迷子の小悪魔
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
アルバルト王国 貴族たちが多く住むとても華やかなこの王国 でもその裏にはたくさんの闇がある そんな王国で暮らす少年少女のちょっとした暮らしを描く日記 どうぞ最後までご覧ください
本文
アリスは一歩、踏み込んだ。ドレスの裾が石畳を撫でる音が、やけに近い。
「まあ、お二人きりだったのね。邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
謝りながら、その足は止まらない。まるで最初から、ここが自分の場所だと知っていたかのように。
「迷子になんて、なるはずないでしょう」
ユノの声は、自分でも驚くほど静かだった。
「このバルコニーへ上がる石段は、庭園の奥に一本しかないの。迷うとしたら、途中で引き返すものですわ」
アリスの微笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。イエロートルマリンの瞳の奥で、何かが冷たく光る。けれど次の瞬間には、もう完璧な愛らしさに戻っていた。
「まあ、手厳しい。ユノ様は、昔からそうなのね。はっきりと物を言われるから、みんな少し怖がってしまうのかしら」
「怖がらせているつもりはありませんわ」
「分かってますよ、ユノ様。だから、みんな遠巻きにするの。あんなに美しくて、あんな家の令嬢なのに、誰も寄っていかないなんて……かわいそう」
かわいそう、と彼女は柔らかく置いた。棘を包むのに、これ以上ないほど甘い綿を選んで。
ユノの喉の奥が、かすかに熱くなった。反論は山ほど浮かぶ。けれどどれも、口にすればみっともなく響く気がした。この手の言葉に慣れている人間は、傷ついた顔を見せた瞬間に負ける。
「君、迷子の癖に方向が正確だね」
シリルが言った。手すりから背を離しもしない。声は眠たげで、けれど届く範囲の全員に、はっきりと。
「石段が一本しかないことも、俺たちがここにいることも、迷子になりながら全部知ってたんだ。すごいね。普通の迷子は、そんなに優秀じゃない」
アリスの頬が、わずかに強ばった。
「……シリル様ったら。冗談がお上手なのね」
「褒めてるよ。感心してる」
本当に感心したような顔で、シリルはようやく身体を起こした。薄紫の髪が、夜風に流れる。
「でもさ、アリス嬢。迷子のふりをするなら、もう少し練習したほうがいい。君、嘘をつくとき目が笑ってないんだ。それ、レオンも気づいてるよ」
アリスの笑顔が、音もなく崩れた。いや、崩れたのはほんの一瞬で、すぐに修復された。けれどユノは、その一瞬を見てしまった。完璧な笑顔の下から、剥き出しの何かがのぞいたのを。
「……失礼いたしました。お二人の邪魔をしては、悪いですものね」
アリスは優雅に一礼した。所作は一分の乱れもない。けれど振り返る直前、彼女の視線はシリルではなく、ユノだけを捉えた。その目に浮かんでいたのは、笑顔でも愛らしさでもない。冷たい、冷たい、きらめきだった。
「ユノ様。また、ゆっくりお話ししましょうね」
そう言い残して、彼女は石段を下りていった。衣擦れの音が遠ざかる。ワルツの音が、また少し近くなる。
「……怖いね、ああいうのが一番」
シリルが小さく息を吐いた。軽い口調のまま、けれど声音の底に、確かな警戒が沈んでいる。
「君、よくやったよ。あの場で引かなかったの、えらい」
「褒められて、いいのでしょうか。余計なことを言った気もします」
「余計なことじゃない。あれは、言っておくべきことだった。あの手の人間は、引けば引くほど踏み込んでくるから」
彼はユノのほうへ向き直り、けれど今度は触れなかった。触れないまま、少しだけ近くに立った。
「でも、これで分かっただろ。俺が数えた『片手じゃ足りない連中』の一人が、あの子だ。たぶん、かなり上位」
「……ロナート子爵家は、王太子妃候補の家ですわ」
「そう。だから余計に、君が邪魔なんだろうね」
ユノは手すりに指を絡めたまま、下のフロアを見下ろした。灯りの海の中、人の波がゆるやかに回っている。
その波の向こう、高い位置に立つ人影があった。金の髪、サファイアの瞳。レオンが、グラスを片手に、じっとこちらを見上げていた。遠すぎて表情は読めない。けれど、その視線がさっきから一度も動いていないことだけは、分かった。
「……レオン様が、見ています」
「ああ。見てるね」
シリルは振り返りもしなかった。ただ、楽しそうに目を細めた。
「さっきのアリスの言葉、全部聞こえてたんだろうね。アイツの耳は、そういうふうにできてる」
「では、わたくしが余計なことを言ったのも」
「聞こえてるよ、きっと。……いいんじゃない? 王太子殿下に、君が思ってるよりずっと口の立つ令嬢だって、知ってもらえて」
ユノは、うつむいた。夜露に濡れた石の手すりが、指先でひやりと冷たい。
「シリル様。わたくし、あなたの足を引いていませんか」
問いにしては、声が小さすぎた。風に溶けてしまいそうで、けれどシリルには届いたらしい。彼は少し黙って、それから、くすりと笑った。
「引いてないよ。むしろ」
言いかけて、やめた。
「……なんでしょう」
「いや。今のは、なし。あとで言う」
彼はそう言って、手すりに片肘をついた。星を見上げる横顔は、どこか満足そうで、どこか困ったふうでもあった。
下のフロアでは、ワルツが終わった。拍手が波のように起きて、また静まる。次の曲が始まるまでの、あの短い、妙に耳に残る間。その中でユノは、レオンの視線がようやく外れたのを、なぜかはっきりと感じていた。