第5話Dread
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あらすじ
Gravity Noir〜地球滅亡寸前の絶望的な世界。老人はギャグ補正で無双する〜 - 第5話Dread
本文
タツオミ・ヤマシロは軍用機の簡易医療室で、股間を押さえながら悶絶していた。右足を賭けた強化の反動、狂四郎に叩き込まれた拳、モGURAのピッケルで抉られた左腕、そして何より右の金玉を賭けて負けた代償。どれも痛い。だが肉体の痛みより、あの巨大なクワガタとモグラに何一つ通用しなかったという事実の方が、彼の自尊心を深く傷つけていた。
それでも報告だけはしなければならない。タツオミは歯を食いしばり、通信端末を起動した。画面に月華連邦本部への回線が繋がる。相手の姿は映らず、低く落ち着いた声だけが聞こえた。
「作戦は失敗しました。大阪で大量の兵を殺していたのは、謎のクワガタとモグラでした。とても強く……全く歯が立ちませんでした。蛟龍様、お許しください」
『分かった』
返ってきた声には怒りも侮蔑もなかった。それが逆にタツオミには怖かった。
『アジア支部を中国から大阪へ移動させる。貴様はダニエルの指示に従え』
「……ダニエル、ですか」
『そうだ。異論は認めない』
通信が切れた。
「くそがぁぁぁぁぁぁぁ!!」
タツオミは枕を壁へ投げつけた。月華連邦本部の人間は、地球侵攻部隊より明確に立場が上だ。タツオミはそれが昔から気に入らなかった。自分たちは地球で血を流しているのに、本部の連中は安全な場所から命令する。そのうえ今回、従えと言われた相手はダニエル・モジャ・ションベン。自分よりずっと若い男だった。
「なんで俺が……あんなガキの指示に……!」
だが蛟龍の命令には逆らえない。四天王という肩書きも、月華連邦全体から見れば絶対ではない。東京で老人に負け、大阪でクワガタに負け、次は年下の支部長の下につけと言われる。屈辱の連続だった。
しかもダニエルは、タツオミから見れば妙に軽薄で、人を食ったような態度を崩さない男だった。実力がないとは思わない。むしろ危険な男だということは分かっている。それでも「年下に使われる」という一点だけで、タツオミの中では何もかもが気に入らなかった。負けた直後の傷口へ塩を塗られるどころか、その上から靴底で踏みつけられたような気分だった。
その頃、地下施設では平和そのものの光景が広がっていた。
「ん……おいしい」
時雨は両手で小さな皿を持ち、その上のイチゴを一粒ずつ大事そうに食べていた。ケリーたちは朝五時台から開いている八百屋を執念で探し出し、ようやく一箱手に入れてきたのだ。甘い果汁が口の中に広がるたび、時雨の表情はほんの少しだけ柔らかくなった。
「うまいか?」
ゴミトカゲが尋ねると、時雨はこくりと頷いた。
「うん」
ケリーはその様子を満足そうに眺めていたが、突然スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前を見て「あ、モガミンじゃ」と呟き、そのまま通話ボタンを押す。
「こちらケリー幼稚園です」
『緊急です! 静岡に大量の月華連邦兵が現れました。日本軍では全く歯が立ちません。助けてください、ケリーさん!』
「オーケー牧場」
『ありがとうございます! 軍用車で迎えに参ります!』
通話が切れた。
ケリーは何事もなかったように振り返る。
「みんな、静岡って行ける?」
「は?」
イカボンが固まった。タフもイチゴを一粒つまもうとしていた手を止める。ゴミトカゲだけは欠伸をしていた。時雨も口の中のイチゴを飲み込んでから、ゆっくり瞬きをする。
「月華連邦いっぱい来たんだってさ」
「説明が雑すぎるだろ!」
「じゃあメンバーはワシが勝手に決めるわ。時雨、ゴミトカゲ、タフ、イカボン」
部屋の隅で寝袋に包まっていたシヴァが跳ね起きた。
「僕は!?」
「留守番」
「なんでだよぉぉぉぉぉ!」
シヴァが本気で泣き始める。
時雨はイチゴをもう一粒口へ入れ、淡々と言った。
「ゲスメガネいなくてよかった」
「追撃やめろよ!」
シヴァは完全に沈んだ。
ケリーは時雨へ向き直った。「時雨、トカゲの強さを見た方がいいぞい。お前はもう守られる側でいいんじゃ。タフは……ワシと同じタイプじゃ」
時雨は数秒タフを見つめ、それからケリーを見た。
何となく全部察した。
「……変なひと?」
「そういうことじゃ」
「そこ認めるんッスか!?」
数十分後、政府手配の軍用車が地下施設の近くへ到着した。ケリーは出発直前になって、「ワシはこのゲスメガネと靴べら業界の未来について語り合うから、気楽にやってきてくれ」と言い出し、本当に残った。シヴァは「誰がゲスメガネだ」と怒鳴っていたが、ケリーはすでに靴べらの市場規模について資料を広げていた。
◇
軍用車の中で、わたしはずっと窓の外を見ていた。
軍用車に乗るのは嫌いだ。金属の匂い、座席の硬さ、エンジンの振動。全部、昔の任務を思い出す。影の庭園にいた頃も、軍に入ってからも、こういう車に乗った先には大抵誰かの死があった。命令を受けて、降りて、戦って、戻る。戻れない人もいた。
手のひらが冷たくなる。
「時雨」
隣にいたにーにが、わたしの頭へ前足を置いた。
「そんな気負うな。俺が守るから」
「……ほんと?」
「ほんとだ」
頭を撫でられる。少しだけ胸の奥が軽くなった。
「にーに」
「なんだ」
「……ありがと」
にーには何も言わず、もう一度だけ撫でてくれた。
静岡へ入ると、景色はすぐ変わった。道路には壊れた軍用車両が転がり、建物の壁にはエネルギー銃で焼かれた跡が残っている。幸い一般人の避難はほとんど終わっていたらしい。でも、日本軍の兵士は違った。
死体が多すぎる。
見慣れているはずなのに、胸が痛んだ。倒れた兵士の中には、わたしよりずっと年上の人も、まだ若そうな人もいる。誰かの家族だったはずだ。誰かに帰ってきてほしいと思われていたはずだ。
「近くに発電所がある」
イカさんが地図を見ながら言った。「ここで長引いたらマズい。早く終わらせた方がいい」
わたしは黒重の柄を握った。
「……うん」
前方に月華連邦の部隊が見えた。数は多い。百人以上。装備も地球の兵士より明らかに上だった。
その中心にいた隊長らしき男が、わたしを見つける。
「一条時雨か。お前を倒せば俺も幹部入りだな」
男は下卑た笑いを浮かべ、さらに何か下劣な言葉を続けようとした。
最後まで言えなかった。
にーにが消えた。
そう見えた。
次の瞬間には隊長の目の前へいて、拳が振り抜かれていた。轟音がして、男の体が地面へ叩きつけられる。肉と装備がまとめて潰れ、原形を保てないほど砕けた。
「……え」
わたしは声が出なかった。
速い。
それだけじゃない。
重い。
あれは能力じゃない。たぶん、純粋な身体能力だ。
「時雨」
にーにが振り返る。
「ボーッとしてると危ないぞ」
「……うん」
わたしは黒重を抜いた。
呼吸を整える。
左目の奥が熱くなる。
紫色の光が視界の端に滲んだ。
重力を、落とす。
空気が沈んだ。
加減はする。ここには味方がいるし、発電所も近い。昨日みたいに制御を失えば、敵だけじゃなく全部壊してしまうかもしれない。それでも、目の前の兵士たちを止めるには十分だった。
前方にいた兵士たちの膝が一斉に折れる。何人かは地面へ押し潰され、装甲が軋み、アスファルトに亀裂が走った。
「重力操作か。強い能力じゃねぇか」
ゴミトカゲが言った。
「綺麗な目してんじゃん」
「……ありがと」
少し恥ずかしかった。
その横で、タフが突然叫んだ。
「時雨ちゃん見てたら自分の学生時代思い出したッス!」
「なんでだよ。お前男だろ」
イカさんが即座に突っ込む。
「授業をしたくなったッス!!」
意味が分からなかった。
タフは近くにいた月華連邦兵を一発しばいて気絶させると、その兵士を地面へ寝かせ、その上に片足を乗せた。
「スケボーッス!」
「人間だぞそれ!」
タフは気絶した兵士をスケートボードのように滑らせながら、突然講義を始めた。
「ジムの流儀についてッス! 絶対に全裸になってはいけないッス!」
「当たり前だろ」
「けどどうしてもって言うなら……」
「ダメだろ」
「ジム作るッス! ついでに立ち飲みレモンサワー屋も作るッス!!!」
「どうしてそうなるんだよ!」
わたしは刀を構えたまま固まっていた。
敵も固まっていた。
たぶん、全員同じことを考えていた。
何が始まったの?
タフは本当に工具を取り出した。どこから出したのか分からない。木材、鉄骨、ドライバー、電動ノコギリまである。戦場のど真ん中で、ジムの建設が始まった。
「一人だとキツいッス!! 何故神は私にこんな試練を!! 誰か手伝ってくれないとジムが作れないッス!! みんなのためのジムが作れないッス!!! 誰か手伝って欲しいッス!」
タフは両膝をつき、天を仰いだ。
「このセリフに全米が心を動かされた。」
「なわけねぇだろ!」
イカさんの声が響く。
その時、どこからともなく男が現れた。
「私に任せたまえ」
湯呑みを頭に被ったような奇妙な姿をしていた。
タフが目を見開く。
「あなたは……湯呑みマンさん……」
「そうだ。私が湯呑みマンだ」
「あ、そういうのいいんで……帰ってください」
「なんでだよ!」
イカさんが叫んだ。
「あ、はい」
湯呑みマンは素直に帰っていった。ちょっとかわいそう。
沈黙が落ちる。
すると、さっきまで敵だった月華連邦の兵士たちが、なぜか工具を持ち始めた。
「俺たちが手伝うよ」
「わーい!」
タフが喜ぶ。
わたしはもう理解することを諦めかけていた。
「建築は絆〜♪ 建築は平和〜♪ 俳句は日本の誇り〜♪」
誰が作ったのか分からない歌を合唱しながら、タフと月華連邦兵たちは鉄骨を組み、壁を作り、トレーニング器具を運び込んでいく。さっきまで殺し合っていたひとたちが、今は笑顔でベンチプレスを設置していた。
数々の試練を乗り越え、ジムは完成した。
「完成ッス!!」
「おおおおお!」
敵兵たちが歓声を上げる。
「建築で絆が育まれたッス!」
「俺たちはもう仲間だ!」
「そうだ!」
タフは感動したように頷いた。
「みんなジムを使うぞ!!」
月華連邦兵たちは喜んで建物の中へ入っていった。
一人。
二人。
三人。
全員入った。
タフが外から扉を閉め、鍵をかける。
「封印完了」
「……?」
イカさんの顔が引きつった。
「建築で絆を育んだんじゃねぇの?」
「それとこれとは別ッス!」
「最低だろ!」
わたしの頭から、本当に煙が出た気がした。
重力、ゴミトカゲの怪力、タフの授業、スケボー、ジム、湯呑みマン、敵との共同建築、そして封印。
情報が多すぎる。
「……むり」
その場に倒れた。
「時雨!?」
ゴミトカゲが慌てて抱き起こしてくれる。
「大丈夫か?」
「頭……いたい」
「敵の攻撃じゃなくて情報量で倒れたの初めて見たぞ」
イカさんが呆れてた。
しばらくして、周囲は静かになった。敵はほぼ全滅か、ジムに封印された。発電所への危険も当面はない。
「帰ろうぜ」
ゴミトカゲが言った。
わたしもそうしたかった。
でも、その瞬間だった。
背中が凍った。
空気が変わった。
何かが、いる。
さっきまで戦っていた月華連邦の兵士とは比べものにならない。タツオミ・ヤマシロとも違う。あの人は強かった。能力を使った瞬間、わたしは死を覚悟した。
でも、これは違う。
わたしの体が勝手に震えた。
魔力量がどうとか、能力がどうとか、そんなことを考える余裕すらなかった。敵を見ればいつもなら距離、姿勢、武器、視線、足運びを順番に見る。影の庭園で叩き込まれた癖だ。でも今は何一つ頭に入ってこない。見えているのに、脳が理解することを拒んでいる。
息が浅くなる。
黒重の柄を握る手に汗が滲む。
振り返りたくない。
見たら駄目な気がした。
それでも、見た。
河川敷の向こうから、二つの影が歩いてくる。
一つは巨大なモグラ。
もう一つは――巨大なクワガタ。
「わざわざ大阪から遠出したら、オモロそうなヤツらおるやん」
「楽しみだな! ダチ公」
声は楽しそうだった。
だからこそ、怖かった。
わたしは今まで何人も強い人を見てきた。影の庭園の教官。月華連邦の能力者。タツオミ。どれも戦えば死ぬかもしれない相手だった。
でも、目の前のクワガタは何か違う。
強いとか、速いとか、そういう言葉じゃない。
あれは、戦うことそのものを楽しんでいる。
わたしの本能が叫んでいた。
逃げろ。
絶対に戦うな。
あれに刀を向けたら、たぶん終わる。
左目が勝手に紫色へ光り始める。
能力を使うつもりなんてなかった。
なのに、体が勝手に戦闘態勢へ入った。
「……にーに」
声が震えた。
「ん?」
「あれ……なに?」
にーにはしばらくクワガタを見つめた。
「知らん」
その返事すら怖かった。
にーにが知らない。
おじいちゃんの仲間でもない。
月華連邦でもない。
なのに、あの圧。
わたしは初めて思った。
タツオミより強い。
たぶん、ずっと。
クワガタが大顎を鳴らした。
カチン。
ただそれだけの音で、心臓が跳ねた。
「お前、ええ目ぇしとるなぁ」
狂四郎がわたしを見た。
笑っている。
「強そうや」
嫌だ。
その一言だけで、全身の血が冷えた。
殺気を向けられたわけじゃない。ただ面白そうな相手を見つけただけの目だった。それなのに、わたしには首筋へ刃物を当てられているより怖かった。もしあのクワガタが本気で「戦おう」と言ったら、断れる気がしない。逃げ切れる気もしない。
わたしは戦いたくなかった。
初めて、はっきりそう思った。