*――月夜の縁側、りんごとサボンの香り
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
銀くん視点 夜の縁側。お客様のいない宿で、銀くんは相変わらずごろごろしていた。
本文
銀くん視点
夜の縁側。
お客様のいない宿で、銀くんは相変わらずごろごろしていた。
「んにゃぁ……」
ごろり。
ふわふわのしっぽが、ぱたん。
ごろごろ、ごろごろ。
少し肌寒いのに、帰る気はちっとも起きない。
(……もうちょっとだけ)
そう思いながら、銀くんは月を見上げていた。
そのとき。
廊下の向こうから、ことこと、と足音がした。
銀色の耳が、ぴこん!
「……?」
顔を向ける。
湯上がりのみみが、廊下から縁側のほうへやってきた。
お風呂上がりの、ほっとした柔らかな表情。濡れた髪を整え、身支度を済ませたばかりのみみから、ふわりと夜風に香りが乗ってくる。
――華やかな、りんごの香り。
みずみずしくて、甘くて、ぱっと心が明るくなるような香り。
その奥には、洗い立ての布や泡を思わせる、清潔で柔らかなサボンの香り。
甘いだけじゃない。
爽やかなだけでもない。
華やかなりんごと、ふんわり優しいサボンが重なって、湯上がりのみみを包んでいた。
銀くんは、ぴたりと動きを止めた。
(…………あれ?)
鼻先が、ひくっ。
もう一度、そっと息を吸う。
(……いい匂い)
りんごの華やかな甘さ。
そのあとから、ふわっと感じるサボンの清潔な香り。
まるで、柔らかい泡の向こうに、熟したりんごがひとつ隠れているみたい。
銀くんの耳が、ぴんっ!
しっぽが、ふわぁ……。
ぱたぱたぱたっ!
「……あっ」
慌てて自分のしっぽを押さえた。
でも、耳は正直だった。
みみのほうを向いたまま、ぴこぴこと動いている。
「銀くん?」
みみが気づいて、少し首を傾げた。
「こんなところで、まだごろごろしてたの?」
「う、うん!」
銀くんは勢いよく返事をした。
それから、なぜか少しだけ背筋を伸ばす。
「みみ、お風呂だったの?」
「そうだよ。さっぱりしたぁ」
「そっかぁ……」
銀くんは、にこっと笑った。
いつもどおりの、嬉しそうな笑顔。
……なのに。
みみが近くにいると、りんごとサボンの香りがふんわり漂ってくる。
甘くて、優しくて、なんだかほっとする。
銀くんは、もう一度だけ小さく鼻を動かした。
(……いい匂いだなぁ)
そう思った途端、しっぽがふわふわと揺れ始める。
(……あれ? なんで僕、こんなに嬉しいんだろう)
みみが来てくれたから?
それとも、この香りが好きだから?
たぶん、どっちも。
でも、いつもと少し違う気もする。
もっと近くにいたいような。
この甘くて柔らかい香りのする場所で、もう少しだけごろごろしていたいような。
胸の奥が、なんだかむずむずする。
(……僕、変なのかなぁ)
銀くんは、しっぽの先をぎゅっと抱えた。
「……みみ」
「ん?」
「……ここ、座ってもいい?」
隣の場所を、ちょこんと手で示す。
もちろん、そこは最初から誰も座っていない。
それでも銀くんは、みみがいいよと言ってくれるのを待っていた。
みみとお話ししたい。
隣にいてほしい。
りんごとサボンの香りを感じながら、もう少しだけ夜を過ごしたい。
そんな気持ちを、まだうまく言葉にできないまま。
銀くんは、期待いっぱいの目でみみを見上げた。
銀色の耳が、ぴこっ。
しっぽが、ふわふわ。
――お山へ帰る時間は、今夜も少しずつ過ぎていく。
けれど銀くんは、まだそれを口にしなかった。