第2話 崩れた線
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
月乃(16)は糊置きで線を曲げ、謝り続ける。 佐伯紗江(28)は、失敗布も技法の記録になると教える。 手首が痛んでも隠す月乃は軽傷でも試合へ出された記憶が刺さる。 藤原(71)は「休むのも手順」と止める。糊は急ぐほど割れる。月乃は星形の白抜きを見つける。
本文
糊の入った筒の先から、白い線が布の上へ細く落ちていく。
月乃は息を止め、右手の親指と人さし指に力を込めた。下絵の曲線をなぞるはずだった。けれど、ほんの少し手首が揺れた。
ぷつ、と糊の線が外へふくらむ。
「……あ」
白い線は、花びらの縁を越えて曲がっていた。
月乃の肩が跳ねる。すぐに筒を持ち上げたが、遅かった。糊の匂いが鼻に残る。窓の外では、商店街を走る自転車のブレーキが短く鳴った。
「すみません」
声がかすれた。
「すみません、私、今の……」
布を見つめるほど、曲がった線だけが大きく見える。胸の奥が冷えて、指先から力が抜けていった。
「ごめんなさい。やり直します。すぐ、直しますから」
左手で布の端をつかもうとしたとき、手首の奥に鈍い痛みが走った。
月乃は息をのみ、すぐに口元を引き結んだ。
これくらいなら大丈夫。
動かせる。握れる。だったら、休むほどではない。
そう思った瞬間、体育館の白い照明が目の奥にちらついた。
冷たい床。湿ったユニフォーム。腫れた手首を押さえた自分に、顧問が眉をひそめる。
『軽いんだろ。試合に出られないほどじゃない』
周りの部員も黙っていた。月乃がうつむくと、誰かが小さく言った。
『簡単に休む人がいると迷惑』
「月乃さん」
名前を呼ばれ、月乃ははっと顔を上げた。
佐伯紗江が、隣の作業台からこちらを見ていた。紗江は立ち上がらず、手元の筆も置かない。ただ、月乃の手首ではなく、曲がった糊の線を見ている。
「その布、少し見せてもらえますか?」
「でも、失敗で……」
「うん。失敗した布ですね」
月乃の喉が詰まった。
紗江はやわらかく続けた。
「だから、残せます」
「……残す?」
「糊が多すぎたとき、手が止まったとき、線が曲がったとき。布に残るでしょう。次に同じことで困った人が見たら、どうしたらいいか考える材料になります」
紗江は自分の机の端に積んだ小さな布を指した。白抜きの線が太いもの、途切れたもの、染料がにじんだもの。どれも、丁寧に日付と短い文字が書かれている。
「これは失敗したから捨てる布じゃないんですか?」
「私は、記録だと思っています」
月乃は曲がった線へ視線を落とした。
捨てられるものだと思った。謝って、急いで、なかったことにするものだと思った。
手首がまた痛んだ。月乃は反射的に袖で隠す。
「大丈夫です」
誰にも聞かれていないのに、言葉がこぼれた。
その声に、藤原が作業台の向こうから顔を上げた。
「月乃さん」
藤原は近づいてきたが、手首には触れなかった。月乃の横に置かれた椅子を、静かに引く。
「座りましょう」
「いえ、続けます。これくらいなら」
「続けるために、休みます」
月乃の口が止まった。
藤原は、糊の筒を受け取って机に置く。乾いた木の台に、こつん、と小さな音がした。
「休むのも手順です」
「……手順」
「ええ。糊は急ぐほど割れます。手も、気持ちも同じです」
月乃は首を振った。
「でも、止まったら迷惑をかけます」
「今、無理をして布を傷めるほうが、あとで困ります」
責める声ではなかった。けれど、逃げ道をふさぐ声でもない。
「痛いなら、痛いと伝える。座って呼吸を整える。様子を見てから続けるか決める。それも作業のうちです」
月乃は椅子を見たまま動けなかった。
座っていい、と言われても、座ることが怖い。休んだら、怠けていると叱られる。次の言葉が飛んでくる気がして、背中が固くなる。
藤原は何も急かさず、湯のみをひとつ机に置いた。湯気が、薄く眼鏡の前を流れる。
「温かいうちに、少しどうぞ」
月乃は恐る恐る椅子に腰を下ろした。
手首を膝の上に置く。触れないようにしていた痛みが、じわじわと輪郭を持った。悔しさまで一緒に上がってきて、目の奥が熱くなる。
「……すみません」
「謝るのは、いったん置いておきましょう」
紗江が、月乃の失敗布をそっと持ち上げた。
「ほら。ここ、曲がった線が重なってますよね」
月乃は頬をぬぐうこともできず、うなずいた。
「この重なり、面白いです」
「面白い……?」
「ええ。染めたら、ここだけ白が少し残るかもしれません」
紗江の指先が、曲線のそばを空中でなぞる。
「花びらじゃなくて、別の形に見えてきませんか?」
月乃は布へ顔を近づけた。
曲がった線と、細く途切れた糊。その間に残った白が、夜空に浮かぶ小さな形に見えた。
「……星」
「私もそう思いました」
月乃の唇が、かすかに開く。
星形の白抜きは、失敗の真ん中にあった。
指先の痛みはまだ消えない。それでも、白い星は布の上で、ちゃんとそこに残っていた。
月乃は湯のみを両手で包み、少しだけ息を吐いた。