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第6話 割れ目の夜

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/30 📚 シリーズ: 手の中の土、歪んだ器 📝 2,935文字 ✅ 全年齢

あらすじ

文江の続く子だけが一人前という言葉に、実麗は昔の部室の空気を重ねてしまい、次の保存会を休む。休めば叱られると身構えるが、届いたのは清太郎の土は逃げないよという短い伝言だけだった。その優しさに、実麗は初めて休んだ自分を責めきれなくなる。砕いた失敗作を混ぜた土は前より強くなるという噂がある。次の夜、実麗は自分から戻り、中学で辞めたいと何度も言って叱られたことを断片だけ話す。文江は黙って湯気の立つ茶を差し出す。

本文

「続く子だけが、一人前になるのよ」

文江の声は、いつもと同じだった。

やわらかくて、丸くて、悪気のない声。

でも実麗の指先は、そのひと言で止まった。

ろくろのそばに置いた布をつかむ。

握ったまま、ほどけない。

肩が、すっと上がる。

喉の奥が細くなる。

続く子。

一人前。

やめるな。

続けろ。

途中で投げるな。

部室の白い蛍光灯。

笛の音。

汗のにおい。

壁に並んだバッグ。

返事が遅いと飛んでくる声。

「聞こえない」

「やる気あるの」

「ここで逃げたら一生逃げ続ける」

実麗はまばたきをした。

目の前には、土の色の机。

湯気のない夜。

静かな灯り。

なのに、背中だけ昔のままだった。

「実麗ちゃん?」

文江が首をかしげる。

「……はい」

返した声が、自分でもわかるくらい薄い。

倉橋清太郎が、その横顔を見た。

何も言わない。

ただ、見ていた。

実麗はうつむいたまま、器の縁に指を触れた。

冷たい。

少しざらつく。

その感触だけを追う。

「今日は、このへんにしようか」

倉橋がそう言ったとき、実麗は助かったと思った。

思ったことに、すぐ罪悪感が追いついた。

「……はい」

帰り道、商店街の灯りが滲んで見えた。

風はぬるいのに、手の中だけ冷たい。

鞄の持ち手が、やけに固い。

続く子だけが。

続く子だけが。

何度も頭の中で言葉がこすれる。

家に着いても、制服を脱いでも、歯を磨いても、消えなかった。

次の夜。

十九時が近づく。

時計の針を見る。

見ないふりをする。

また見る。

玄関まで行って、戻る。

鞄に触れて、離す。

手のひらに汗がにじむ。

休んだら。

何て言われる。

連絡もない。

勝手。

続かない。

やっぱりね。

そういう子だと思った。

胸の奥が、きゅうっと縮む。

実麗は部屋の隅に座りこんだ。

膝を抱える。

カーテンのすき間から、細い夜の色が見える。

十九時。

十九時十分。

十九時二十三分。

スマホが、小さく震えた。

実麗の肩がびくっと跳ねる。

すぐには見られない。

画面を伏せたまま、呼吸だけ速くなる。

また震えない。

一度きり。

恐る恐る手を伸ばして、画面を見る。

倉橋からだった。

短い文字。

土は逃げないよ

それだけ。

実麗は、画面を見たまま動けなかった。

責める言葉がない。

どうして来ないのも。

次はちゃんとしても。

何もない。

土は逃げないよ。

その一行が、胸の真ん中に落ちる。

じんわり広がる。

痛いような、あたたかいような、変な熱。

実麗の唇がふるえた。

泣くつもりなんてなかったのに、目の奥が急に熱くなる。

「……ずるい」

誰に聞かせるでもなく、こぼれる。

責められたほうが、まだ慣れていた。

優しくされると、どこに力を入れていいのかわからない。

画面を胸に押しあてる。

膝の上に額をつける。

そのまま、長く息を吐いた。

責めなきゃ。

休んだ自分を。

ちゃんと行けない自分を。

でも、うまく責めきれなかった。

土は逃げないよ。

その言葉が、何度も間に入ってくる。

次の夜。

実麗は自分で靴を履いた。

玄関の灯りが、つま先を白く照らす。

戸に手をかける。

少しだけ止まる。

でも、戻らない。

路地の先に、あの灯りが見える。

昨夜と同じ場所。

同じはずなのに、少しだけ違って見えた。

引き戸の前。

指先で取っ手をつかむ。

冷たい金属。

ひとつ息をして、開ける。

「こんばんは」

倉橋が顔を上げた。

文江も振り向く。

どちらも、驚きすぎない顔だった。

「こんばんは」

倉橋が笑う。

それだけ。

「……昨日」

実麗の声が、そこで止まる。

「うん」

倉橋は待っていた。

急かさない。

続きを取りにこない。

実麗は視線を落とした。

土間の木目。

自分の靴先。

そのあいだを見つめる。

「休みました」

「うん」

「すみません」

倉橋は首を横に振った。

「来ない日もあるよ」

実麗のまつ毛が揺れる。

それだけの返事で、喉がまた熱くなる。

文江は何も言わなかった。

茶の入った湯のみをひとつ持って、実麗の前に置いた。

白い湯気が、ほそく立つ。

「熱いから、気をつけてね」

それだけ言って、少し離れる。

実麗は両手で湯のみを包んだ。

じんわり熱い。

掌のこわばりが、少しずつほどける。

「……中学では」

ぽつりと、声が落ちる。

自分から言い出したことに、自分で驚く。

でも、もう止められなかった。

倉橋が椅子を少し引いて、向かいに座る。

文江は黙って布をたたんでいる。

耳は、たしかにこちらを向いている。

「中学で」

実麗は湯気を見る。

まっすぐのぼって、すぐほどける。

「辞めたいって、何回も言って」

喉が詰まる。

言葉がそこで引っかかる。

返事が遅い。

また遅いって思われる。

でも、誰も何も言わない。

「……叱られて」

指先が湯のみの縁をなぞる。

熱い。

でも離したくない。

「休みたいって言っても」

声が小さくなる。

それでも続ける。

「叱られて」

倉橋は、ただうなずいた。

一度だけ。

深く。

文江の手も止まっていた。

けれど口ははさまない。

「だから」

実麗は、うまく笑えない顔で唇をゆがめた。

「休むの、ちょっと……だめな感じがして」

最後のほうは、ほとんど息だった。

しん、とする。

でも、冷たい静けさじゃない。

湯気のある静けさだった。

倉橋がゆっくり口を開く。

「そうだったんだね」

たったそれだけ。

実麗は目を上げた。

それだけ。

責めも、慰めすぎる声も、正しさもない。

そうだったんだね。

その言い方に、胸の奥がゆるむ。

ゆるんだぶんだけ、痛い。

文江がそっと近づいて、急須を持ち上げた。

「もう少し飲む?」

実麗は小さくうなずいた。

文江は何も言わずに茶を足す。

とくとく、と静かな音。

湯気がまたのぼる。

「砕いた失敗作を混ぜた土のほうが、前より強くなるって話、聞いたことある?」

文江が湯のみを置きながら言う。

実麗は顔を上げる。

「……噂、ですか?」

「ええ」

文江が少し笑う。

でも、いつもの調子より静かだった。

「私は、そういうの嫌いじゃないの」

倉橋が、横でふっと息をつく。

「文江さんの噂集、増えるねえ」

「いいでしょう」

そのやりとりに、実麗の口元がほんの少しだけゆるむ。

「昨日の伝言」

実麗が倉橋を見る。

指先が、湯のみを持つ手に力を入れる。

「……うれしかったです」

倉橋は、ああ、という顔でうなずいた。

「ほんとのことだからね」

「土は逃げない」

「うん」

「人は、逃げてもいいんですか?」

言ってから、実麗は息を止めた。

聞くつもりじゃなかった。

でも、出てしまった。

倉橋は少しだけ考えて、目を細めた。

「壊れる前に逃げたり、戻ってこられる逃げ方なら、いいんじゃないかな。」

実麗は、その言葉をすぐには飲みこめなかった。

でも、飲みこめないまま、胸の中に置いておきたいと思った。

文江が、湯のみを両手で包む実麗の手を見ていた。

それから、ぽつりと言う。

「私の言い方、しんどかったかもしれないねえ」

実麗の目が揺れる。

文江は視線を外さなかった。

「悪気がないのが、いちばん不親切なときもあるのよね」

実麗は何も言えない。

でも、喉の奥に刺さっていたものが、少しだけ位置を変えた気がした。

「……はい」

やっと出た返事は、小さかった。

けれど、ちゃんと届いた。

倉橋が立ち上がる。

「今日は、土触る?」

実麗は湯のみの湯気を見た。

自分の指。

棚の器。

灯り。

「……触ります」

「うん」

そのひと言で、また胸の奥に小さな火がつく。

実麗は立ち上がった。

膝は少しだけ重い。

でも、足は前に出る。

文江が脇へよけて、台をあける。

湯気の向こうで、やわらかく笑った。

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津組セナ

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