第3話 秘密の二時間
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
19時から21時までの陶芸保存会に通い始めた実麗16歳は、家でも学校でもそのことを大きく話せない。弱音も本音も責められると思う癖が抜けないからだ。それでも十九時からの二時間だけは、自分で来た時間だった。倉橋清太郎 68歳に削りの丁寧さを褒められ、実麗の中に小さな灯がともる。轆轤の中心が取れた日は心も少し整うという噂がある。だが学校で紬に夜の外出を見られ、実麗はとっさにごまかす。秘密を守ったはずなのに、その夜から紬の視線が変わり始める。
本文
「いってきます」
実麗がそう言うと、居間のほうから「はいはい」とだけ返ってきた。
テレビの音にまぎれて、誰の声かもよくわからない。
靴を履く。
かかとを合わせる。
玄関のたたきに落ちた自分の影が、細くのびる。
「どこ行くの?」
背中に飛んできた声に、実麗の肩がぴくっと上がった。
振り向くより先に、指が靴べらを握りしめる。
「ちょっと」
「ちょっとって」
笑いまじりの声。
詰める声じゃない。
なのに、胸の奥が先に固くなる。
「すぐ戻るから」
それだけ言って、実麗は戸を開けた。
冷たい夜の空気が、頬に当たる。
外へ出た瞬間、やっと息がひとつ落ちた。
商店街の灯りがぽつぽつついている。
シャッターを半分下ろした店。
揚げものの匂い。
遠くで自転車のベル。
実麗はマフラーを少し引き上げて、足を速めた。
十九時。
中学の頃は重い足取りで部活に行ってた。
あの二時間だけは、誰にも決められていない。
走れとも、並べとも、休むなとも言われない。
そのことを思うだけで、足先が少し軽くなる。
引き戸の前で立ち止まる。
硝子の向こうに、あたたかい色の灯り。
実麗は戸の取っ手に指をかけた。
前より迷わない。
小さく息を吸って、そのまま開ける。
「こんばんは」
「お、こんばんは」
倉橋清太郎が顔を上げた。
手元の土から目を離して、にこっと笑う。
「来たねえ」
その言い方に、実麗の口元が少しだけゆるんだ。
「……はい」
「寒かったろ。手、出してごらん」
「え」
「冷えてると、土もびっくりするから」
文江がくすっと笑う。
実麗は少しためらってから、手を出した。
自分の手のひらを見られるだけで、なぜか落ち着かない。
「うん、今日は昨日よりまし」
倉橋がそう言って、台の上の器を指した。
「削り、やってみるか」
実麗は目を瞬いた。
昨日よりまし。
その言葉が、思ったよりうれしい。
「私が、ですか?」
「うん。これ」
倉橋がそっと器を持ち上げる。
伏せた器の底。
まだやわらかさを残した土肌。
脇に置かれた道具の金属が、灯りを細く返した。
実麗は近づいてのぞきこむ。
器の表面に、指の跡みたいなわずかな流れが見える。
「ここをね、少しずつ」
倉橋の声は低くてゆっくりだ。
急がせない。
試さない。
ただ、隣で一緒に見ている。
「削りすぎると薄くなる。怖がりすぎると重たくなる。ちょうどいいところを探すんだ」
実麗は小さくうなずいた。
唇が少し乾く。
舌先でそっと湿らせる。
「座って」
実麗はろくろの前に腰を下ろした。
膝が少しだけくっつく。
背筋がまっすぐになる。
道具を持つ指先に力が入りすぎて、自分で気づいて、少しゆるめる。
「そんなに握らなくて大丈夫」
「……はい」
倉橋が器を軽く回した。
ゆっくり。
円がぶれずに流れる。
実麗は目で追う。
呼吸を忘れそうになる。
「ここから当ててみようか」
「はい」
刃先が土に触れた瞬間、しゃり、と小さな音がした。
薄い土が、くるりと巻いて落ちる。
実麗のまつ毛がぴくっと揺れる。
「そうそう」
「……これで、合ってますか?」
「合ってるよ。丁寧だねえ」
その一言で、実麗の手が止まりかけた。
「え」
「丁寧」
倉橋は当たり前みたいに言った。
「急がないの、いいよ。土はそれ、ちゃんとわかるから」
実麗は器と自分の手を見た。
次に、倉橋の顔を見る。
からかわれている感じはない。
試されている感じもない。
ほんとうに、ただそう見えたから言った顔だった。
「……初めて言われました」
ぽろっとこぼれてから、実麗ははっとした。
すぐに目を伏せる。
「何が」
「その……丁寧、とか」
声が小さくなる。
言いすぎた気がして、肩が内側に入る。
けれど倉橋は、「そっか」とだけ言った。
それ以上は聞かない。
深追いしない。
そのことが、かえって胸にしみた。
「実麗ちゃん、手先きれいねえ」
文江が向こうから声をかける。
糸のように細い目がやさしく笑っている。
「削りって、性格出るのよ」
「性格……」
「そう。乱暴な日は乱暴になるし、落ち着いてる日は、すっと入るの」
実麗は器に触れたまま、少しだけ息を吐いた。
「今日は、どう見えますか?」
自分から聞いてしまって、また驚く。
こんなふうに聞くつもりじゃなかったのに。
文江は首をかしげて、実麗の手元を見た。
「がんばって、静かにしようとしてる日」
その言葉に、実麗の指先が止まる。
胸の奥を、そっと触られたみたいだった。
「……はい」
それしか言えない。
でも、文江はそれで十分みたいにうなずいた。
削った土が、ろくろのまわりにやわらかく積もる。
しゃり。
しゃり。
細い音が続く。
実麗の肩の高さが、少しずつ下がっていく。
「上手」
倉橋が言う。
今度は実麗も止まらなかった。
ただ耳が熱くなる。
「ありがとうございます」
「うん。ほら、この線きれいだ」
倉橋の指が、削ったばかりの高台の脇を指す。
実麗はその線を見る。
ほんの少しのくぼみ。
ほんの少しの丸み。
さっきまでただの土だったものが、自分の手のあとを持ち始めている。
胸の中で、小さな灯がつく。
明るすぎない。
でも消えない、あたたかい色だった。
別の夜。
ろくろの前で、実麗は両ひじを脇に寄せた。
土のかたまりが、回る。
ぶれる。
またぶれる。
「力、上からだけじゃなくてね」
倉橋の声。
実麗は唇をきゅっと結ぶ。
「はい」
「押さえつけるんじゃなくて、集める感じ」
「集める……」
「うん。真ん中に帰す」
真ん中。
その言葉に、実麗は土を見つめた。
回る。
揺れる。
指先がふらつく。
焦る。
余計にずれる。
「だめだ……」
思わず漏れた声に、文江がすぐ首を振る。
「まだだめじゃないわよ。途中」
倉橋も静かに言う。
「土、怒ってない」
実麗は息を飲んで、もう一度手を置いた。
掌に伝わる回転。
冷たさ。
重さ。
少しだけ前よりわかる。
「ゆっくり」
「……はい」
回る。
押す。
戻す。
指の内側に、ぶれが集まる。
また散る。
もう一度。
もう一度。
ふっと、揺れが小さくなった。
「あ」
実麗の目が開く。
回っているのに、さっきまでの暴れ方が消えている。
「そう、それ」
倉橋の声が少しだけ弾んだ。
「中心、来た」
実麗は息を止めたまま、土を見つめる。
まるく、静かに、ぶれずに回る。
自分の手の下で、ようやく落ち着いたみたいに。
「……ほんとだ」
声が、少し笑っていた。
文江がにこにこしながら言う。
「中心が取れた日は、心も少し整うって言うのよ」
「それも噂ですか」
「ええ。好きなの、そういうの」
実麗は土を見つめたまま、小さく笑った。
笑ったのが自分でもわかった。
頬がやわらかく動いた。
帰り道。
工房の灯りを背にして角を曲がったときだった。
「あれ、蘭?」
実麗の足が止まる。
喉がきゅっと縮む。
街灯の下に、制服姿の紬が立っていた。
コンビニの袋を提げて、こちらを見ている。
「え、なんでこんな時間に」
実麗の指先が、鞄の持ち手を強く握る。
「ちょっと……出てて」
「その路地、何あるの?」
紬が首をのばして、実麗の背後を見る。
実麗は反射みたいに半歩ずれて、路地をふさぐ。
「いや、べつに」
「べつにって」
紬が笑う。
いつもの軽い笑い方。
でも実麗の背中はもう冷えていた。
「家の人、平気なの?。夜」
「うん。まあ」
「へえ」
短い声。
その一つだけで、実麗は急かされるみたいになる。
「散歩してただけ」
口から出た瞬間、自分で変だと思った。
制服に鞄で、散歩。
しかもこんな路地で。
紬の眉が少しだけ動く。
「散歩?」
「うん」
「ふうん」
その「ふうん」が、やけに長く耳に残る。
実麗は笑おうとした。
うまく上がらない口角を、無理に引いた。
「じゃ、私、帰るから」
「蘭」
呼び止められて、また肩が固まる。
「なに」
「……なんでもない」
紬は袋を持ち直した。
でも目だけは、実麗から離れない。
「気をつけて帰りなよ」
「うん」
実麗はうなずいて、そのまま歩き出した。
早足にならないように気をつける。
走ると余計に変だ。
でも、背中に視線が刺さる。
曲がり角を過ぎても、まだ見られている気がした。
家に着いて、玄関の灯りの下で手を見る。
爪のきわに、土がうすく残っている。
慌てて袖で隠す。
誰も見ていないのに、心臓だけが速い。
翌日
教室で、紬の視線が何度も触れた。
実麗がプリントを出すとき。
窓の外を見たとき。
鞄から筆箱を出すとき。
ふと顔を上げるたび、紬がこちらを見ていて、目が合うとすぐ逸らす。
「……何」
昼休み、実麗が小さく言うと、紬はストローをくわえたまま首を振った。
「別に」
「別にって顔じゃない」
「蘭こそ」
紬はそこで言葉を切る。
紙パックを指でへこませて、また実麗を見る。
「隠しごと、下手なんだね」
実麗の指先が、机の端をきゅっとつかんだ。
「してない」
すぐに返した声が、自分でも少し強い。
紬は笑わなかった。
ただ、前より静かな目で見ていた。
「そっか」
その一言が、妙に遠い。
チャイムが鳴る。
実麗の肩がわずかに跳ねる。
自分で気づいて、すぐに背筋を戻す。
紬はその動きを見ていた。
何も言わない。
でも、前とは違う見方をしているのがわかる。
実麗はノートを開いた。
紙の白さが、少しまぶしい。
昨夜、ろくろの上で静かに回っていた土を思い出す。
あの丸い中心。
指の下で落ち着いていった感触。
胸の奥の小さな灯に、そっと手をかざすみたいに、実麗は目を伏せた。