第4話 古い言葉
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あらすじ
紬は興味本位で保存会をのぞきに来るが、年長者の遠慮ない言い回しに眉をひそめる。文江の急ぐと歪むよという助言だけで、実麗の背中には叱責を待つ緊張が走る。中学で返事が遅いと責められた記憶が喉に刺さる。けれど保存会では誰も怒鳴らず、待ってくれる。ひびの入りかけた土ほど景色を宿す器になるという噂があった。世代差のある会話に紬は古すぎると言い、実麗は言い返せない。
本文
「ここ?」
紬が路地の奥をのぞきこんだ。
店の灯りの切れた先に、ひとつだけ橙色の明かりが浮いている。
実麗は鞄の持ち手を握りなおした。
「……うん」
「へえ」
紬は半歩前に出る。
スニーカーの先が、土の乾いた地面をこすった。
「ほんとに来てたんだ、こんなとこ」
その言い方に、実麗の肩が少しだけ内側へ入る。
「別に、こんなとこって」
「だって夜だよ?」
紬は笑った。
軽い笑い方。
でも目は、さっきからずっと奥を見ている。
実麗は引き戸の前で立ち止まった。
硝子の向こうに、人の影が揺れる。
低い話し声。
水の音。
土の匂い。
「入るの?」
「……見たいって言ったの、紬でしょ」
「うん。ちょっとだけね」
ちょっとだけ。
その言葉に、実麗はうなずいた。
うなずきながら、喉の奥が細くなる。
戸を開ける。
「こんばんは」
先に声を出したのは実麗だった。
少しかすれた声。
でも、ちゃんと届いた。
「おや、こんばんは」
倉橋清太郎が顔を上げる。
そのあとで紬に気づいて、目尻をやわらげた。
「お友達?」
「……同じクラスの」
「紬です」
紬が先に言って、小さく頭を下げる。
倉橋も「どうも」と頭を下げた。
「見学かな。寒いから、戸は閉めていいよ」
実麗は後ろを振り返る。
紬はきょろきょろしながら中へ入ってきた。
棚の器。
ろくろ。
濡れた布。
紬の目がひとつひとつに止まる。
「すご。ほんとにやってるんだ」
その声で、実麗の指先がぴくっと動く。
何気ないひと言のはずなのに、言い返せない。
文江が布をたたみながら顔を上げた。
「こんばんは。見に来たの?」
「はい」
「ゆっくりしていきなさい」
紬は会釈して、実麗のそばに立つ。
実麗はろくろの前の椅子に座った。
いつもの位置。
膝をそろえる。
背筋を伸ばす。
でも、いつもより肩に力が入る。
「今日はこれ、削りの続きね」
倉橋が器をそっと置く。
伏せた器の底に、灯りが丸く乗る。
「はい」
実麗は返事をした。
少し早すぎた。
自分でもわかる。
わかった瞬間、喉がきゅっとなる。
中学の体育館。
笛。
「返事」
「聞こえない」
「やる気あるの」
耳の奥がざらつく。
「急ぐと歪むよ」
文江の声がした。
その一言だけで、実麗の背中がぴんと張る。
指先に力が入り、道具を持つ角度が固くなる。
次に来る声を待つ。
遅い。
何回言わせるの。
ちゃんとしなさい。
喉の奥に、昔の言葉が刺さる。
「……っ」
息が浅くなる。
けれど、その次は来なかった。
文江は実麗の手元を見て、ただそれだけ言っていた。
倉橋も黙って、器が回るのを見ている。
誰も眉をつらくしない。
誰も声を荒げない。
紬がその空気を見比べるみたいに、倉橋と文江を交互に見た。
「今の、注意?」
ぽろっと落ちた声に、実麗の肩がまたこわばる。
文江は目を丸くした。
「注意というか、助言ねえ」
「へえ」
紬は眉をひそめた。
少しだけ。
でも実麗にはそれがよく見えた。
「なんか、言い方きつくないですか?」
場の空気が、ほんの少し止まる。
実麗の指先が冷える。
今、何か起きる。
そう思って、息を止める。
けれど倉橋は穏やかなままだった。
「そう聞こえたなら、ごめんね」
紬は一瞬、言葉を失った顔をした。
「いや、べつに……」
「実麗さん、びっくりした?」
文江が実麗を見る。
責める目じゃない。
ただ、確かめる目だった。
実麗は口を開く。
声が出ない。
返事が遅い。
またそれで何か言われる。
喉がひりつく。
「……だい、じょうぶです」
やっと出た声は、少し掠れていた。
文江は「うん」とうなずいた。
「ならよかった。急がなくていいからね」
急がなくていい。
その言葉が、喉に刺さっていたものを少しだけゆるめた。
倉橋が器を軽く押さえる。
「待ってるから、ゆっくりでいいよ」
待ってる。
そのひと言に、実麗の目がわずかに揺れる。
待ってる。
早くしろじゃなくて。
返事はまだかじゃなくて。
待ってる。
実麗は小さく息を吐いた。
それから、道具を当てる。
しゃり、と薄い土がはがれる。
細く丸まって落ちる。
「そうそう」
倉橋の声が低くつづく。
「そのまま」
紬は少し離れたところで腕を組んだ。
棚の器を見て、ろくろを見て、また文江を見る。
「でも、そういう言い方、古くないですか」
実麗の手が止まりかける。
文江が「あら」と笑う。
怒った顔ではない。
でも紬は笑っていない。
「古い?」
「なんか、遠慮ないっていうか」
「そうかもしれないねえ」
文江は布で手をぬぐう。
ゆっくり。
いつもどおり。
「年を取ると、まっすぐ言っちゃうことがあるのよ」
「それで傷つく人、いると思います」
その言葉で、実麗の胸がぎゅっと縮む。
言い返せない。
紬が間違っているとも言いきれない。
でも、ここでそれを言われるのがつらい。
器の縁に、爪がかすかに触れる。
ぴし、とごく小さな音がした気がして、実麗は息をのむ。
「大丈夫」
倉橋がすぐに言った。
低い声。
急がない声。
「ひび、入りかけの土ほど景色を宿すって言うしね」
文江がふっと笑う。
「ねえ、そういう噂」
実麗は器を見つめた。
ほんのわずかな筋。
まだ壊れていない。
まだ、持っていける。
「続けてごらん」
倉橋の声に、実麗はこくりとうなずいた。
指先はまだ少し震えている。
でも、さっきよりちゃんと土に触れられる。
しゃり。
しゃり。
削った薄片がろくろのまわりに積もっていく。
紬がその音を聞きながら、小さく鼻で息をした。
「私、無理かも。こういうの」
誰に言うでもないみたいな口調。
でも、ちゃんと聞こえる大きさだった。
実麗は顔を上げない。
上げたら何かこぼれそうだった。
「古すぎるし」
そのひと言が、灯りの中で冷たく落ちる。
文江は少しだけ目を細めた。
けれど、言い返さなかった。
倉橋も、土を見ている。
実麗の唇がうすく結ばれる。
言い返せない。
ここはそんな場所じゃない。
でも、だからこそ、うまく守れない。
「……そうかも」
やっと出た声は、自分のものなのに遠かった。
紬がちらっと実麗を見る。
「蘭は平気なんだ」
平気。
その言葉に、実麗の指先が止まる。
平気じゃない。
でも、平気じゃないと言う口がない。
「……ここ、静かだから」
やっとそれだけ言う。
紬は少しだけ目を見開いた。
「静か、ね」
文江がふっと笑う。
「怒鳴る人がいないだけよ」
倉橋が「それは大きい」と言って、くすっと笑った。
その笑い声に、実麗の肩の力がほんの少し落ちる。
紬は笑わなかった。
でも、さっきより口を閉じていた。
棚の器を見る。
回るろくろを見る。
実麗の手元を見る。
「……待ってくれるんだね」
ぽつりと、紬が言った。
実麗はそこで初めて顔を上げた。
紬の目は、さっきの刺すような色ではなかった。
少しだけ、迷ったみたいな目だった。
「うん」
実麗は小さく答える。
「待ってくれる」
それだけ言うと、喉の奥がじんとした。
でも今度は、刺さる痛みじゃなかった。
倉橋が、できあがりに近い器をそっと手で示す。
「ほら、いい形」
文江もうなずく。
「急がなかったからよ」
実麗は器を見る。
まだ完璧じゃない。
少し頼りない。
でも、自分の手でここまで来た形だった。
紬は何も言わずに、その器を見ていた。