第八話「結び直す青春」
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
絵馬には、若い澄江が残した「誰も無理をしない神社に」という願いがあった。狐面の印は、助けを求める奉仕者へ渡した合図だった。文の御守、絡んだ絵馬の紐、雨天手順も、受け継ぐとは同じ我慢を押しつけず、その人に合う形へ結び直すことだと語りかける。部活へ入れと言う同級生に、貴乃は神社で働くと答える。春、貴乃は新人に休み方を伝え、鳥居の向こうへ新しい希望を迎える。
本文
絵馬掛けの端で、雨に濡れた木札が揺れていた。
貴乃は、狐面の印がある絵馬をそっと持ち上げる。
「……読める」
滲んだ墨の下に、細い字が残っていた。
〈誰も無理をしない神社に〉
指先が、冷えた木肌に触れた。
「澄江さんが書いたんですよね」
片付け途中の境内で、澄江は濡れた手拭いを絞っていた。聞こえた声に振り向き、目を細める。
「そうよ」
澄江は少し笑ってから、提灯の外された軒下を見た。
「若いころの私はね、人がいなくなるのが怖かったの。残ってくれる人に、必要だからって。我慢してって」
絵馬を握る貴乃の手に、力が入る。
「この印は?」
「助けて、って言えない子に渡していた合図」
澄江は自分の掌を開いた。そこに小さな狐面があるように、指先を見つめる。
「狐面を見せてくれたら、理由は聞かずに休ませる。仕事を代わる。そう決めていたの」
「……でも、澄江さんは」
「できなかったことも、たくさんあるわ」
雨だれが、石畳に丸い輪を作った。
「だから残したの。この願いだけは、次の人に同じ我慢をさせないために」
返納所の棚には、文が持ち帰った紫の御守があった場所だけ、小さく空いている。
「御守も、絵馬の紐も、雨の日の手順も」
澄江は棚を撫でた。
「そのまま渡すだけが、受け継ぐことじゃないのよね」
貴乃は、絡んだ紐をほどいた夜を思い出す。試験後なら入れる、と初めて口にした日を思い出す。湯呑みの熱を、両手で受け取った雨の日を思い出す。
「その人に合うように、結び直す」
口にすると、澄江が静かにうなずいた。
「ええ。それができたら、きっと」
文化祭の準備が終わった廊下で、同級生が貴乃の鞄を見た。
「月城、まだ神社のバイトしてるの?」
「うん」
「そろそろ部活、入れば? 一回くらい見に来なよ」
貴乃は鞄の肩紐を握った。
胸の奥に、雨の校庭が浮かぶ。笛の音。濡れた靴。大丈夫だと笑った自分。
けれど、その向こうに、社務所の湯気も浮かんだ。
「入らない」
同級生が目を丸くする。
貴乃は一度だけ息を吸った。
「私は、神社で働く」
声は大きくなかった。
それでも、足元は揺れなかった。
祭礼の片付けが終わるころ、境内には濡れた木と甘い米の匂いが残っていた。
湊が紙コップを差し出す。
「甘酒」
「ありがとうございます」
両手で包むと、じんわり熱い。ひと口飲めば、やさしい甘さが舌に広がった。
「おいしい」
思わずこぼした声に、湊が少しだけ笑う。
「片付けの後だから」
貴乃は首を横に振った。
「無理をしなかった日の甘酒だからです」
湊は返事をしなかった。ただ、紙コップの湯気の向こうで、ゆっくりうなずいた。
春。
鳥居の前で、新しく来た子が履歴書を胸に抱えていた。緊張で、指先が白くなっている。
「忙しい日は、休めないですか?」
貴乃は受付の帳面を閉じた。
窓の外では、淡い花びらが玉砂利の上を転がっていく。
「休みたいときは、早めに言ってください」
新人が、そっと顔を上げた。
「迷惑じゃ、ないですか?」
貴乃は狐面の印がついた小さな札を、掌にのせた。
「一緒に、できる形を考えます」
鳥居の向こうから、春の風が吹いた。
新しい希望が、境内へ静かに入ってきた。