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第2話 同じ顔で、はじめまして

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/25 📚 シリーズ: アイナ・リオは、ひとりだけ -VTuber蠱毒転生物語- 📝 9,742文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

同じ顔、同じ名前。デビューできるのは、ひとりだけ。 母に起こされたはずの朝、十七歳の多喜川まひるは、知らない白い部屋で目を覚ました。 変わっていたのは、景色だけではない。声も、髪も、身体も。鏡に映るのは、ポスターの中で笑う、とびきり可愛いVTuber「アイナ・リオ」だった。 帰り道も、母に連絡する手段も見つからない。 そんなまひるの前に、自分とまったく同じ顔の少女が現れる。 彼女の名前は、瀬尾紬。 アルバイトをしながら個人VTuberとして活動し、いつか自分の歌でステージに立ちたいと願う人。 紬は、新しいVTuberプロジェクトに応募していた。まひるには、応募した覚えさえなかった。 同じ姿でも、帰りたい場所も、叶えたい夢も違う。 名前を呼び合い、言葉を交わすうち、知らない相手が、そばにいてほしい人になっていく。 けれど、その募集の採用枠は、一人だけ。 白い部屋の先には、歌いたくなる曲と、立ってみたくなるステージがある。 この顔で笑いたいと思う気持ちまで、偽物なのだろうか。 そして、誰か一人がこの名前を手にしたとき、ほかの「私」はどうなるのか。 ひとり分のデビューをめぐり、違う人生が同じ姿で出会う。 華やかなアイドルの夢と、自分であり続けたい願いが交差する、VTuber×密室サスペンス。

本文

これまでのあらすじ

十七歳の高校生・多喜川まひるは、見知らぬ白い部屋で目を覚ました。顔も身体も声も、自分のものではない。ポスターに描かれたバーチャルアイドル「アイナ・リオ」と同じ姿になっていた。

家に帰ろうと出口や連絡手段を探すが、何も見つからない。「ログアウト」と呼びかけても、白い部屋は何も答えなかった。鏡に映る少女は可愛い。けれど、その顔には昨日までの自分がどこにもいない。まひるは、いつものように自分の名前を呼ぶ母の声を聞きたかった。

     *

 鏡の中に、私が二人いた。

 ポスターから、隣の大きな鏡へ目を戻しただけだった。

 一人は、ポスターの隣に立っている。

 もう一人は、その後ろに。

 私は動かなかった。

 後ろの私が、片手を上げた。

「……あの」

 声は、背中のほうから聞こえた。

 振り向くと、白い壁にドアがあった。さっきまで見つからなかったドア。その開いた隙間から、女の子が半分だけ身体をのぞかせている。

 淡い茶色の長い髪。白いドレス。肩から腰へ渡る、薄いオレンジのリボン。

 さっきまで鏡で見ていたのと、全部同じだった。

 アイナ・リオ。

 ポスターで知ったばかりの女の子が、もう一人いる。

 息を吸い損ねて、一歩下がった。かかとが白い壁に当たる。

 女の子も、びくりと肩を揺らした。

「ごめん。びっくりさせた」

 今の私と、同じ声だった。

 女の子は上げかけていた手を下ろし、ドアの縁を握った。こちらへは来ない。私の返事を待つように、少し身体を引いている。

 私は、自分の頬に触れた。

 女の子は触らなかった。

 その代わり、私の指先と顔を、落ち着かない様子で見比べていた。

「その顔……」

 相手が言いかけて、止まった。

 その続きを、私も言いたかった。

 あなた、どうして私の顔をしているんですか。

 いや、この顔は別に私のものではない。ついさっきまで、誰なのかも知らなかった。

 でも、それにしたって。

「そっちも……」

 どうにか声を出した。

「起きたら、こうなってましたか」

 女の子が、ゆっくりうなずく。

「うん」

「服も、髪も、全部?」

「全部。声も」

 困ったように眉が寄った。鏡で見た私とは違う動きをする、同じ顔。

「あなたも?」

「……はい」

 答えた途端、膝から力が抜けそうになった。

 おかしなことは増えている。

 知らない場所で、知らない身体になって、その身体と同じ人まで現れた。どう考えても安心する場面ではない。

 なのに、返事があった。

 聞いたことに、誰かが答えてくれた。

 それだけで、さっきまで必死にこらえていたものが、喉のあたりまで上がってきた。

「そっち、行ってもいい?」

 すぐには答えられなかった。

 女の子は待っていた。私がうなずくまで、ドアから手を離さなかった。

 白いブーツが床を踏む。近づいてきた足は、私の二歩ほど手前で止まった。

 同じ高さに、同じ色の目がある。

「私、瀬尾紬。紬は、糸へんの」

「多喜川、です」

 名字だけ答えて、口を閉じた。

 こういうとき、どう名乗るのが正解なのか分からない。学校のクラス替えなら、もう少しましにできると思う。

 紬さんは、続きを急かさなかった。

 私は一度、息を吸い直した。

「多喜川まひる」

「まひるちゃん、でいい?」

 自分の名前だった。

 この顔になってから、私以外の誰かが呼んでくれた、初めての。

「……はい」

「そっか。よろしく、まひるちゃん」

 よろしくと言われるような場所なのかは、分からなかった。

 それでも、私は頭を下げた。

     *

「ここ、どこなんですか」

 紬さんと鏡の前に立ったまま、最初にそれを聞いてしまった。

 目の前の顔が、少しだけ曇る。

「ごめん。それ、私も聞こうと思ってた」

「あ……ですよね」

「誰かいませんかって、ずっと呼んでたんだけど。返事がなくて」

「私もです」

 紬さんが入ってきたドアは、開いたままだった。その先にも白い床が続いている。外の景色でも、廊下でもない。ここによく似た、もう一つの部屋。

 奥に、ぽつんと椅子が一脚あった。

「あっちにいたんですか」

「うん。気がついたら床で寝てて。起きたらこれだった」

 紬さんが、白い衣装の袖をつまむ。

「最初、衣装を着たまま寝ちゃったのかと思ったんだけど」

「こんな衣装、持ってるんですか」

「持ってない。寝起きって、変な納得するよね」

 ほんの少し、口元が緩んだ。

 それを見て、紬さんも笑った。私の顔を確かめてから笑う、その間が、私とは違っていた。

「どこかに電話、ないですか。お母さんに連絡したくて」

「探したけど、見つからなかった。私もバイト先に連絡しないと」

「バイト」

「今日、入ってるはずなんだ。シフト代わってもらったばっかりなのに」

 今日。

 学校の教室が、頭に浮かんだ。私の席だけ空いたまま、担任が出席を取る。家に連絡が行くかもしれない。

 今、何時なのだろう。

 そもそも、朝なのだろうか。

「まひるちゃんも、何か予定があった?」

「学校……です。たぶん」

「高校?」

「はい。十七です」

 答えてから、紬さんの顔を見た。

 同じ顔では、年上なのかどうかも分からない。

「紬さんは」

「私は……二十一」

 一拍、間があった。

 自分の年齢にまで返事をためらうのかと思ったけれど、私もさっき、名字しか言えなかった。

 四歳上。

 分かった途端に、少し頼ってもよさそうな気がした。

 顔は同じなのに。我ながら、ずいぶん簡単だった。

 紬さんの目が、鏡の隣のポスターへ向いた。

「そのポスター、私のいた部屋にもあった」

「向こうにも?」

「うん。同じの。アイナ・リオ」

 自分の名前を言うような調子ではなかった。知らない人の名前を、確かめながら読む声だった。

「この子、知ってますか」

「ううん。初めて見た」

 紬さんは、ポスターの少女と私を交互に見た。

「ただ、関係あるのかなって思ってることは、あって」

 私は顔を上げた。

「VTuberのオーディションに応募したんだ。新しく始まるプロジェクトの」

「オーディション?」

「募集には、大きな事務所と組むって書いてあった。キャラクターの名前も見た目も、まだ出てなかったから、この子かどうかは分からないけど」

 アイナ・リオは、ポスターの中で笑っている。

 オーディション。

 言葉だけなら知っている。歌ったり、自己紹介をしたりして、選んでもらうもの。

 こんなふうに、身体まで着替えてやるものだっただろうか。

「それで、ここに来たんですか」

「……分からない。こういうことをするなんて、説明はなかったし。ここへ来た覚えもないの」

 袖をつまんでいた手が、ゆっくり下りた。

「まひるちゃんは? 何か、応募した?」

「してないです。少なくとも、そういうのに応募した覚えはないです」

「そっか」

 紬さんが小さく息を吐く。当てが外れたのか、ほっとしたのかは分からなかった。

 私たちはしばらく、ポスターを見ていた。何かを説明してくれそうな笑顔なのに、見直しても答えは増えない。

「……ログアウトって、言ってみました?」

「言った」

「終了、とか」

「それも。あと、係の人を呼んでください、も」

 私より少し、現実的な頼み方だった。

「誰も来なかった」

「そうですか」

 紬さんは、片手でもう片方の手首に触れた。

「変だよね。こういうのって、目が覚めるか、機械を外すかすれば終わるはずなのに」

 私も後頭部へ手をやった。ゲームの機械か何かをかぶっているなら、外したい。

 でも、指に触れるのは髪と、小さなリボンだけだった。さっき一人で調べたときと、変わらない。

「鏡は、出たんです」

 私は、すぐそばの大きな鏡を指した。

「最初はなかったんですけど、顔が見たいって思って。それで、変なことを言ったら」

「変なこと?」

「もしも、鏡があるとしたら、どこにあるのだろう、って」

 口にすると、やっぱりおかしな台詞だった。

「言おうとしたのは、もっと普通の言い方だったんです。でも、そう言っちゃって。そのあと、ここに鏡が」

 指した先で、鏡の中の私も手を伸ばしている。紬さんはその隣で、動かずに聞いていた。

「勝手に口が動いた、みたいな?」

「それも、ちょっと違って……」

 うまく説明できない。

 言わされた、と言い切るには、あのときの自分の気持ちが邪魔だった。

「言ってる間は、自分で言ってるつもりだったんです。あとから、何であんな言い方したんだろうって」

 紬さんは、少し黙っていた。

「……それ、怖いね」

 小さな声に、私はうなずいた。

 気のせいだよ、と言われたら困ったと思う。でも、何か分かると言われるのも怖かった。

「声に反応してるのかな。私も、椅子は出たの」

 紬さんが、開いたドアの向こうを指した。隣の部屋に見えている、白い椅子。

「座るところが欲しいって言ってたら、あれがあった。水もお願いしたんだけど、それは出なくて。電話も」

「ドアは?」

「誰かいないか呼びながら、壁を触ってたら見つけた。最初はなかったと思うんだけど……いつ出たのかは、分からない」

 開けたら、私がいた。

 紬さんも、出口だと思ってあのドアを開けたのかもしれない。

 私は隣の部屋へ続く白い床を見た。人には会えた。でも、帰り道はまだ見つかっていない。

「私、出口も同じ言い方で頼んだんです。でも、出なくて」

「同じ言い方?」

「もしも、出口があるとしたら、って」

 言いかけて、壁へ目を戻した。

 今見えるドアは、紬さんの部屋へつながる一つだけだ。

「もう一回、試してみてもいいですか」

「もちろん」

 何を頼むか、少し迷った。

 家に帰りたい。

 でも、どこかも分からない場所から帰るより、電話を一つ出してもらうほうが簡単な気がした。

 基準なんて、何もないのに。

「もしも、お母さんに電話ができるとしたら、どこにあるのだろう」

 言ってから、文章がおかしいことに気づいた。

 何がどこにあるのか、これでは分からない。

「……電話が。もしも、電話があるとしたら、どこにあるのだろう」

 壁を見て、足元を見た。どこかで着信音が鳴らないか、耳も澄ませた。

 何も起きなかった。

 隣で、紬さんが息を吸う。

「もしも、外への出口があるとしたら、どこにあるのだろう」

 落ち着いた、よく通る声だった。

 私よりも、ずっと正しい言い方に聞こえた。

 けれど、白い壁に新しいドアは現れなかった。

 握り締めた手のひらに、爪の先が当たっている。

 さっきはできたのに。

 鏡なんかより、こっちのほうが欲しいのに。

「……ごめんね。だめだった」

「紬さんが謝ることじゃ」

「そうなんだけど」

 紬さんが困ったように笑った。私も何を言えばいいのか分からず、もう一度、何もない壁を見た。

 欲しいと言えば何でも出る場所なら、そもそも、まだここにはいない。

「少し、座ろうか」

 紬さんが、私に身体を向けた。

「大丈夫。出口、きっとあるから。いったん落ち着いて、考えよ」

 うなずきかけて、その指先が目に入った。

 腰から垂れたリボンの先を、親指と人差し指で挟んでいる。なでて、折って、また伸ばす。同じところを、何度も。

 さっきまで、しっかりした人だと思っていた。

 今も、そう思う。

 ただ、それと怖くないことは、同じではないらしかった。

「椅子、持ってくるね」

 紬さんがドアへ向かった。

「あ、私も」

 思ったより大きい声になった。

 振り返った紬さんに、置いていかないで、と聞こえただろうか。実際、半分くらいはそうだった。

「ドア、押さえてます。運びにくいかもしれないから」

 残りの半分を、慌てて付け足す。

 紬さんは一度まばたきをして、それからうなずいた。

「うん。ありがとう」

     *

 ドアのところまで行くと、紬さんのいた部屋がよく見えた。白い床と壁。その壁には、こちらと同じアイナ・リオのポスターがある。

 紬さんは部屋の奥へ戻り、椅子を持ち上げた。背もたれまで真っ白な、ごく普通の椅子。会議室に並んでいそうな形で、細い脚の先に黒いゴムがついていた。

 私はドアを押さえ、椅子の脚が引っかからないように道を空けた。紬さんが通り抜けてから、その後ろについて自分のいた部屋へ戻る。

 椅子は、片手で運ぶには少し重そうだった。

 身体ごと変わってしまったのに、椅子の運びにくさは普通にある。それが妙に腹立たしくも、ありがたくもあった。

 鏡から少し離れたところへ椅子を置くと、紬さんが私を見た。

「どうぞ」

「紬さんは」

「私はこっちで」

 スカートの裾を押さえ、椅子のそばの床に座った。

 私が立ったままでいると、空いている座面を軽くたたく。

「立ちっぱなし、疲れたでしょ」

 そう言われると、疲れている気がした。

 椅子に腰を下ろし、足の裏を床につける。それだけで、脚に入っていた力が少し抜けた。

「ありがとうございます」

「ううん」

 紬さんが、床から私を見上げる。

 目が合うと、ほんの少しだけ首を傾けた。

 何か話したいの、と聞かれている気がした。

 鏡で見たのと同じ目なのに、向けられると、こんな感じがするのか。

「……人と話す仕事、してますか」

「え?」

「何か、上手なので」

 言ってから、自分の言い方が気になった。

 人と話すのが上手ですね、なんて。ずいぶん偉そうではないだろうか。

 紬さんは、少し笑った。

「接客のバイトはしてるけど」

「あ、そうなんですね」

「あと、配信。そっちの癖かな」

「配信?」

「VTuber、やってるの。個人で。全然有名じゃないけど」

 ポスターを見て、それから紬さんへ目を戻した。

「もう、やってるんですか」

「うん。事務所とかには入ってない。家で、自分で」

「何を配信するんですか」

「ゲームしたり、話したり。歌も、少し」

 さっきまで、どう話せばいいのか分からない相手だった。

 それが急に、画面の向こうにいたかもしれない人になった。

 VTuberの動画なら、私も見たことがある。おすすめに出てきた切り抜きや、知らないゲームで大騒ぎしているところ。誰かが送ってきた短い動画を見て、元の配信まで探したこともあった。

 その人たちにも、電話しなければいけないバイト先があるのかもしれない。

 知識では、当たり前のことだった。

 でも、その当たり前が、今は同じ顔で床に座っている。

「今日も、配信する予定で」

 紬さんが、何も持っていない手を見下ろした。

「夜だから、まだ時間はあると思うんだけど。せめてお休みって、言わないと」

「待ってる人がいるんですね」

「たぶん。いつも始まる前から待っててくれて、必ず挨拶をしてくれる人がいるの。常連さん」

 紬さんの口元が緩んだ。

「一回、その人が来なくて。勝手に心配しちゃって。あとで『寝てました』って来たとき、ちょっと腹立った」

「心配したぶん」

「そう。寝てたならよかったんだけど。私だけ大げさで」

 いつの間にか、指先がリボンから離れていた。

 その人の書いた短い言葉を、今も思い出しているようだった。

「だから、今日は私のほうがやってるんだよね。連絡もなしに」

「まだ、夜じゃないかもしれないです」

 口にしてから、また根拠のないことを言ったと思った。

 紬さんは私を見上げ、ゆっくりうなずいた。

「うん。そうだね」

 少しの間、私たちは黙っていた。

 私は椅子の上で、紬さんは床の上。話すたび、紬さんが顔を上げる。

 何となく落ち着かなくて、私は椅子から下りた。

「あれ、どうしたの」

「こっちのほうが、話しやすいので」

 隣の床へ腰を下ろすと、脚から冷たさが伝わってきた。

 なるほど、椅子が欲しくなるわけだ。

 紬さんが、二人の前に残った空の椅子を見た。

「運んだのに」

「……すみません」

「ううん」

 小さく笑う声がした。私も、少し笑った。

 立派なことは何も言えていない。

 でも、さっきよりは息がしやすかった。

 紬さんが、肩に落ちた髪を払った。

 途中で、その手が止まる。

 目は、前の鏡へ向いていた。

 座ったままの私たちが、鏡の中にもいる。紬さんは床に触れそうになった長い髪をすくい、片側へ流した。

 それから、ほんの少し顎を引く。

 口元が緩んだ。

 目尻が柔らかく下がった。

 鏡の中の少女が、こちらへ笑いかけた。

 胸の奥が、小さく跳ねた。

 ポスターの笑顔よりも近い。

 大勢に向けたものではなく、今、画面を開いた私を見つけてくれたような。

 その隣に、口を半分開けた私がいた。

 顔は同じなのに。

 紬さんが、自分の唇に触れた。

「……こんなふうに、笑うんだ」

 独り言のような声だった。

 もう一度、少しだけ笑う。髪の角度を変えて、今度は鏡の中の自分の目をまっすぐ見つめた。

 私は、その横顔を見ていた。

 この子は、こんな顔もできたのか。

 さっきまで、自分で動かしていたはずの顔なのに。

 知らない表情を、先に見つけられてしまった気がした。

 何でそんなことを気にするのだろう。

 早く元に戻りたいくせに。

 紬さんがこちらに気づき、手を下ろした。

「ごめん。こんなときに」

「いえ」

 私は鏡から目をそらした。

「私も、さっきやりました」

「笑ってみたの?」

「……ちょっと」

「そっか」

 それ以上は聞かれなかった。

 紬さんも、もう笑ってはいなかった。

     *

「紬さん」

「うん?」

 並んで床に座ったまま、私はさっきの話を思い返していた。

「もうVTuberをやってるのに、オーディションを受けるんですか」

 聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。

 紬さんは、すぐには答えなかった。

 さっきまで私を待ってくれていた人だったので、今度は私が待った。

「……そういう募集も、あるんだ。活動してる人が受けられるの」

「受かったら、どうなるんですか。今の人は」

「今の人?」

「紬さんが、今やってる……キャラクターは」

 まだ名前も知らない誰かを、手で示しかけた。

 どこを指せばいいのか分からず、膝へ戻す。

「ああ。うん」

 紬さんは、膝にかかった自分の長い髪を見た。

「別の名前で、始めることになると思う」

「今の名前では、できないんですか」

「この募集では、たぶん」

 指先で、髪をそろえていく。

「その子が嫌になったとかでは、ないんだけど」

 私はうなずいて、続きを待った。

「絵を描いてもらうとき、何回も相談したの。服も、髪も。あと、笑ったときの目とか。ここはこうしたいって、細かいところまで」

 そろえた髪が、指の間から滑り落ちた。

「最初は、その顔でしゃべるのに慣れなくて。でも今は、配信の準備をして、その顔が画面に出ると、よしって思う」

 さっき鏡に向けた笑顔が浮かんだ。

 あれは、この顔のために覚えた笑い方ではなかったのだ。

「じゃあ、どうして」

 口に出してから、続きを飲み込んだ。

 紬さんは、責められたような顔にはならなかった。

「一人でやってると、配信を続けることでいっぱいになっちゃうんだ。もう少し先のことをしたくても、来月は何回できるかな、とか、まずそっちを考えてて」

 目が、前に置いた椅子の脚へ落ちた。

「いつか、ちゃんとしたステージで歌ってみたい。自分の歌で」

 声は、大きくなかった。

 私はポスターを見上げた。

 白とオレンジの光の中で、アイナ・リオがマイクを握っている。初めて見たときは、ただ、きれいな絵だった。

「自分で続けてれば、いつかできるかもしれない。でも、そのいつかまで続けられるのかって考えると……分からなくて」

 紬さんは少し笑った。

「だから、応募だけでもしてみようと思った。受かるかどうかなんて、分からないし」

「受かったら」

 繰り返すと、その笑顔が薄くなった。

「うん。受かったら、ね」

 話はそこで止まった。

 大事なものがあるのに、別のものも欲しい。

 そのために今あるものを手放せるかは、まだ分からない。

 簡単に聞いてしまったのが、申し訳なくなった。

 私なんか、高校を卒業したら何をするかだって、聞かれるたびに答えが変わる。誰かに話す前に無理そうなところを自分で見つけて、やっぱりいいやと思ってしまう。

 だから、「ステージで歌いたい」と言えることが、少しまぶしかった。

 紬さんが、私の顔を確かめるように見た。

 何か言いたい。

 頑張ってください、では、たぶん遠すぎた。

「配信、見てみたいです」

 紬さんが目を上げた。

「帰れたら。チャンネル、教えてもらえますか」

「……ほんと?」

「はい」

「ゲーム、下手だよ」

「上手い人のしか見ちゃいけないんですか」

 紬さんが笑った。

 今度は、鏡を見ていなかった。

「ううん。下手なのが好きな人も、いてくれる」

「じゃあ、大丈夫です」

「どういう大丈夫?」

 少しだけ、本当に少しだけ、普通の会話になった。

 紬さんが、床についていた手を自分の膝へ戻す。

「帰ったら、教える。見に来たら、コメントで挨拶してね。まひるちゃんだって分かるように」

「名乗ります。多喜川まひるです、って」

「そこまで書かなくていいから」

 また笑ってしまった。

 今度は、自分の声が可愛すぎることも、少しの間忘れていた。

     *

 先に立ち上がったのは、紬さんだった。

「もう少し、調べてみようか」

 私は椅子の背につかまって、床から立ち上がった。

 帰る方法が分かったわけではない。でも、一人で白い壁を押していたときより、何かできそうな気がした。

 紬さんが、隣の部屋につながるドアへ目を向ける。

「あっちの部屋も、全部は見られてないんだ。私、途中でドアを見つけて、すぐ開けちゃったから」

「じゃあ、今度はそっちを」

「うん」

 ドアへ向き直りかけて、紬さんが止まった。

 ほんの一瞬、鏡の中の自分の顔を見た。

 私は気づかなかったふりをして、椅子から手を離した。

 そのとき、音がした。

 高く澄んだ、鍵盤の音。

 小さな光が、一つずつ灯るようだった。

 二人とも、歩き出す前に動きを止めた。

 間を置いて軽いリズムが重なる。鍵盤の音が跳ねるように続き、その下を、柔らかな低い音が支えていく。

 音楽だった。

 ドアの向こうを見て、天井を見上げた。スピーカーは見当たらない。どちらへ顔を向けても、音の大きさは変わらなかった。

「紬さん」

 返事がない。

 紬さんは、ポスターを見ていた。腰から垂れたリボンが、まだ少し揺れている。その下で、白いブーツのつま先が小さく動いた。

 拍子を取るように。

 唇が開いた。

 言葉にはならない、短い歌声がこぼれた。

 聞こえている音をなぞったのかと思った。

 でも、違った。

 紬さんが先に口ずさんだ音を、少し遅れて曲のメロディーがなぞっていく。高くなって、少し下がる。同じ順番で。

「……知ってるんですか、この曲」

 紬さんが、はっとこちらを向いた。

「これ」

 もう一度、ポスターへ目を戻す。

「応募したときに、送られてきたの。デビュー予定曲のデモですって。短いのだったけど」

 灰色がかった青い目が、明るく見えた。

「何回も、聴いたから」

 さっき、ステージで歌いたいと言った人の顔だった。

 その嬉しさを隠すように、紬さんは唇を結んだ。

 私はポスターの下に書かれた、オレンジ色の文字を見た。

 デビュー曲

 『Call My Name』

「今流れてるの、この曲なんですか」

「タイトルは、書いてなかった。でも、このメロディーは……同じ」

 音楽が広がった。

 もっと大きな場所で聴きたくなる曲だった。照明がついて、誰かが出てきて、マイクを持つ。歌い始める一歩手前の、息を吸う場所まで用意されているような。

 ポスターの少女には、よく似合う。

 紬さんが応募した募集。

 タイトルの分からなかった、デビュー予定曲。

 アイナ・リオ。

 さっきまで別々だったものが、急に近くなった。

「じゃあ、やっぱり、ここ……そのオーディションと関係が」

「……あるのかも、しれない」

 紬さんの声は、慎重だった。

 私はポスターから、隣に立つ紬さんへ目を戻した。

 同じ顔。

 同じ衣装。

 これがオーディションなら、選ばれる前から二人とも同じキャラクターになっている。

「二人とも、アイナ・リオなんですよね」

 紬さんは答えなかった。

「もし、この子になる人を選んでるなら……何人、デビューするんですか」

 自分の声が、音楽の下で薄く聞こえた。

 紬さんの指が、リボンの先をつかむ。

「あの募集、採用は一人だけだった」

 鏡の中に、私たちが立っていた。

 二人のアイナ・リオが、同じ曲を聴いていた。

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作者について

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元文学青年おじさん

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