第1話 夜の灯り
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
部活に入れない花宮月乃(16)は、商店街で友禅保存会を見つける。 藤原清志(71)は見学だけでよいと迎える。 作業音に「休むな」と叱られた記憶が重なり、月乃は動けない。 夜の灯りでは染め色が違って見えるというに救われ、次も来ると決める。
本文
放課後の商店街は、昼間より少しだけ音が遠かった。
花宮月乃は、制服の袖口を指でつまんだまま、並ぶ店の前をゆっくり歩いていた。部活に入っていない生徒が、この時間にひとりで歩いていてもいいのか。そんなことを考える癖だけが、中学を卒業しても残っていた。
八百屋の閉まりかけたシャッター。揚げ物の匂い。自転車のベル。古い時計店のガラスに映った自分は、どこへ行くでもなく、ただ通り過ぎようとしているように見えた。
そのとき、細い路地の奥に、小さな看板が見えた。
〈友禅保存会・見学歓迎〉
筆で書かれた文字の横に、淡い青と白の布が一枚、風に揺れていた。
月乃は足を止めた。
友禅。名前だけは知っている。着物に描かれた、あの静かな色。けれど、自分には関係のないものだと思っていた。
路地の先から、こつ、こつ、と小さな音がする。何かを置く音。布が擦れる音。誰かの低い話し声。
気づけば、月乃は看板の前まで来ていた。
引き戸のすき間から、あたたかい灯りが漏れている。中にいる人影が動くたび、灯りもやわらかく揺れた。
帰ろう。
そう思ったのに、手は鞄の肩紐を握ったままだった。
からり、と戸が開いた。
「こんばんは」
出てきた男性は、月乃を見ると、驚いたように目を細めた。白い髪が、室内の灯りを受けて淡く光っている。
「見学ですか?」
声をかけられて、月乃の喉がきゅっと縮んだ。
「……あの」
続きが出てこない。見学したいのかも、自分でもよく分からなかった。
男性は、急かさなかった。
「藤原です。入らなくても大丈夫ですよ」
その言葉に、月乃は顔を上げた。
「外から見るだけでも。見学だけでよいのです」
見学だけでいい。
それだけの言葉なのに、胸の奥がひどくざわついた。
月乃は小さくうなずき、戸の内側へ入った。
部屋には、糊のような匂いと、少し湿った布の匂いがあった。机の上には、白い布、細い筆、染料の入った器。赤、藍、黄、緑。色が静かに並んでいる。
誰かが布に筆を置く。こつ。
別の誰かが道具を引き寄せる。ことん。
その音が、急に大きくなった。
『休むな。』
耳の奥で、鋭い声が響く。
『その程度で止まるな。』
背中が固まった。指先が冷たい。息を吸ったはずなのに、肺の奥まで空気が届かない。
月乃は入口のそばで立ち尽くした。作業をしている人たちは、誰もこちらを見ていない。それなのに、次に何をすべきか分からない自分が、ひどく悪いことをしている気がした。
早く動かなければ。
邪魔にならないようにしなければ。
けれど足が動かなかった。
「寒いですか?」
藤原の声は、すぐ近くではなく、少し離れた場所から聞こえた。
月乃は首を振ろうとして、うまくできなかった。
「……すみません」
「謝らなくてよいですよ」
藤原はそう言って、作業台の脇にある椅子をそっと指した。
「座って、眺めていてください」
月乃は椅子に腰を下ろした。膝の上で、両手をきつく重ねる。爪が手のひらに食い込んでいた。
窓の外は、もうすっかり暗い。商店街の明かりが、ガラス越しに細く滲んでいる。
藤原が、机の上の布を持ち上げた。昼の光で見たのとは違う色が、灯りの下で浮かび上がる。
「夜の灯りでは、染め色が違って見えるでしょう」
月乃は布を見た。
淡い青だと思っていたところに、少しだけ灰色が混じっている。白だと思っていたところには、あたたかな黄みがあった。
「……違います」
声が出たことに、自分で驚いた。
「同じ色でも、見る場所や時間で変わりますからね」
藤原は布を戻した。
変わって見える。
月乃は、その言葉を胸の中で繰り返した。
ずっと同じだと思っていたものも、場所が変われば、違って見えるのかもしれない。
部屋にはまた、こつ、ことん、と小さな音が戻ってきた。今度は、責める声には聞こえなかった。
月乃は、膝の上の手をゆっくりほどいた。
帰るとき、引き戸の前で一度だけ振り返る。夜の灯りに照らされた布は、さっきよりも少しやわらかい色に見えた。
「また、来てもいいですか?」
藤原は、すぐに答えた。
「もちろんです」
月乃は小さく息を吐いた。
次も来る。
そう決めて、夜の商店街へ歩き出した。