第3話 秘密の二時間

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 手の中の土、歪んだ器 📝 3,680文字 ✅ 全年齢

あらすじ

19時から21時までの陶芸保存会に通い始めた実麗16歳は、家でも学校でもそのことを大きく話せない。弱音も本音も責められると思う癖が抜けないからだ。それでも十九時からの二時間だけは、自分で来た時間だった。倉橋清太郎 68歳に削りの丁寧さを褒められ、実麗の中に小さな灯がともる。轆轤の中心が取れた日は心も少し整うという噂がある。だが学校で紬に夜の外出を見られ、実麗はとっさにごまかす。秘密を守ったはずなのに、その夜から紬の視線が変わり始める。

本文

「いってきます」

実麗がそう言うと、居間のほうから「はいはい」とだけ返ってきた。

テレビの音にまぎれて、誰の声かもよくわからない。

靴を履く。

かかとを合わせる。

玄関のたたきに落ちた自分の影が、細くのびる。

「どこ行くの?」

背中に飛んできた声に、実麗の肩がぴくっと上がった。

振り向くより先に、指が靴べらを握りしめる。

「ちょっと」

「ちょっとって」

笑いまじりの声。

詰める声じゃない。

なのに、胸の奥が先に固くなる。

「すぐ戻るから」

それだけ言って、実麗は戸を開けた。

冷たい夜の空気が、頬に当たる。

外へ出た瞬間、やっと息がひとつ落ちた。

商店街の灯りがぽつぽつついている。

シャッターを半分下ろした店。

揚げものの匂い。

遠くで自転車のベル。

実麗はマフラーを少し引き上げて、足を速めた。

十九時。

中学の頃は重い足取りで部活に行ってた。

あの二時間だけは、誰にも決められていない。

走れとも、並べとも、休むなとも言われない。

そのことを思うだけで、足先が少し軽くなる。

引き戸の前で立ち止まる。

硝子の向こうに、あたたかい色の灯り。

実麗は戸の取っ手に指をかけた。

前より迷わない。

小さく息を吸って、そのまま開ける。

「こんばんは」

「お、こんばんは」

倉橋清太郎が顔を上げた。

手元の土から目を離して、にこっと笑う。

「来たねえ」

その言い方に、実麗の口元が少しだけゆるんだ。

「……はい」

「寒かったろ。手、出してごらん」

「え」

「冷えてると、土もびっくりするから」

文江がくすっと笑う。

実麗は少しためらってから、手を出した。

自分の手のひらを見られるだけで、なぜか落ち着かない。

「うん、今日は昨日よりまし」

倉橋がそう言って、台の上の器を指した。

「削り、やってみるか」

実麗は目を瞬いた。

昨日よりまし。

その言葉が、思ったよりうれしい。

「私が、ですか?」

「うん。これ」

倉橋がそっと器を持ち上げる。

伏せた器の底。

まだやわらかさを残した土肌。

脇に置かれた道具の金属が、灯りを細く返した。

実麗は近づいてのぞきこむ。

器の表面に、指の跡みたいなわずかな流れが見える。

「ここをね、少しずつ」

倉橋の声は低くてゆっくりだ。

急がせない。

試さない。

ただ、隣で一緒に見ている。

「削りすぎると薄くなる。怖がりすぎると重たくなる。ちょうどいいところを探すんだ」

実麗は小さくうなずいた。

唇が少し乾く。

舌先でそっと湿らせる。

「座って」

実麗はろくろの前に腰を下ろした。

膝が少しだけくっつく。

背筋がまっすぐになる。

道具を持つ指先に力が入りすぎて、自分で気づいて、少しゆるめる。

「そんなに握らなくて大丈夫」

「……はい」

倉橋が器を軽く回した。

ゆっくり。

円がぶれずに流れる。

実麗は目で追う。

呼吸を忘れそうになる。

「ここから当ててみようか」

「はい」

刃先が土に触れた瞬間、しゃり、と小さな音がした。

薄い土が、くるりと巻いて落ちる。

実麗のまつ毛がぴくっと揺れる。

「そうそう」

「……これで、合ってますか?」

「合ってるよ。丁寧だねえ」

その一言で、実麗の手が止まりかけた。

「え」

「丁寧」

倉橋は当たり前みたいに言った。

「急がないの、いいよ。土はそれ、ちゃんとわかるから」

実麗は器と自分の手を見た。

次に、倉橋の顔を見る。

からかわれている感じはない。

試されている感じもない。

ほんとうに、ただそう見えたから言った顔だった。

「……初めて言われました」

ぽろっとこぼれてから、実麗ははっとした。

すぐに目を伏せる。

「何が」

「その……丁寧、とか」

声が小さくなる。

言いすぎた気がして、肩が内側に入る。

けれど倉橋は、「そっか」とだけ言った。

それ以上は聞かない。

深追いしない。

そのことが、かえって胸にしみた。

「実麗ちゃん、手先きれいねえ」

文江が向こうから声をかける。

糸のように細い目がやさしく笑っている。

「削りって、性格出るのよ」

「性格……」

「そう。乱暴な日は乱暴になるし、落ち着いてる日は、すっと入るの」

実麗は器に触れたまま、少しだけ息を吐いた。

「今日は、どう見えますか?」

自分から聞いてしまって、また驚く。

こんなふうに聞くつもりじゃなかったのに。

文江は首をかしげて、実麗の手元を見た。

「がんばって、静かにしようとしてる日」

その言葉に、実麗の指先が止まる。

胸の奥を、そっと触られたみたいだった。

「……はい」

それしか言えない。

でも、文江はそれで十分みたいにうなずいた。

削った土が、ろくろのまわりにやわらかく積もる。

しゃり。

しゃり。

細い音が続く。

実麗の肩の高さが、少しずつ下がっていく。

「上手」

倉橋が言う。

今度は実麗も止まらなかった。

ただ耳が熱くなる。

「ありがとうございます」

「うん。ほら、この線きれいだ」

倉橋の指が、削ったばかりの高台の脇を指す。

実麗はその線を見る。

ほんの少しのくぼみ。

ほんの少しの丸み。

さっきまでただの土だったものが、自分の手のあとを持ち始めている。

胸の中で、小さな灯がつく。

明るすぎない。

でも消えない、あたたかい色だった。

別の夜。

ろくろの前で、実麗は両ひじを脇に寄せた。

土のかたまりが、回る。

ぶれる。

またぶれる。

「力、上からだけじゃなくてね」

倉橋の声。

実麗は唇をきゅっと結ぶ。

「はい」

「押さえつけるんじゃなくて、集める感じ」

「集める……」

「うん。真ん中に帰す」

真ん中。

その言葉に、実麗は土を見つめた。

回る。

揺れる。

指先がふらつく。

焦る。

余計にずれる。

「だめだ……」

思わず漏れた声に、文江がすぐ首を振る。

「まだだめじゃないわよ。途中」

倉橋も静かに言う。

「土、怒ってない」

実麗は息を飲んで、もう一度手を置いた。

掌に伝わる回転。

冷たさ。

重さ。

少しだけ前よりわかる。

「ゆっくり」

「……はい」

回る。

押す。

戻す。

指の内側に、ぶれが集まる。

また散る。

もう一度。

もう一度。

ふっと、揺れが小さくなった。

「あ」

実麗の目が開く。

回っているのに、さっきまでの暴れ方が消えている。

「そう、それ」

倉橋の声が少しだけ弾んだ。

「中心、来た」

実麗は息を止めたまま、土を見つめる。

まるく、静かに、ぶれずに回る。

自分の手の下で、ようやく落ち着いたみたいに。

「……ほんとだ」

声が、少し笑っていた。

文江がにこにこしながら言う。

「中心が取れた日は、心も少し整うって言うのよ」

「それも噂ですか」

「ええ。好きなの、そういうの」

実麗は土を見つめたまま、小さく笑った。

笑ったのが自分でもわかった。

頬がやわらかく動いた。

帰り道。

工房の灯りを背にして角を曲がったときだった。

「あれ、蘭?」

実麗の足が止まる。

喉がきゅっと縮む。

街灯の下に、制服姿の紬が立っていた。

コンビニの袋を提げて、こちらを見ている。

「え、なんでこんな時間に」

実麗の指先が、鞄の持ち手を強く握る。

「ちょっと……出てて」

「その路地、何あるの?」

紬が首をのばして、実麗の背後を見る。

実麗は反射みたいに半歩ずれて、路地をふさぐ。

「いや、べつに」

「べつにって」

紬が笑う。

いつもの軽い笑い方。

でも実麗の背中はもう冷えていた。

「家の人、平気なの?。夜」

「うん。まあ」

「へえ」

短い声。

その一つだけで、実麗は急かされるみたいになる。

「散歩してただけ」

口から出た瞬間、自分で変だと思った。

制服に鞄で、散歩。

しかもこんな路地で。

紬の眉が少しだけ動く。

「散歩?」

「うん」

「ふうん」

その「ふうん」が、やけに長く耳に残る。

実麗は笑おうとした。

うまく上がらない口角を、無理に引いた。

「じゃ、私、帰るから」

「蘭」

呼び止められて、また肩が固まる。

「なに」

「……なんでもない」

紬は袋を持ち直した。

でも目だけは、実麗から離れない。

「気をつけて帰りなよ」

「うん」

実麗はうなずいて、そのまま歩き出した。

早足にならないように気をつける。

走ると余計に変だ。

でも、背中に視線が刺さる。

曲がり角を過ぎても、まだ見られている気がした。

家に着いて、玄関の灯りの下で手を見る。

爪のきわに、土がうすく残っている。

慌てて袖で隠す。

誰も見ていないのに、心臓だけが速い。

翌日

教室で、紬の視線が何度も触れた。

実麗がプリントを出すとき。

窓の外を見たとき。

鞄から筆箱を出すとき。

ふと顔を上げるたび、紬がこちらを見ていて、目が合うとすぐ逸らす。

「……何」

昼休み、実麗が小さく言うと、紬はストローをくわえたまま首を振った。

「別に」

「別にって顔じゃない」

「蘭こそ」

紬はそこで言葉を切る。

紙パックを指でへこませて、また実麗を見る。

「隠しごと、下手なんだね」

実麗の指先が、机の端をきゅっとつかんだ。

「してない」

すぐに返した声が、自分でも少し強い。

紬は笑わなかった。

ただ、前より静かな目で見ていた。

「そっか」

その一言が、妙に遠い。

チャイムが鳴る。

実麗の肩がわずかに跳ねる。

自分で気づいて、すぐに背筋を戻す。

紬はその動きを見ていた。

何も言わない。

でも、前とは違う見方をしているのがわかる。

実麗はノートを開いた。

紙の白さが、少しまぶしい。

昨夜、ろくろの上で静かに回っていた土を思い出す。

あの丸い中心。

指の下で落ち着いていった感触。

胸の奥の小さな灯に、そっと手をかざすみたいに、実麗は目を伏せた。

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作者について

津組セナ

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