第8話Choice
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あらすじ
Gravity Noir〜地球滅亡寸前の絶望的な世界。老人はギャグ補正で無双する〜 - 第8話Choice
本文
静岡から戻った軍用車が地下施設へ到着した頃には、時雨の眠気も少しだけ薄れていた。扉が開くと、いつもの地下廊下に香ばしい匂いが漂っている。食堂へ向かうと、そこには肉料理、魚料理、サラダ、スープ、炊き込みご飯、果物まで並んだ豪華な食卓が用意されていた。
「おお、帰ったか!」
ケリーが両手を広げる。その後ろでは、シヴァが椅子にもたれて半死半生になっていた。目は虚ろで、唇が乾き、何か恐ろしいものを見た人間のような顔をしている。
「……靴べら……市場規模……竹製……樹脂製……」
イカボンが眉をひそめた。
「何があったんだよ」
「ワシが靴べら業界の未来について5時間ほど語った」
「殺す気か!」
「僕……もう靴べら見たくない……」
シヴァは弱々しく呟いた。
ケリーはそれを完全に無視し、時雨の前へ歩いてきた。「よく頑張ったのう。どうだ? みんな強かっただろう」そう言って頭を撫でる。時雨は一瞬だけ目を見開き、それから嬉しそうに目を細めた。
「……うん」
誰かに労ってもらうということ自体、時雨にはほとんど経験がなかった。任務を成功させれば次の任務を与えられた。敵を倒せば当然だと言われた。怪我をして帰れば自己管理が足りないと叱られた。だから「よく頑張った」と言われるだけで、胸の奥が不思議なくらい暖かくなる。
ケリーはそのまま時雨の髪を整えるように撫で、少しだけ声を落とした。
「で、もう大丈夫じゃ、時雨」
時雨が顔を上げる。
「もう戦う必要なんてないぞ」
その瞬間、笑顔が固まった。
「……え?」
「お前が戦わんでもいいように、ワシらが何とかする」
時雨の表情から徐々に色が消えていく。
「な、なんで?」
声が震えた。
「わたしが……弱いから?」
「違う」
ケリーは即答した。
「子供が戦うべきじゃない。これは本来、大人が解決するべき事じゃった」
時雨の目に涙が浮かんだ。
彼女には、その言葉の意味が違って聞こえていた。戦わなくていい。普通の子供なら救いになるはずの言葉だった。だが時雨にとって戦うことは、ほとんど自分の全てだった。
暗殺者として育てられた。
軍人として扱われた。
能力者として期待された。
刀を持って敵を殺せることだけが、自分が必要とされる理由だと思っていた。
「……じゃあ」
声が掠れる。
「わたし、いらないの?」
イカボンの顔が曇った。
「ジジィ。いくらなんでも急にそれは――」
「一旦いいッス」
タフが静かに止めた。
普段の筋肉馬鹿とは思えないほど落ち着いた声だった。イカボンは驚いてタフを見る。タフはケリーから目を離さない。
「叔父貴には考えがあるッス」
ケリーは時雨の前へしゃがんだ。
「お前はどうしたいんじゃ?」
時雨は答えられなかった。
どうしたい。
その質問をされたことがない。
何を食べたいか。
どこへ行きたいか。
何をしたいか。
そんなことを決める必要はなかった。
命令されたことをする。
それで生きてきた。
「わたしは……」
喉が詰まる。
戦うしかない。
戦うことしかできない。
なら。
「たた……かいたい」
ケリーは表情を変えなかった。
「どうしてじゃ?」
時雨はさらに言葉に詰まった。
どうして。
兄との約束。
日本を守るため。
敵を倒すため。
いくつか言葉は浮かぶ。
だが、そのどれも自分の意思なのか分からない。
「……わかん、ない」
とうとう涙が一粒落ちた。
タフは腕を組みながら小さく頷いた。
「今日の叔父貴、キレッキレッスね」
イカボンは返事をしなかった。
ゴミトカゲも黙って時雨を見ていた。
泣きそうな少女を見るのは辛かった。
だが、そこでゴミトカゲは妙な違和感に気づく。
自分はなぜ、こんなに時雨のことが気になるのか。
初めて会った時、時雨は突然抱きついてきた。
普通なら嫌がるはずだった。
なのに、嫌ではなかった。
むしろ妙に懐かしかった。
ずっと前から知っているような感覚があった。
守りたい。
いや。
違う。
守らなければならない。
それは感情というより、義務に近かった。
「おいおい」
ゴミトカゲが口を開いた。
「そんな急いで考える必要もないだろ。ゆっくり考えたらいいじゃん」
時雨が涙の溜まった目でゴミトカゲを見る。
「……にーに」
「今すぐ答え出せなんて誰も言ってないだろ」
ゴミトカゲは時雨の頭を撫でた。
「ゆっくり決めろ」
ケリーも少しだけ笑う。
「まあ、それはそうじゃの」
時雨は小さく頷いた。
戦うか。
戦わないか。
初めて、自分で決めてもいいと言われた。
その自由は、時雨にとって恐ろしいほど重かった。
今までの人生では、正解はいつも他人が決めていた。命令に従えば褒められ、逆らえば罰を受ける。その単純さに慣れ切った時雨にとって、自由は優しさであると同時に責任でもあった。だからこそ、ケリーは答えを急がせなかった
◇
その頃、大阪。
月華連邦アジア支部二十数名は、高級タワーマンションへの入居を完了していた。
そして驚くべきことに。
家賃を払った。
マンションの管理人も驚いていた。
「侵略軍って家賃払うんですね……」
「そりゃ払うよ。俺、こういうのちゃんとしたいタイプだから」
ダニエルは当然のように答えた。
幹部三人――ダニエル、太陽神、ガルシアは同じ部屋へ入居した。他の兵士たちは四、五人ずつに分かれて数部屋を借りている。全員ほぼダニエル信者だったため、不満を言う者はいなかった。
キッチンではダニエルが本場式のパスタを作っていた。
「ガルシア、そこオリーブオイル取って」
「チャカルァァァイイイイ!! 了解です!」
「声デカい」
太陽神はソファでスマートフォンをいじっていた。
その時、端末が鳴る。
「俺のか」
太陽神が通話に出た。
『こちら蛟龍だ』
太陽神の背筋が僅かに伸びる。
「お疲れ様です」
『四天王のタツオミ・ヤマシロを、そちらへ合流させる』
「タツオミを?」
『大阪で例のクワガタとモグラに敗北した。現在、右精巣欠損を含む重傷だ』
太陽神の口元が震えた。
「……右、精巣……」
『笑うな』
「笑ってません」
声は震えていた。
『相当荒れている。扱いには注意しろ。形式上、指揮権はダニエルにある』
「了解です」
通信が切れる。
太陽神はしばらく黙った。
そして振り返る。
「おいダニエル」
「ん?」
「タツオミ来るって」
「へぇ」
「右の金玉なくしたらしい」
沈黙。
次の瞬間。
「ブハハハハハハハ!!」
ダニエルが腹を抱えて笑い始めた。
「チャカルァァァイイイイ!! 右だけ!? 右だけですか!?」
ガルシアまで笑う。
「お前ら笑うなよ!」
そう言いながら太陽神も耐え切れず吹き出した。
時刻、十三時三十分。
タワーマンション前の臨時着陸スペースへ月華連邦のヘリコプターが降りた。
タツオミが足を引きずりながら降りてくる。
顔は不機嫌そのものだった。
「よぉ。ご苦労さん」
ダニエルが手を上げる。
タツオミは内心で舌打ちした。
舐めんな、クソガキ。
だが口には出さない。
「……で、兵器類が見当たらないのですが」
「兵器?」
ダニエルが首を傾げる。
「ガルシア、俺どこやったっけ。中国に置き忘れたっけ?」
「知らないです〜」
タツオミのこめかみに青筋が浮かぶ。
「お前ら……」
「冗談だよ」
ダニエルが笑った。
「海辺に隠してある。ここに持ち込んだら目立つだろ」
タツオミは拳を握りしめたまま黙る。
ダニエルはそんな彼の顔を見て、急に口元を歪めた。
「そういや……フヒッ」
「なんだ」
「右……おきゃん玉……ご愁傷様……」
「……」
「ブハハハハ!!」
「なんの真似だよ……」
タツオミの声が低くなる。
殺すか。
一瞬、本気で考えた。
だがダニエルは強い。
少なくとも今の自分では勝てない。
それがさらに腹立たしい。
「そんな怒んなって」
ダニエルが太陽神を指差した。
「ほら! ここに金玉いるじゃん!」
太陽神の顔が引きつる。
「俺がハゲって言いたいのか!!」
「金玉とは言ったけどハゲとは言ってないぞ!」
「同じ意味だろ!」
「違うだろ!」
二人は殴り合いを始めた。
「チャカルァァァイイイイ!! 喧嘩はダメですよ!!」
ガルシアが止めに入る。
タツオミは無言でその光景を見つめた。
本当に。
本当に自分は。
こんな奴らの下につかなければならないのか。
屈辱でしかなかった。
◇
同じ頃、首相官邸。
最上篤史は執務室で書類に目を通していた。
机の電話が鳴る。
「はい、最上です」
『一条時雨中佐を、謎の老人に派遣したと聞いたのだが』
低い男の声だった。
最上の背筋が僅かに伸びる。
「あ、その……あまりにその老人が恐ろしかったので」
言った瞬間、しまったと思った。
本当の理由を、そのまま口にしてしまった。
『……何?』
「いや、違います。今のは言葉の綾というか」
『信じられん。一国の総理が、そのような理由で最高戦力を勝手に動かしたのか』
「勝手ではないです。ちゃんと手続きしました」
『そういう問題ではない。そのせいで取り返しのつかない事態になったらどうするつもりだ』
最上は机を叩いた。
「あんたはケリーさんの恐ろしさを知らないからそんなことを言えるんだ!!」
『……』
「もし断っていたら、あの人は私の口の中に熱々の釜飯をしゃもじごと流し込んだに違いない!!」
『何を言っている』
「尿道にハリガネムシを突っ込んだに違いない!!」
『やめろ』
「しれっと我が国の行政権を強奪したに違いない!!!」
『そんなことができるわけ――』
「できるんだよあの人は!!!」
最上は半ば涙目だった。
「大学時代からそうなんだ! 気づいたら合コンの幹事になってて、気づいたら店ごと買収してて、気づいたら全員友達になってるんだ!!」
『話が逸れている』
「尻にオリーブオイル塗ってスケートリンクで――」
プツッ。
電話が切れた。
相手の声には怒りよりも警戒が混じっていた。最上もそれには気づいている。単に時雨を心配しているだけではない。あの男は、彼女がケリーの手元にいることそのものを危険視している。その理由までは分からなかった。
最上は受話器を見つめた。
「切られた……」
しばらく沈黙する。
そして、机へ突っ伏した。
「なんで自分、総理大臣やってるんだろ……」
官邸の外では、職員たちが忙しく行き来している。
東京では今も月華連邦の攻撃が続いていた。
静岡では一度敵部隊を退けた。
大阪では不可解なほど被害が少ない。
京都も同様だった。
日本は確実に追い詰められている。
それでも、少しずつ何かが変わり始めていた。
地下施設では、時雨が食卓の前でまだ少しぼんやりしていた。
豪華な料理はほとんど手つかずのまま残っている。
ケリーは向かい側に座り、何も急かさなかった。
「時雨」
「……なに?」
「戦ってもええ」
時雨が顔を上げる。
「戦わんでもええ」
ケリーは笑う。
「それを決めるのは、お前じゃ」
時雨は黙った。
すぐには答えられない。
でも、今度はそれでいい。
ゴミトカゲが隣へ座る。
「考え終わるまで、俺の横いればいいだろ」
時雨は少しだけ迷ったあと、ゴミトカゲの体へ寄りかかった。
「……うん」
ケリーは満足そうに頷き、急に箸を持ち上げた。
「ではワシ、エビフライ十七本食べます」
「食いすぎだろ!」
イカボンが叫ぶ。
「成長期じゃから」
「六十九歳だろ!」
時雨は小さく笑った。
自分に何ができるのか。
何をしたいのか。
まだ分からない。
けれど。
分からないままでも、ここにいていい。
それだけは、少しずつ理解し始めていた。
◇
一方、大阪ではタツオミが荷物を部屋へ運びながら、隣室から聞こえるダニエルと太陽神の殴り合いの音に耐えていた。
「……帰りたい」
四天王の男は、地球侵攻開始以来初めて、心の底からそう思った。