決めることができない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学2年生の橘ひなたは、ごく普通の女子大生。ある日、学校一のイケメンと噂される林武蓮と同じゼミになったことで、自然と彼を意識するようになる。 しかし蓮は恋愛に全く興味がなく、女の子から告白されても断り続けるクールな男。ひなたが話しかけても素っ気ない態度ばかり。 それでも一緒にいる時間が増えるうちに、ひなたは彼の不器用な優しさに少しずつ惹かれていく。 恋愛に無関心なイケメンが、初めて「恋の病」にかかるまでのドキドキラブコメ!
本文
九月の初め、母親から電話が来た。
林武はスマートフォンの画面に表示された「母」の文字を見て、少し間を置いてから通話ボタンを押した。
「武、久しぶり。元気にしてる?」
「……ああ」
「連絡くれないから心配してたの。ちゃんとご飯食べてる?」
「……食べてる」
「そう。あのね、武。そろそろ地元に帰ってきなさい」
林武は少し黙った。
「……なぜ」
「なぜって、就職活動のことも相談したいし、お父さんも顔見たがってるし。それに、一人暮らしが長くなると生活が乱れるから、たまには帰ってきなさい」
「……生活は乱れていない」
「そう言っても、お母さんには確認できないでしょ。とにかく、今月中に帰ってきなさい。日程は自分で決めていいから」
有無を言わさない口調だった。いつも通りだった。
「……わかった」
「じゃあ、決まったら連絡して。お父さんにも伝えておくから」
通話が終わった。
林武はスマートフォんを置いて、天井を見つめた。
地元に帰れ。それは、珍しい話ではなかった。春休みにも言われていたし、今まで何度か帰省していた。帰ること自体は、そこまで嫌ではなかった。
でも今日は、少し違う感覚があった。
……ひなたに、会えなくなる。
帰省している間は、ひなたとは会えない。メッセージのやり取りはできる。でも、直接会うことはできない。
それが、思ったより嫌だと感じていた。
林武は起き上がって、窓の外を見た。九月になっても、まだ夏の名残があった。空は青くて、雲が少し流れていた。
好きだと認めてから、数日が経っていた。認めたところで、何かが変わったわけではなかった。ひなたへの態度も、関係も、特に変わっていない。でも、自分の中では確実に何かが変わっていた。
ひなたのことを考える時間が、さらに増えた。メッセージが来るたびに、思ったより早く返信している自分がいる。ひなたの顔が、何かにつけて頭に浮かんでくる。
それが今、帰省の話を聞いて、会えなくなると思った瞬間に、嫌だという感情が出てきた。
……こんな感情が、自分にあったのか。
誰かに会えなくなることを、嫌だと思ったことは今まであまりなかった。一人でいることが気楽だと思っていたから。でも今は違った。
林武はカレンダーを見た。今月中に帰れと言われた。日程は自分で決めていい。
少し考えてから、林武はスマートフォんを手に取った。ひなたとのトーク画面を開いた。
何かを送ろうとして、止まった。
何を送るつもりだ。帰省することを伝えるのか。それとも、その前に会いたいと言うのか。
会いたい。
その言葉が、頭の中で浮かんだ瞬間、林武は少し驚いた。会いたい、と思っている。誰かに対してそう思ったのは、初めてだった気がした。
でも、それをそのまま送る勇気は、まだなかった。
林武はスマートフォんを置いた。
母親のことを、考えた。
帰省すれば、また同じ空気の中に戻る。就職のこと、将来のこと、細かいことを色々と言われる。父親は黙って頷く。いつも通りの実家の光景だ。
それが、以前は当たり前だと思っていた。でも今は、少し違う目で見えていた。
ひなたが言っていた言葉を思い出した。
「林武くん、真面目すぎるんだよ」
「大丈夫じゃないくせに、大丈夫だと言い切る、その不器用さ」
「いつかちゃんと話せる気になったら、聞くから」
一つひとつが、鮮明に思い出せた。ひなたはいつも、余計なことを言わない。でも、必要なことは、ちゃんと言ってくれた。
……ひなたがいると、あの恐れが遠くなる。
それは確かだった。母親を見て育って、深く関わることへの恐れが生まれた。でも、ひなたといる時は、その恐れが薄くなった。ひなたが変わらずそこにいてくれることが、何かを和らげてくれていた。
だから、帰省している間、ひなたに会えないことが嫌なのかもしれなかった。あの感覚が、遠くなるから。
林武はもう一度、スマートフォんを手に取った。
今月中に帰省する。それは決めた。でも、その前に——。
結局、何も送れなかった。
画面を閉じて、林武はため息をついた。
好きだと認めた。会いたいと思っている。でも、それをどう言葉にすればいいのか、まだわからなかった。
踏み込むことへの恐れは、消えていない。好きだと認めても、その恐れはまだそこにあった。
でも、以前と違うのは——恐れがあっても、ひなたのことが頭から離れないことだった。
どんなに蓋をしようとしても、もう遅かった。
林武は窓の外を見た。空がだんだんオレンジ色に変わり始めていた。
帰省する前に、一度だけ会おう。
それだけを、静かに決めた。
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