第2話 誰もくべない火
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あらすじ
焚き火の護り神 - 第2話 誰もくべない火 戦乱・死・暴力・心理的恐怖の描写を含みます。
本文
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藁の匂いと、薪の煙の匂いがする。息を吸うと、胸の奥がざらついた。煤で黒くなった梁が、すぐ目の上に迫っている。天井の低い家だった。
「兄ちゃん、起きて」
小さな手が俺の肩を揺すった。八つか九つほどの男の子が、鼻の頭に泥をつけたまま俺の顔をのぞき込んでいる。知らない子だ。知らない子のはずなのに、その子は俺を「兄ちゃん」と呼んだ。
「日が暮れるよ。今夜、兄ちゃんの番だよ」
「……番?」
「火の番」
起き上がろうとしたとたん、胸の奥で咳が弾けた。一度出ると止まらない。肺の底を細い針でかき回されるような咳だ。男の子は慣れた手つきで俺の背中をさすった。
「まだ治ってないの? 熱、下がったって母ちゃん言ってたのに」
咳が引くのを待って、自分の腕に目を落とした。細い。皮膚の上から骨の形がそのまま分かる。指は長くて青白く、剣だこはどこにもない。
ベッドの上で見た、あの手だった。夢じゃなかった。
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男の子が水を汲みに出ていくと、俺は寝床に座ったまま口の中で唱えた。
ライナス。俺の名前だ。エルナ様。俺がお守りする方だ。
金の髪。煤に汚れた頬。小さな青い石の、金の指輪。
「手を、離さないで」と姫は言った。「離しません」と俺は答えた。忘れていない。全部ある。大丈夫だ。そう確かめてから、最後に姫の瞳を思い浮かべようとした。
出てこなかった。
目の形は分かる。まつげの長さも、俺を見上げるときに少しだけ顎を引く癖も分かる。なのに、その目が何色だったのか、そこだけが白く抜けていた。
息が止まった。十年、毎日見てきた目だ。冬の朝の湖の色だ、と、初めてお会いした日に思った。誰にも言わなかった言葉で、言葉のほうはちゃんとある。なのに、その向こうに色が浮かばない。
冬の朝の湖。冬の朝の湖。何度唱えても、言葉だけが空回りする。たかが色ひとつだ。そう言い聞かせているのに、指先がどんどん冷えていく。
――薄く氷の張った水面。その下の、灰色がかった、淡い青。
不意に色が戻ってきた。消えていたのは、ほんのひと呼吸のあいだだった。
俺は両手で顔を覆った。細い指が震えていて、止めようとしても止まらない。熱のせいだ。三日も寝ていた体なんだから、頭が回らなくて当たり前だ。
そう思った。そう思うことにした。
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男の子の名前はミロといった。母親が戸口でそう呼んだので分かった。
「ミロ、トビを外に連れ出すなら、外套を着せなさい」
トビ。それがこの体の名前らしい。母親は痩せていて、目の下に影のある人だった。俺の額に手を当てて、ほっと息をつく。
「よかった。下がったね」
その手の温かさに、俺は何も言えなかった。この人の息子は、どこへ行ったんだろう。聞けるはずもない。俺は黙ったまま、その手の下でじっとしていた。
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外へ出ると、村は夕暮れだった。山の斜面にへばりつくように家が並んでいる。百人もいない小さな村で、畑は石だらけ、どの家も屋根が低い。その真ん中の広場に石を丸く積んだ囲いがあって、中に火があった。
足が止まった。金色の火だった。風が吹いても揺れず、煙も上がらず、爆ぜる音もしない。静かな光が、石の輪の中にあるだけだ。
あの火だ。森の中の、あの火だ。
「兄ちゃん?」
ミロが俺の袖を引いた。泥のついた鼻の頭が、すぐ下から俺を見上げている。
「どうしたの。寝ぼけてる?」
「……この火は」
「村の火だよ」
ミロは当たり前のように答えた。
「山の神さまの火。絶やしちゃいけない火」
石の囲いの内側には、たくさんの枝が積まれていた。灰色に乾いてひび割れ、何十年も前に折られたように見える。それが炎に包まれたまま横たわっているのに、焦げていない。一本も。
「あの枝は」
「お供えだよ。春と秋に、みんなで一本ずつ入れるの」
「燃えないのか」
「燃えないよ」
ミロは首をかしげた。俺が何を聞いているのか、見当もつかないという顔だ。
「この火に、薪なんかいらないもん。昔から、だれもくべてないのに、ずっとついてるんだよ」
背中が冷たくなった。着せられた外套の内側を、夕方の寒さとは別のものが這い上がってくる。
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広場の端の石に、腰の曲がった老婆が座っていた。「婆さまだよ。村の長老」とミロが耳打ちする。婆さまは俺を見上げて、目を細めた。
「熱は引いたかい、トビ」
「……はい」
「なら、今夜はお前の番だ。決まりを言ってごらん」
言えるはずがない。黙っていると、婆さまは怒りもせず、ゆっくり指を折った。
「ひとつ。日が落ちたら、火守りのほかは家を出ない。
ふたつ。火守りは、朝まで火から目を離さない。眠らない。
みっつ。火が細ったら、自分の名を、三度呼ぶ」
「名を?」
「夜の客は、名のない者を連れていく」
婆さまの声は、子守歌のように平らだった。
「火があるうちは、客は村に入れない。火の明かりの外で、ぐるぐる回っているだけだ。けれど、火が細ったら、火守りは名を呼ぶ。火守りがここにいると、山の神さまに知らせるためにね。そうすれば、火はまた戻る」
「戻らなかったら」
婆さまは答えなかった。かわりに、俺の顔をじっとのぞき込んだ。長いあいだ、目を離さなかった。
「お前、目の色が違うね」
心臓が跳ねた。この体の目が何色なのか、俺はまだ知らない。
「……熱のせいだと思います」
「そうかい」
婆さまはそれ以上何も言わず、杖をついて立ち上がった。去り際に、一度だけ振り返る。
「火守りは、体の弱い者の仕事だ。畑に出られない者が、村の役に立てる仕事だ。けれどね、トビ。昔から、火守りの中には、時々、火に呼ばれる者が出る」
「呼ばれる?」
「火の中に、何かを見るのさ」
それだけ残して、婆さまは坂を下りていった。杖が石を突く音が、しばらく耳に残った。
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日が落ちた。あちこちで戸の閉まる音がして、閂をかける音が続く。窓という窓が板で塞がれていく。最後に、ミロが家の戸口から顔を出した。
「兄ちゃん」
「中にいろ。決まりだろう」
「うん」
ミロは俺の袖口を、指で二度つまんだ。つまんで、離して、もう一度つまんだ。
息が詰まった。姫と同じ指の動きだった。大臣や敵国の使者の前でも、姫は背筋を伸ばしたまま、誰にも見えないところでこうしていた。
一度目は、そこにいるか確かめるため。二度目は、そこにいてね、と言うため。
八つの姫が、十五の俺にそう教えてくれた。崖の上の道でも、姫は同じようにつまんだ。
「兄ちゃん?」
「……なんでもない」
俺はミロの頭に手を置いた。大丈夫じゃないのは、たぶん俺のほうだった。
「大丈夫だ。俺がここにいる」
ミロは小さくうなずいて戸を閉めた。閂の音がして、広場には俺ひとりが残った。
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火の前に座り、手をかざした。温かくない。森の中では、凍えているせいにした。でも今は違う。熱が下がったばかりのこの体はむしろ火照っているくらいなのに、それでも温かくなかった。光だけがあった。
俺は火をじっと見つめた。この火があの森から続いているのなら。あの夜、姫を横たえたすぐそばにあった火なら。姫も、この火の向こうにいるんじゃないか。
ばかげている。分かってる。それでも目を離せなかった。決まりのことなんか、もう頭になかった。
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どれくらい経ったのか。村の外の暗がりで、がしゃ、と音がした。金属の擦れる音だった。顔を上げると、明かりの届かない畑の向こうに、木立の影が黒く沈んでいる。
がしゃ。がしゃ。
鎧の鳴る音だ。知っている音だった。崖の上の道で、背後から迫ってきた音。何十もの鉄靴が石を踏む音だ。
「火の明かりの外で、ぐるぐる回っているだけだ」と言った婆さまの平らな声が、耳の奥でよみがえる。音は村のまわりをゆっくり回っていた。右から後ろへ。後ろから左へ。俺を囲むように。
「……来るな」
声がかすれた。こんな山奥に、あの国の兵がいるはずがない。分かっている。ここは知らない場所で、知らない時代で、俺はライナスですらない体に入っている。それでも、音は鎧の音だった。槍の穂先が触れ合う音まで、聞こえた気がした。
腰に手をやった。剣はない。あの森に、突き立てたままだ。
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そのとき、石の輪の向こう側に獣が座っていた。いつからいたのか分からなかった。白い毛並みは鹿のようで、目の奥は狼のようで、どちらとも言い切れなかった。大きさも、やはりよく分からない。
聖獣だ。気づくと、鎧の音が消えていた。夜はいつの間にか、ただの山の夜に戻っている。虫の声さえしなかった。
「……お前」
声が震えた。怒りなのか安堵なのか、自分でも区別がつかない。
「姫は、どうなった」
聖獣は答えなかった。俺に目を据えているだけだ。あの目だった。何かを待っているような目。
「エルナ様は、生きているのか」
答えない。
「あの火に当たって、温まったのか。目を覚ましたのか。誰かが見つけてくれたのか。答えろ」
やはり、答えない。
「お前は知っているんだろう。あそこにいたんだから。俺が倒れたあとも、ずっと見ていたんだろう」
聖獣のまぶたが、わずかに動いた。それだけだった。
俺は立ち上がり、石の囲いに足をかけた。火をまたいででも、向こうへ行くつもりだった。胸ぐらがあるなら、つかんでやる。
「兄ちゃん」
後ろで、小さな声がした。
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振り向くと、戸の隙間からミロが顔を出していた。閂を自分で外したらしい。
「出てくるなと……」
「だれと、話してるの?」
ミロの声は震えていた。戸板をつかむ指が白い。
「あそこに、獣が」
俺は火の向こうを指さした。聖獣はそこにいる。白い毛並みが金色の光を受けていて、見間違えようがない。
ミロは俺の指の先を目で追った。長いこと目を細め、身を乗り出して、もう一度のぞいた。
「……なにも、いないよ」
その顔は怯えていた。獣にではなく、俺に。
「兄ちゃん、熱のとき、ずっと変なこと言ってた。知らない名前、何回も呼んでた」
ミロは戸の陰に立ったまま、こちらへ来ようとしない。
「起きてからも、ずっと変だよ。しゃべり方も、歩き方も。ぼくのこと、知らない人みたいに見る」
「ミロ」
「兄ちゃん、だれ?」
言葉が出なかった。「ライナスだ」と言えばよかった。俺は護衛騎士のライナスで、お前の兄じゃない。お前の兄がどこへ行ったのか、俺も知らない。そう言えばよかったし、それが本当のことだった。なのに、口からこぼれたのは別の言葉だった。
「兄ちゃんだよ」
ミロの顔がくしゃりと歪んだ。それから戸の陰から飛び出してきて、俺の腰にしがみついた。細い腕が震えている。
気づけば、その背中に手を回していた。考えるより先に腕が動いた。怯えている者がいれば背に隠す。俺の体は、ずっとそうやって生きてきた。この体は、俺の体ではないのに。
火の向こうで、聖獣がミロに目をやった。ほんの一瞬だけ。それから、また俺に目を戻した。
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火が、ふっと小さくなった。ミロが息をのむ。
「兄ちゃん。火が」
見間違いではなかった。石の輪の中の金色が、ひと回り縮んでいた。誰も何もしていない。誰もくべない火が。昔から一度も消えたことのない火が。
「名前」
ミロが、俺の袖口をつまんだ。二度。
「名前、呼んで。三回。早く」
俺は火の前に膝をついた。石の輪の縁が、膝の骨に冷たく当たる。
「ライナス」
火は縮んだままだった。
「ライナス」
縮んでいく。
「ライナス!」
止まらない。金色の光は少しずつ、少しずつ、石の輪の底へ沈んでいった。俺の声など聞こえないみたいだった。
「ちがう!」
ミロが叫んで、俺の腕を揺さぶった。
「ちがうよ、兄ちゃんの名前はトビだよ! トビって言って! 早く!」
トビ。それを口にすれば、火は戻るのかもしれない。何十年も守られてきた村の決まりで、この子はそれを信じている。
俺は口を開いた。声が出なかった。トビと言えば。自分の口で、自分をトビと呼べば。ライナスはどこへ行く。
崖の縁を蹴ったのは誰だ。姫を背負って森を抜けたのは誰だ。冬の朝の湖の色を、十年、誰にも言わずに胸にしまっていたのは誰だ。
さっき、その色がひと呼吸だけ消えた。ひと呼吸で戻ってきた。でも、次は。
「兄ちゃん!」
「……言えない」
自分の声が、ひどく遠かった。
「ごめん。それだけは、言えない」
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膝から力が抜けた。あのときと同じだ。火が縮むのと同じ速さで、体が重くなっていく。指先が冷え、咳がこみ上げてきて、地面に手をついた。
ミロが俺の背中にすがりついて泣いている。村の外で、また音がした。がしゃ。鎧の音が近づいてくる。今度は回っていない。まっすぐ、こちらへ来る。
ああ、と息が漏れた。婆さまの「夜の客は、名のない者を連れていく」が、頭の中で鳴る。俺は名を呼んだ。三度、呼んだ。それでも火は戻らなかった。なら、俺の呼んだ名は、名ではないのか。それとも、俺は……。
考えるのをやめて、最後の力で体をねじった。ミロを自分の胸と地面のあいだに抱え込み、音のする方へ背中を向ける。槍が来るなら、ここだ。この子には届かせない。
火の向こうに、聖獣の目があった。金色の光は細い糸のようになっていて、その最後の明かりの中で、聖獣は俺だけを見ていた。
鎧の音が、すぐそばで止まった。何かが俺の上にかがみ込む気配がする。息づかいはなかった。
俺は腕の中のミロの髪に顔をうずめた。藁の匂いがした。姫の髪の匂いとは違う。違うことが、まだ分かった。
腕の中で、ミロの指が俺の袖口をつまんだ。
一度。
二度目を待った。糸のような光が、石の底でふるえた。
二度目は、来なかった。
それとも、俺がもう、感じられなかったのか――
火が消えた。