第6話Clash
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あらすじ
Gravity Noir〜地球滅亡寸前の絶望的な世界。老人はギャグ補正で無双する〜 - 第6話Clash
本文
◇
河川敷に立つ狂四郎から放たれる空気は、異様だった。殺気ではない。敵意ですらない。ただ、強い相手を前にして心の底から嬉しそうにしている。その無邪気さが、時雨には何より恐ろしかった。彼女は震える右手で黒重の柄を握り、ゆっくり鞘から引き抜く。左目の奥が熱を帯び、薄紫の光が滲んだ。
「嬢ちゃん、さっきの重力操作? すごかったやん」
狂四郎は大顎を鳴らし、子供が新しい玩具を見つけたように身を乗り出した。「ちょっとワイにもやってや」
時雨は答えなかった。刀を正眼に構え、呼吸だけを整える。しかし踏み込むより先に、ゴミトカゲが低い声を上げた。
「お前、時雨に近づくな」
次の瞬間、黒い巨体が地面を蹴った。爆発音に似た衝撃とともに、ゴミトカゲの拳が狂四郎の顔面へ伸びる。速度は月華連邦の一般兵では目で追えないほどだった。だが狂四郎は、ほんの半歩だけ上体をずらした。
拳が空を切る。
「ええ動きしとるな、トカゲの兄やん!」
狂四郎は笑い、後方へ跳ぶ。「モGURA! よう見とけ! ええ勉強なるで!」
「任せろダチ公!」
モGURAが地面へ潜った。次の瞬間にはゴミトカゲの右脇からピッケルが飛び出す。ゴミトカゲは体を捻って避けたが、今度は反対側の地面が割れ、二撃目が迫る。前、後ろ、左右、足元。モGURAは地中を自在に移動し、まるで地面そのものが敵になったかのように三百六十度から攻撃を繰り返した。
ゴミトカゲは避けるので精一杯だった。それでも何発かは完全には避けきれず、ピッケルの先端が肩や背中を直撃する。ところが甲高い金属音が響くだけで、刃は黒い鱗に弾かれた。
「硬っ……!」
モGURAが地中から顔を出し、珍しく驚いた声を上げる。全力で振り抜いたピッケルにも傷一つつかない。ゴミトカゲはその隙に腕を振るい、モGURAの頭を狙ったが、相手は瞬時に地面へ沈んだ。
時雨はその戦いを見ながら息を呑んだ。ゴミトカゲが強いことは、静岡に来てすぐ理解した。月華連邦の隊長を一撃で潰した力も、目では追えない速度も、人間の領域ではない。だが今、そのゴミトカゲが簡単には攻撃を当てられない相手が目の前にいる。
しかも狂四郎は、ゴミトカゲの動きを一度見ただけで、その癖を読み始めていた。踏み込む前に肩が僅かに沈むこと、右拳を振るう時だけ重心が外へ流れること、怒ると直線的に距離を詰めること。時雨にはそこまで見抜けなかったが、狂四郎の視線が攻撃そのものではなく、その前段階を追っていることだけは分かった。戦闘経験の量が違う。そう思っただけで、時雨の喉が乾いた。
狂四郎が時雨を見る。
「ほな嬢ちゃん。次はワイとやろか」
時雨は震える手に力を込めた。
逃げたい。そう思う自分を、彼女は自覚していた。だがゴミトカゲが戦っている。ここで背を向けることはできなかった。
黒重を低く構え、一気に踏み込む。
時雨の斬撃は速かった。重力を足元へ集中させ、踏み込みの瞬間だけ身体を加速させる。軍で何度も敵兵を一刀のもとに斬り伏せた動きだった。
しかし狂四郎は消えた。
「……っ!」
次の瞬間、時雨の脇腹に軽い衝撃が走った。
拳だった。
続けて肩、腹、胸元。時雨が刀を戻すより早く、狂四郎の拳が次々に体へ触れる。殴られているのに、何発入ったのかすら分からない。衝撃だけが遅れて押し寄せ、時雨は何歩も後退した。
「速……」
「まだまだやな」
狂四郎が笑う。
時雨は歯を食いしばり、斬り返した。しかし黒重が届く前に手首を叩かれ、軌道が逸れる。次に足を払われ、体勢を崩したところへ腹部へ拳が入った。息が詰まり、視界が揺れる。
それでも時雨は倒れなかった。
刀を握り直す。
「スピード合わせたるわ」
狂四郎が大顎を鳴らした。
「せやから見せてくれや。重力操作」
その言葉で時雨は理解した。今までの攻撃ですら、手加減されていた。
背筋に冷たいものが走る。
通常の斬撃では無理だ。速度も技術も、何もかも違いすぎる。ならば残された手は一つしかない。
必殺技を当てる。
それしか勝ち目はない。
時雨の左目が、強く紫色に輝いた。
「能力解放」
空気が重くなる。周囲の砂利が一斉に地面へ沈み、アスファルトに細かな亀裂が走る。黒重の刀身へ重力が集まり、刃の周囲で空間が歪んだ。
「紫電!」
時雨が踏み込んだ。
剣先へ重力を一点集中させた斬撃。触れた瞬間、相手を斬るだけでなく、局所的に圧倒的な重力を叩き込む。時雨が今使える中でも、最も威力の高い技の一つだった。
「コレはえぐいでぇぇぇ!!!」
狂四郎が歓喜の声を上げた。
逃げなかった。
むしろ真正面から大顎を突き出す。
黒重と大顎が衝突した。
ガッ!!
轟音とともに衝撃波が走り、河川敷の草が一斉になぎ倒される。狂四郎の巨体が後方へ吹き飛んだ。
一メートル。
それだけだった。
狂四郎は地面を滑りながら踏ん張り、すぐに止まった。
大顎には傷一つない。
時雨の顔から血の気が引いた。
「……うそ」
全力だった。
これで駄目なら、何を当てればいいのか分からない。
狂四郎は大顎を擦りながら、嬉しそうに笑った。
「ええなぁ。今のはちょっと効いたで」
その頃、少し離れた場所でタフは全身を小刻みに震わせていた。肩をすぼめ、目を潤ませ、口まで僅かに開いている。
「何してんだよ。怖いのかよ」
イカボンが呆れたように尋ねる。
「消費者金融のCMのチワワの真似をして力を溜めてるッス」
「お、おう」
イカボンは深く考えることをやめた。
その向こうで戦いは続いていた。必殺技を防がれた時雨は明らかに消耗していた。左目の紫光は不安定に明滅し、肩で息をしている。重力を一点へ集中させる紫電は、ただでさえ魔力消費が大きい。しかも彼女はまだ完全に疲労が抜けていなかった。
「ほな、次はこっちから行くで」
狂四郎が一歩踏み出す。
時雨は反射的に黒重を構えた。しかし足が重い。
拳が来る。
見えている。
それなのに体が動かない。
頬へ一撃。続いて腹、肩、脇腹。狂四郎は明らかに力を抑えていたが、それでも時雨の小さな体は何度も揺さぶられた。刀で受けようとしても間に合わず、防御の上から衝撃だけが蓄積していく。
軍帽が吹き飛んだ。
次の一撃で肩掛けしていた軍用コートが外れ、地面へ落ちる。
「……っ」
時雨は歯を食いしばった。まだ倒れたくなかった。だが視界が二重に揺れ、足の感覚が薄れている。
「コレでフィニッシュや」
狂四郎が時雨の前へ立った。
「今後の成長に期待やな」
大顎の先端が、時雨の顎へ軽く触れた。
コツン。
「!?」
大した衝撃ではなかった。少なくとも、そう感じた。
だが次の瞬間、時雨の足から力が抜けた。平衡感覚が狂い、膝が勝手に折れる。黒重が手から滑り落ち、時雨はその場に倒れ込んだ。
狂四郎は気絶させる寸前で力を止めていた。
「時雨!」
ゴミトカゲの声が響く。
彼はモGURAの攻撃を弾きながら、倒れた時雨へ視線を向けた。その一瞬の隙を狙ってピッケルが背中へ直撃する。しかしまたしても刃は弾かれ、火花だけが散った。
モGURAは額に汗を浮かべた。
「ダチ公。こいつマジで硬いぞ」
何度当てても傷一つつかない。地中からの奇襲も、死角からの一撃も、全て物理的に弾かれる。モGURAにとって、ここまで攻撃が通らない相手は初めてだった。
「おもろそうやな!」
狂四郎が時雨から離れ、そのままゴミトカゲへ向かった。
今度は様子見ではない。
踏み込みからして違った。
地面が割れる。
狂四郎の拳が正面からゴミトカゲの顔面へ叩き込まれ、黒い巨体が数歩後退した。
「……!」
時雨は地面に伏したまま、その光景を見た。
あのゴミトカゲが、正面から押されている。
月華連邦兵を一撃で潰した。どんな攻撃を受けても傷一つつかなかった。その存在が、今は一発ごとに後退させられている。
時雨は自分が知っている世界の狭さを思い知らされた。
「初めてや!」
狂四郎が心底嬉しそうに叫ぶ。
「ワイとここまで互角に殴り合うやつは! あの玉無しの四天王のギャンブラーとは違うで!」
「俺の妹をボコボコにしやがって!」
ゴミトカゲの目つきが変わった。
「許さねぇ!!」
右拳が振り抜かれる。
狂四郎も拳を合わせる。
拳と拳が衝突した瞬間、空気が爆ぜた。
衝撃波で砂利が吹き飛び、イカボンが思わず腕で顔を覆う。二体はそのまま一歩も引かず、至近距離で殴り合いを始めた。狂四郎は格闘技の技術を混ぜながら急所を狙い、ゴミトカゲは純粋な怪力と耐久力で押し返す。
狂四郎はただ拳を振っているわけではなかった。ジャブで視界を切り、肘で腕をずらし、足を引っかけて体勢を崩してから大顎を差し込む。人間のボクシング、柔術、空手、相撲のような動きが虫の身体へ奇妙なほど自然に溶け込んでいた。対するゴミトカゲは技術で劣るぶん、一撃一撃を真正面から受け止め、無理やり距離を潰して殴り返す。普通なら何度も決着しているはずの攻防が、二体の異常な耐久力のせいで終わらなかった。
一方、モGURAは戦線から少し外れ、震え続けるタフへ近づいていた。
「お前、大丈夫か?」
どう見てもチワワのように震えていたため、モGURAは少し心配になった。
「腹減ったのか?」
懐から魚を一匹取り出して差し出す。
「ありがたいッス!」
タフは魚ではなく、モGURAが持っていたピッケルへ噛みついた。
「そっち食うな!」
「鉄分補給ッス!」
「物理的な鉄分はそういう意味じゃねぇ!」
モGURAは慌ててピッケルを引き抜こうとしたが、タフは凄まじい顎の力で食いついて離さなかった。
「ダチ公! 助けてくれ! 俺のピッケル食われてる!」
「今忙しいわ!」
狂四郎は楽しそうに返した。
その直後、狂四郎の拳がゴミトカゲの頬へクリーンヒットした。
これまでとは違う音がした。
バキッ。
黒い鱗に、細い亀裂が走った。
ほんの数センチの亀裂だった。それでも時雨には、それが信じられないものに見えた。月華連邦の高出力エネルギー銃で撃たれても、モGURAのピッケルを何度叩き込まれても、ゴミトカゲの体はびくともしなかった。その絶対に壊れないと思っていたものが、狂四郎の拳一つで初めて壊れた。時雨は自分が殴られた時よりも強い恐怖を覚えた。
「にぃに!」
時雨が泣きそうな声を上げる。
ゴミトカゲ自身も僅かに目を見開いた。これまで月華連邦兵の銃撃も、ピッケルも、ほとんど通らなかった。その鱗が割れたのだ。
しかし次の瞬間。
亀裂が消えた。
まるで時間を巻き戻したように、黒い鱗は元通りになっていた。
狂四郎の目が輝く。
「面白いやん!」
「こっちは面白くねぇよ!」
ゴミトカゲが殴り返すが、狂四郎は腕で受け、そのまま懐へ潜り込む。巨大な大顎が左右から閉じ、ゴミトカゲの胴体を挟み込んだ。
「ぐっ……!」
強烈な締め付けだった。
ゴミトカゲの表情が初めて苦しげに歪む。
「お前……誰だよ」
「ワイらは強いヤツとの戦いを愛する大阪のならず者や」
狂四郎は嬉しそうに答えた。「てかなんでトカゲの兄やんに人間の妹がおるねん。生物学的におかしいやろ。ロリコンか?」
「でかいクワガタとモグラの方がおかしいだろ」
「それもそうやな」
狂四郎はあっさり納得した。
「まぁええわ。斬るで」
大顎に力が入る。
ゴミトカゲの右腕が挟み込まれ、次の瞬間には切断された。
血が飛ぶ。
「にーに!」
時雨が叫ぶ。
だが、その右腕は地面へ落ちるより早く再生を始めていた。断面から新しい組織が伸び、骨、筋肉、鱗が一瞬で形成される。数秒も経たないうちに、完全な腕が元通りになった。
「そのレベルのダメージも回復するんか!」
狂四郎はますます喜んだ。
「やるやん!!」
「離せ!」
再生した腕が動く。
ゴミトカゲの拳が狂四郎の顔面へクリーンヒットした。
「痛ッ!!」
狂四郎の巨体が数メートル吹き飛び、地面を転がる。
だがすぐに起き上がった。
「戦闘は楽しいなぁ!!」
大顎を鳴らし、狂四郎は再び構える。
「第二ラウンドや!!!」
その時だった。
ずっとプルプル震えていたタフが、急に動きを止めた。
「……溜まったッス」
イカボンが嫌な予感を覚える。
「何が?」
タフの両目が光った。
次の瞬間、二本の怪光線が放たれる。
「うおっ!?」
「なんだこれ!」
光線は狂四郎とモGURAへ直撃した。
物理的な痛みはなかった。
代わりに、脳内へ何かが流れ込んでくる。
暗いオフィス。
鳴り続ける電話。
机に積まれた返済計画書。
そして、タフの口から低い声が漏れた。
「これは……消費者金融マンの憂鬱ッス」
「なんやそれ」
狂四郎の顔から笑みが消えた。
「債務者は最初、ほんの少し借りるだけッス。給料日になれば返せる。来月なら余裕がある。そう思って借りるッス」
狂四郎とモGURAの脳内へ、映像が流れ込む。
借金が増えていく。
返済のために別の会社から借りる。
家族に隠す。
電話が鳴るたびに怯える。
「や、やめろ……」
モGURAの顔が青ざめる。
タフは続ける。
「貸す側も地獄ッス。ノルマ。回収率。上司からのパワハラ。『数字が足りねぇぞ!』『今日中に回収しろ!』」
狂四郎の脚が震え始めた。
「お、おい……これ戦闘より嫌やぞ……」
「そして法律の規制強化ッス」
「やめろ!」
「上限金利は下がり、過払い金請求が増え、業界の立場はどんどん弱くなっていくッス……」
「やめろぉぉぉぉぉ!!」
狂四郎が頭を抱えた。
「さらに顧客からは恨まれ、上司には詰められ、社会からは白い目で見られるッス」
「もうええ! もうええから!!」
モGURAも耳を塞ぐ。
「ダチ公、撤退だ!」
「せや! これはアカン! こんなん喧嘩ちゃう!」
二体は全力で逃げ出した。
「待ってろや!」
走りながら狂四郎が振り返る。
「次会ったら絶対リベンジしたるからなぁぁぁぁ!!」
その声は瞬く間に遠ざかっていった。
河川敷に静寂が戻る。
イカボンはしばらく何も言えなかった。
時雨も地面に座り込んだまま呆然としていた。
ゴミトカゲだけが再生した腕を確認しながら、首を傾げる。
「……結局なんだったんだ、あいつら」
「大阪のならず者らしいッス!」
「それで納得できるか!」
イカボンが叫ぶ。
タフは胸を張った。
「勝ったッス!」
「戦ってねぇだろ!」
時雨は遠ざかっていった狂四郎の方角を見つめた。あれほど恐ろしい相手を、自分は初めて見た。必殺技を受けてもほとんど傷つかず、ゴミトカゲと真正面から殴り合い、さらに楽しそうに笑っていた。
しかも狂四郎には、自分たちを殺そうという意思がほとんどなかった。もし最初から殺すつもりで、あの速度と技術を向けられていたらどうなっていたのか。そう考えた瞬間、時雨は無意識に黒重の柄を強く握った。恐怖は消えていない。それでも、ただ怯えて終わりたくないという感情も、少しだけ胸の奥に芽生えていた。
世界は広い。
自分は最高戦力と呼ばれていた。
だが、それは日本という狭い枠の中での話にすぎないのかもしれない。
時雨は黒重を拾い上げ、静かに鞘へ戻した。
「……もっと、強くならないと」
その言葉を聞いたゴミトカゲは、時雨の頭を軽く撫でた。
「焦んな。お前はまだ十四だろ」
「……うん」
時雨は小さく頷いた。
その頃、大阪へ向かって逃げ続けていた狂四郎は、顔を青くしながら叫んでいた。
「タフとかいう筋肉! 絶対許さんからなぁぁぁぁ!!」
「ダチ公、俺もう借金しない!」
「お前借金あったん!?」
「ない!」
「なんやねん!」
二人の声が、大阪の夕空へ消えていった。