だから、今日は私のほうがやってるんだよね。連絡もなしに」
「まだ、夜じゃないかもしれないです」
口にしてから、また根拠のないことを言ったと思った。
紬さんは私を見上げ、ゆっくりうなずいた。
「うん。そうだね」
少しの間、私たちは黙っていた。
私は椅子の上で、紬さんは床の上。話すたび、紬さんが顔を上げる。
何となく落ち着かなくて、私は椅子から下りた。
「あれ、どうしたの」
「こっちのほうが、話しやすいので」
隣の床へ腰を下ろすと、脚から冷たさが伝わってきた。
なるほど、椅子が欲しくなるわけだ。
紬さんが、二人の前に残った空の椅子を見た。
「運んだのに」
「……すみません」
「ううん」
小さく笑う声がした。私も、少し笑った。
立派なことは何も言えていない。
でも、さっきよりは息がしやすかった。
紬さんが、肩に落ちた髪を払った。
途中で、その手が止まる。
目は、前の鏡へ向いていた。
座ったままの私たちが、鏡の中にもいる。紬さんは床に触れそうになった長い髪をすくい、片側へ流した。
それから、ほんの少し顎を引く。
口元が緩んだ。
目尻が柔らかく下がった。
鏡の中の少女が、こちらへ笑いかけた。
胸の奥が、小さく跳ねた。
ポスターの笑顔よりも近い。
大勢に向けたものではなく、今、画面を開いた私を見つけてくれたような。
その隣に、口を半分開けた私がいた。
顔は同じなのに。
紬さんが、自分の唇に触れた。
「……こんなふうに、笑うんだ」
独り言のような声だった。
もう一度、少しだけ笑う。髪の角度を変えて、今度は鏡の中の自分の目をまっすぐ見つめた。
私は、その横顔を見ていた。
この子は、こんな顔もできたのか。
さっきまで、自分で動かしていたはずの顔なのに。
知らない表情を、先に見つけられてしまった気がした。
何でそんなことを気にするのだろう。
早く元に戻りたいくせに。
紬さんがこちらに気づき、手を下ろした。
「ごめん。こんなときに」
「いえ」
私は鏡から目をそらした。
「私も、さっきやりました」
「笑ってみたの?」
「……ちょっと」
「そっか」
それ以上は聞かれなかった。
紬さんも、もう笑ってはいなかった。
*
「紬さん」
「うん?」
並んで床に座ったまま、私はさっきの話を思い返していた。
「もうVTuberをやってるのに、オーディションを受けるんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
紬さんは、すぐには答えなかった。
さっきまで私を待ってくれていた人だったので、今度は私が待った。
「……そういう募集も、あるんだ。活動してる人が受けられるの」
「受かったら、どうなるんですか。今の人は」
「今の人?」
「紬さんが、今やってる……キャラクターは」
まだ名前も知らない誰かを、手で示しかけた。
どこを指せばいいのか分からず、膝へ戻す。
「ああ。うん」
紬さんは、膝にかかった自分の長い髪を見た。
「別の名前で、始めることになると思う」
「今の名前では、できないんですか」
「この募集では、たぶん」
指先で、髪をそろえていく。
「その子が嫌になったとかでは、ないんだけど」
私はうなずいて、続きを待った。
「絵を描いてもらうとき、何回も相談したの。服も、髪も。あと、笑ったときの目とか。ここはこうしたいって、細かいところまで」
そろえた髪が、指の間から滑り落ちた。
「最初は、その顔でしゃべるのに慣れなくて。でも今は、配信の準備をして、その顔が画面に出ると、よしって思う」
さっき鏡に向けた笑顔が浮かんだ。
あれは、この顔のために覚えた笑い方ではなかったのだ。
「じゃあ、どうして」
口に出してから、続きを飲み込んだ。
紬さんは、責められたような顔にはならなかった。
「一人でやってると、配信を続けることでいっぱいになっちゃうんだ。もう少し先のことをしたくても、来月は何回できるかな、とか、まずそっちを考えてて」
目が、前に置いた椅子の脚へ落ちた。
「いつか、ちゃんとしたステージで歌ってみたい。自分の歌で」
声は、大きくなかった。
私はポスターを見上げた。
白とオレンジの光の中で、アイナ・リオがマイクを握っている。初めて見たときは、ただ、きれいな絵だった。
「自分で続けてれば、いつかできるかもしれない。でも、そのいつかまで続けられるのかって考えると……分からなくて」
紬さんは少し笑った。
「だから、応募だけでもしてみようと思った。受かるかどうかなんて、分からないし」
「受かったら」
繰り返すと、その笑顔が薄くなった。
「うん。受かったら、ね」
話はそこで止まった。
大事なものがあるのに、別のものも欲しい。
そのために今あるものを手放せるかは、まだ分からない。
簡単に聞いてしまったのが、申し訳なくなった。
私なんか、高校を卒業したら何をするかだって、聞かれるたびに答えが変わる。誰かに話す前に無理そうなところを自分で見つけて、やっぱりいいやと思ってしまう。
だから、「ステージで歌いたい」と言えることが、少しまぶしかった。
紬さんが、私の顔を確かめるように見た。
何か言いたい。
頑張ってください、では、たぶん遠すぎた。
「配信、見てみたいです」
紬さんが目を上げた。
「帰れたら。チャンネル、教えてもらえますか」
「……ほんと?」
「はい」
「ゲーム、下手だよ」
「上手い人のしか見ちゃいけないんですか」
紬さんが笑った。
今度は、鏡を見ていなかった。
「ううん。下手なのが好きな人も、いてくれる」
「じゃあ、大丈夫です」
「どういう大丈夫?」
少しだけ、本当に少しだけ、普通の会話になった。
紬さんが、床についていた手を自分の膝へ戻す。
「帰ったら、教える。見に来たら、コメントで挨拶してね。まひるちゃんだって分かるように」
「名乗ります。多喜川まひるです、って」
「そこまで書かなくていいから」
また笑ってしまった。
今度は、自分の声が可愛すぎることも、少しの間忘れていた。
*
先に立ち上がったのは、紬さんだった。
「もう少し、調べてみようか」
私は椅子の背につかまって、床から立ち上がった。
帰る方法が分かったわけではない。でも、一人で白い壁を押していたときより、何かできそうな気がした。
紬さんが、隣の部屋につながるドアへ目を向ける。
「あっちの部屋も、全部は見られてないんだ。私、途中でドアを見つけて、すぐ開けちゃったから」
「じゃあ、今度はそっちを」
「うん」
ドアへ向き直りかけて、紬さんが止まった。
ほんの一瞬、鏡の中の自分の顔を見た。
私は気づかなかったふりをして、椅子から手を離した。
そのとき、音がした。
高く澄んだ、鍵盤の音。
小さな光が、一つずつ灯るようだった。
二人とも、歩き出す前に動きを止めた。
間を置いて軽いリズムが重なる。鍵盤の音が跳ねるように続き、その下を、柔らかな低い音が支えていく。
音楽だった。
ドアの向こうを見て、天井を見上げた。スピーカーは見当たらない。どちらへ顔を向けても、音の大きさは変わらなかった。
「紬さん」
返事がない。
紬さんは、ポスターを見ていた。腰から垂れたリボンが、まだ少し揺れている。その下で、白いブーツのつま先が小さく動いた。
拍子を取るように。
唇が開いた。
言葉にはならない、短い歌声がこぼれた。
聞こえている音をなぞったのかと思った。
でも、違った。
紬さんが先に口ずさんだ音を、少し遅れて曲のメロディーがなぞっていく。高くなって、少し下がる。同じ順番で。
「……知ってるんですか、この曲」
紬さんが、はっとこちらを向いた。
「これ」
もう一度、ポスターへ目を戻す。
「応募したときに、送られてきたの。デビュー予定曲のデモですって。短いのだったけど」
灰色がかった青い目が、明るく見えた。
「何回も、聴いたから」
さっき、ステージで歌いたいと言った人の顔だった。
その嬉しさを隠すように、紬さんは唇を結んだ。
私はポスターの下に書かれた、オレンジ色の文字を見た。
デビュー曲
『Call My Name』
「今流れてるの、この曲なんですか」
「タイトルは、書いてなかった。でも、このメロディーは……同じ」
音楽が広がった。
もっと大きな場所で聴きたくなる曲だった。照明がついて、誰かが出てきて、マイクを持つ。歌い始める一歩手前の、息を吸う場所まで用意されているような。
ポスターの少女には、よく似合う。
紬さんが応募した募集。
タイトルの分からなかった、デビュー予定曲。
アイナ・リオ。
さっきまで別々だったものが、急に近くなった。
「じゃあ、やっぱり、ここ……そのオーディションと関係が」
「……あるのかも、しれない」
紬さんの声は、慎重だった。
私はポスターから、隣に立つ紬さんへ目を戻した。
同じ顔。
同じ衣装。
これがオーディションなら、選ばれる前から二人とも同じキャラクターになっている。
「二人とも、アイナ・リオなんですよね」
紬さんは答えなかった。
「もし、この子になる人を選んでるなら……何人、デビューするんですか」
自分の声が、音楽の下で薄く聞こえた。
紬さんの指が、リボンの先をつかむ。
「あの募集、採用は一人だけだった」
鏡の中に、私たちが立っていた。
二人のアイナ・リオが、同じ曲を聴いていた。
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