第3話Fracture
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あらすじ
Gravity Noir〜地球滅亡寸前の絶望的な世界。老人はギャグ補正で無双する〜 - 第3話Fracture
本文
時雨の左目に紫の光が灯った瞬間、部屋の空気が沈んだ。床板が低く軋み、テーブルの上に置かれていた空き缶が小さく跳ねてから、見えない手に押さえつけられるように潰れる。重力が一瞬だけ強くなったのだ。だがシヴァは足を止めなかった。むしろ口元を吊り上げ、重くなった空気の中へ自分から飛び込んでいく。
速い。時雨がそう認識した時には、シヴァの姿はもう正面から消えていた。右だと判断して黒重を振るが、そこには何もいない。次の瞬間、左腕を鋭い衝撃が掠め、軍服の袖が裂けた。遅れて痛みが走る。シヴァは蹴りを振り抜いた姿勢のまま床を滑り、数メートル先で軽々と体勢を立て直した。
「今の避けるんだ。へぇ、やるじゃん」シヴァは楽しそうに笑った。「でもさ、最高戦力ってもっと凄いのかと思ってた」時雨は返事をせず、黒重を正眼に構え直した。呼吸が浅い。傷は塞がっていても、血を失った疲労までは消えていなかった。
ケリーは腕を組み、呆れたように二人を眺めていた。「病み上がりの女の子相手に本気出すとはのぉ。モテない男の見本市じゃ」「うっせぇジジイ!」シヴァは怒鳴りながら再び踏み込む。今度は真正面だった。ナイフが銀色の線となり、時雨の喉、肩、脇腹へ立て続けに走る。
時雨は黒重で受けた。一撃。二撃。三撃。金属音がほとんど一つに繋がって聞こえるほど速い。受け流すたびに腕へ重い衝撃が伝わり、握力が削られていく。シヴァは単純に速いだけではなかった。ナイフを振る軌道の途中へ拳を混ぜ、刀を受ける時雨の意識を細かく散らしていた。
「ほら、こっち!」
左からナイフが来る。時雨は黒重を上げた。その瞬間、シヴァは刃を引いた。囮だった。空いた正面へ拳が飛び込む。時雨は首を捻って避けるが、拳は頬を浅く擦った。反撃しようと黒重を振り下ろした時には、もうシヴァは背後へいる。
時雨は床の重力を局所的に増した。シヴァの足元が沈み、床板に蜘蛛の巣状の亀裂が入る。普通の人間なら膝をつく圧力だった。しかしシヴァは歯を食いしばっただけで、片足を強引に引き抜いた。そのまま低い姿勢から蹴りを放ち、時雨の刀を持つ腕を弾き上げる。
「それが能力? しょぼ」
「……牽制」
「じゃあ本気出せよ」
時雨は答えなかった。出せないのではない。出したくなかった。ここはケリーたちの家だ。昨日まで自分を知らなかった人間たちが、傷ついた自分を置いてくれた場所だった。重力の出力を少し上げれば、壁も床も容易く壊れる。今の自分に、それを寸前で止められる自信はなかった。
シヴァの目が細くなる。「舐めてんの?」時雨はわずかに眉を寄せた。「ちがう」「じゃあ使えよ、自慢の能力」返事の代わりに黒重が走る。シヴァは体を反らして刃を避け、時雨の懐へ滑り込んだ。
拳が腹へ入る。時雨の息が詰まった。その一瞬にナイフが肩口を狙い、黒重が辛うじてそれを弾く。だがシヴァは止まらない。ナイフ、拳、肘、蹴り。規則性がありそうでない連撃が、時雨の防御を少しずつ崩していく。時雨は刀で受けるだけで精一杯になっていた。
そして一発、完全に見えなかった拳があった。
鈍い音が響いた。シヴァの右拳が時雨の顔面へ真正面から突き刺さる。小さな体が宙へ浮き、二メートル以上吹き飛ばされた。時雨は床を転がりながら黒重を離さなかったが、視界は激しく揺れ、鼻の奥に鉄の味が広がった。
「使えよ」シヴァは苛立ったように吐き捨てた。「能力あるくせに、なんで使わないんだよ」時雨は片膝をつき、刀を支えにして立とうとする。左目の紫光が強くなり、周囲の椅子が震え始めた。だがその光はすぐ弱まった。
まだ制御できない。強くすれば、どこまで重くなるか分からない。床だけで済むのか、建物全体を潰すのか、それすら確信がなかった。時雨は唇を噛んだ。
「……おうち、壊したくない」
小さな声だった。だがゴミトカゲには聞こえた。ソファの上で寝ていた彼は僅かに目を開け、何か言いかけてやめた。シヴァはその理由に気づかず、舌打ちしてナイフを構え直した。
シヴァが再び床を蹴った。時雨は痛む頭を振り、黒重を構える。今度は最初から目で追うことを諦め、気配と足音だけを拾った。右、左、正面。細い風切り音を頼りに刃を合わせる。激突するたび火花が散り、室内の空気が張り詰めていった。
病み上がりとはいえ、時雨も日本軍最高戦力だった。何度か攻防を重ねるうちに、シヴァの速度そのものには慣れ始めていた。踏み込む直前に左肩がわずかに下がること。右へ回り込む時だけ床を蹴る音が軽いこと。速さの奥にある癖が、少しずつ見える。
シヴァが喉を狙って突く。時雨は半歩だけ横へずれ、黒重の峰で手首を叩いた。ナイフがわずかに逸れる。その隙に刀の柄尻を胸へ叩き込む。シヴァは腕を交差して受けたものの、初めて後方へ押し戻された。
「……へぇ」シヴァの笑みが濃くなる。時雨は無言で間合いを詰めた。黒重が下から跳ね上がり、シヴァは紙一重で避ける。前髪が数本宙を舞った。「おっかねぇな、クソガキ」「チビって言わなかった」「そこ気にしてんの?」
その時だった。
「佐渡ヶ島観光RTA!!!」
戦闘中の二人だけでなく、タフもイカボンもゴミトカゲも、一斉にケリーを見た。
「はい。まず概要としてグリッチは使います。TASも使います。どんな汚い手を使ってでもハーバードに行きます。まず人によっては零式艦戦五十三型、岩本隊を使うかもしれませんが今回はあえて使いません。最初に佐渡ヶ島の番人との戦闘ですが、相手はスイーパーを投げてくるのでスニークしながら二回転してムーンウォークしてください」
「何の話だよ!?」イカボンが叫んだ。しかしケリーは止まらない。「途中ゲイリーが死ぬかもしれませんが後で蘇生するので問題ないです。すると相手の攻撃が一瞬止むので、そのタイミングで盆栽に突っ込んでください。壁抜けバグが発生して佐渡ヶ島王国の王城に辿り着きます」
時雨の目が、ほんの一瞬だけケリーへ向いた。
「二階のトイレの奥から二番目の個室に入るとSAN値が全回復します。その後シリコンバレーの気温が六十華氏を超えるので、そのFUN値が六十九のタイミングで冷蔵庫が走ってきます。そしてゲームクリアです。記録は七分五十四秒です」
意味が分からなかった。どこからどこまでが佐渡ヶ島なのか、なぜハーバードへ行くのか、時雨には何一つ理解できない。理解できないからこそ、脳が一瞬だけ処理を止めた。
その一瞬を、シヴァは逃さなかった。
「よそ見すんな!」
横から蹴りが刺さった。時雨の腕を守りに回す時間はなかった。脇腹へ踵がめり込み、体が大きく横へ飛ぶ。壁が迫る。次の瞬間、後頭部へ硬い衝撃が走り、世界が白く弾けた。
黒重が床へ落ちた。
「……時雨?」ゴミトカゲが起き上がる。返事はない。時雨は壁にもたれるように崩れ、そのまま動かなくなった。シヴァの顔から血の気が引く。
「え、いや……ちょ、時雨?」
「お前」
ゴミトカゲの声が低くなった。
数時間後、時雨はゆっくり目を開けた。白い天井が見える。また病院かと思ったが、前に運ばれた病院とは違う。機械はさらに新しく、壁には見たこともない医療設備が並んでいた。地下施設の中にある、ケリー所有の医療室だった。
枕元にはゴミトカゲとケリーがいた。二人とも、珍しく心配そうな顔をしている。そして部屋の隅には、正座したシヴァがいた。頬は腫れ、頭には大きなたんこぶが二つある。どうやら時雨が眠っている間に、相当こっぴりシメられたらしい。
「起きたかのぉ」ケリーが胸を撫で下ろした。「この家に最新医療施設なかったら多分死んでたぞい。あ、このチー牛はシヴァって言います」
「紹介今!?」
シヴァは気まずそうに膝を進めた。「あのー……時雨ちゃん……?」時雨はしばらく彼を見つめる。顔はほとんど無表情だった。
「なに? ゲスメガネ」
ケリーが吹き出した。「ブハハハハハ! ゲスメガネ! 秀逸じゃ!」ゴミトカゲも腹を抱えるように笑った。「いいな、それ。すごく似合ってる」シヴァの肩が目に見えて落ちる。
「いや、その……さっきは悪かったって言おうと……」
最後まで聞かず、時雨は目を閉じた。数秒で小さな寝息が聞こえ始める。シヴァは完全に固まった。
医療室を出たあと、シヴァはイカボンの横へ寄った。「なあ……僕、最初の対応間違えた気がする」イカボンは哀れむような目を向ける。「対応ミスったなんてレベルじゃないぞ。お前、嫌われたな」
「うそだろ……」
タフは両拳を上げた。「よっしゃ! シヴァのおかげで多分オレは比較的嫌われてないッス! ありがとうッス!」
「お前も大概だけどな」
シヴァはさらに落ち込んだ。
その数分後、ケリーが一通の厚い封筒を抱えて戻ってきた。「モガミンからじゃ。来るのが遅いんじゃ」表には政府機関の封印があり、中には一条時雨に関する資料が束になって入っていた。ケリーが一番手前の経歴書を取り出すと、シヴァが横から覗こうとする。
次の瞬間、ケリーの裏拳が飛び、シヴァは床へ沈んだ。
「時雨のプライベートだから、まずこの中で一番トイレ慣れしてるワシが読む。その後シヴァ以外の奴には内容を抜粋して教えてやる」
「トイレ慣れって何だよ!」イカボンが叫ぶ横で、床のシヴァが泣いた。
ケリーは封筒を持って隣室へ移動しようとしたが、帰ろうとしたイカボンの襟首を掴んだ。「お前も来い」「なんで俺まで」「一人で読むと途中で飽きる」無茶苦茶な理由で引き戻され、二人は机の前へ座った。ケリーは紙束を広げ、一番上の経歴書へ目を落とす。
「色々状況が複雑でワシもあまり分からないが、とりあえず女の子だから対応ミスんないようにな。どっかのゲスメガネみたいに」廊下の向こうからシヴァの号泣が聞こえた。ケリーは気にせずページをめくる。「ワシは大体知っていたけど、あの娘は暗殺者養成組織の出身じゃ」
イカボンの表情から笑いが消えた。資料には、幼少期に保護された経緯、影の庭園で受けた訓練、暗殺任務への投入、その後に軍へ移された記録が無機質な文章で並んでいる。まだ十歳にも満たない子供へ、戦闘、潜入、殺人の技術を叩き込み、実際に人間を殺させた。その事実が行政文書のような乾いた言葉で記されていることが、かえって不気味だった。
「……こんなの、子供にやらせることじゃねえだろ」
「じゃのぉ」
次に出てきたのは、当時の組織で勝手に時雨の世話をしていた人物と、先代の首相が残した観察記録だった。ケリーは序盤を鼻くそをほじりながら適当に読み、「好きな食べ物、イチゴと八ツ橋。ほほう」とどうでもよさそうに呟いていたが、途中から手が止まった。
イカボンも横から文章を追う。そこには時雨の情緒発達について詳細な記録があった。実年齢十四歳。知能に問題はなし。ただし長期間にわたる極度のストレス、幼少期からの軍事訓練、保護者との死別などの影響により、感情面での発達はおおよそ八歳程度と推定される――。
「八歳……」イカボンは思わず呟いた。戦場では冷静で、軍では中佐。それだけを見れば大人びているように思える。だが病室で頭を撫でられただけで泣き、初対面のゴミトカゲに兄の面影を見つけて甘えた。十四歳として考えると奇妙だった反応が、急に腑に落ちた。
「大人みたいに振る舞う方法だけ覚えた子供、って感じか」
ケリーは何も答えず、別の書類を手に取った。しかし数行読んだところで、露骨に呆れた顔になる。そこには『“意思”』『上位世界』『天使』『血統干渉』など、先ほどまでの公的記録とは明らかに毛色の違う単語が並んでいた。
「なんじゃこれ」
ケリーはそれを見て顔をしかめた後紙を丸め、ゴミ箱へ投げた。
「何やってんだよ! 重要書類だろ!」
「ワシはレイカーズに行くんじゃ!!」
「急に何だよ! ジジィ! お前何歳だよ!」
「六十八じゃ!」
「一歳若くすんなよ!」
結局イカボンが慌てて書類を拾ったが、『高次元』や『天使』が何を意味しているのかは分からないままだった。ケリーはもう興味を失ったように、どこからか持ってきたバスケットボールをつき始める。そのまま片手でスマートフォンを操作し、最上総理へ電話をかけた。
「モガミン! 元気?」
『あ、はい』
「メールだとすごい偉そうだったけど調子乗んなよ」
『ごめんなさい……』
イカボンは、内閣総理大臣へこれほど自然にパワハラする人間を初めて見た。「資料届いたよ。ありがとね。別に届くの遅いとか思ってないから安心してくれ、怒」ケリーは声だけ笑っている。電話の向こうが沈黙した。
「なんか言えよ」
『……読んで、どうでした?』
「社会の闇を感じたのぉ。キミはなんでそんな組織を放置してんの」
『日本の戦力は依然厳しくて、彼らに頼るしかなくて……向こうは能力者が結構いて……』
「先代の総理大臣と比較して頼りないって世論も言ってるぞ」
『北山総理は凄すぎたので』
「諦めたらそこで政権終了ですよ」
『ケリー先生。政治がしたいです』
イカボンは額を押さえた。何の電話なのか分からなくなってきた。ケリーはバスケットボールを股の間に通しながら、「そういや被害状況どうなってるん?」と急に真面目な声を出す。
『東京は未だに苛烈な攻撃を受け続けていて、被害が大きいです。首都移転も視野に入っています。ただ……』
「ただ?」
『東京と同じぐらいの兵が大阪・京都に送られているのに、未だに被害がほとんどないんです』
ケリーの手からボールが止まった。「そりゃ奇妙じゃの。ワシも今度行ってくる」『ありがとうございます』「早く童貞卒業できるように頑張れよ。じゃあな」一方的に通話が切れた。
「最後の一言いる?」イカボンの問いに、ケリーは答えなかった。
その後、ケリーは時雨のベッドの周囲へ全員を集めた。可哀想になったのでシヴァも呼んだ。時雨はまだ眠っている。ゴミトカゲはベッドのすぐ横に座り、タフとイカボンがその後ろに立った。ケリーは余計な部分を省き、時雨が元々暗殺者養成組織の出身だったこと、そして感情面の発達が八歳程度と記録されていることを伝えた。
誰も笑わなかった。タフでさえ黙って拳を握り、シヴァはベッドの上の時雨を見ることができず俯いた。ゴミトカゲだけは、眠る少女の頭へそっと前足を置いた。
この少女を守らなければならない。もう悲しい思いをさせたくない。言葉にしなくても、全員が同じことを考えていた。
その頃、大阪。
夕暮れの河川敷には、月華連邦の一般兵が大量に倒れていた。折れたエネルギー銃が草むらに転がり、川面へ赤い夕日が揺れている。戦闘が終わったばかりだというのに、立っている二つの影にはほとんど傷がなかった。
一方は、巨大な顎を持つノコギリクワガタだった。もう一方は、サングラスをかけ、ピッケルを肩へ担いだ巨大なモグラである。
「はぁ〜、今日も雑魚ばっかで退屈やったわ」クワガタは大顎を鳴らし、河川敷を見渡した。「そろそろ四天王でも来てくれへんかな〜」
モグラはサングラスを押し上げた。
「分かるぜ、ダチ公」
夕日の中で、二つの影が長く伸びた。