第五十一話 剣の消えた夜
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
翌朝、トーマが記録帳を開くより早く、王城の廊下を駆ける足音が聞こえた。
短棒を手に取ったところで扉が叩かれ、王城の伝令兵が息を切らして現れた。
「地下封印区画で異常が発生しました。ロイド様から、すぐに記録室へ来るようにとのことです」
「封印区画って、あの剣の?」
「詳細はまだ……警備の術師二名と連絡が取れず、巡回兵が発見したと聞いています」
トーマは記録帳を閉じた。忘却の剣と、身体に残る知らない戦い方。無関係だと思いたくても、指先が冷えた。
廊下へ出ると、隣の部屋からノアが顔を覗かせた。黒髪には少し寝癖がついていた。
「トーマ、何かあったの?」
「封印室の警備に異常が出たらしい。まだ詳しくは分からない」
ノアは一瞬言葉を失ったあと、袖を掴んだ。
「私も行く」
「まずロイドのところへ行こう。誰が地下に入るか、まだ決まってない」
二人で階段を下りる間、ノアは何度も胸元へ手を当てた。昨日の感覚が残っているのかもしれない。
記録室には既にソル、レナ、ユナ、ミアが集まっていた。机には封印区画の見取り図が広げられている。
「封印室前の術師二名が意識を失っているそうです。救護班を向かわせましたが、扉の術式は作動したままです」
「剣は?」
トーマが尋ねると、ロイドはほんの短い間、答えを探すように沈黙した。
「確認できていません。だから現地へ向かいます。先頭はソル、私は封印記録を調べます。レナは先行せず、皆の後ろを確認してください」
「もっと速く走れるぞ!」
「先行は禁止です。待ち伏せの可能性もあります」
「でも剣が!」
「だからこそです」
レナは悔しそうに口を結んだが、すぐに頷いた。ロイドはノアへ向き直った。
「ノアさんは救護班と地上に残ってください。昨日の検査で異常はなくても、まだ疲れが取れていません」
「でも……」
「何か起きたら通信で知らせます。あなたが無理をする必要はありません」
トーマが手を差し出すと、ノアは握り返した。
「絶対に戻ってきてね」
「戻る。分からないものを見つけても、勝手に触らない」
「……それ、覚えててね」
「分かった」
ノアの小さな笑顔を見てから、トーマは仲間たちと地下へ向かった。
──
封印室は王城の地下倉庫よりも深い場所にある。古い水路を渡り、何重もの鉄扉をくぐってようやく辿り着く区画だ。今日は救護員の姿まであった。
先頭を進むソルの剣が、鞘の中で小さく鳴った。トーマは後ろを歩きながら、石壁に灯る魔法灯へ目を向ける。明かりは確かについているのに、隅の暗がりだけが妙に深い。昨夜見た黒い羽根を思い出した。
「トーマ」
ユナが並んで声を落とした。
「顔色、悪い」
「大丈夫」
「信用しない」
「ロイドみたいなこと言うな」
「ロイドさんが正しい時もある」
前を行くロイドが振り返らずに答える。
「いつも正しいつもりですが」
「たまに間違えるぞ!」
レナが言うと、ロイドは眼鏡を押し上げた。
「今はその議論をしている場合ではありません」
普段なら笑えたはずだった。だが、地下へ下るほど胸の違和感が増す。呼ばれているのではない。あるはずのものがないと、身体が告げていた。
ユナは手首から淡い青い糸を伸ばし、トーマの手首へ軽く結んだ。
「これなら、急に離れても分かる」
「俺は離れない」
「トーマは、自分で離れたことに気づかない時がある」
トーマは反論できなかった。糸は自分でほどける程度に緩く、その感触が心強かった。
最後の鉄扉の前には、倒れた術師が二人いた。救護員が脈と呼吸を確かめ、応急処置をしている。衣服に血はなく、床にも争った形跡は見えなかった。
「生きている」
ソルが確かめると、救護員が頷いた。
「命に別状はありません。ただ、呼びかけても目を覚まさないのです」
ロイドは術師の認証札と勤務記録を照らし合わせた。
「交代の時刻までは通常どおりでしたか?」
「ええ。少なくとも、巡回兵から異変の報告はありません」
「戦った跡がないな」
レナが床を見渡す。ソルは扉の前へ進み、剣を抜かないまま周囲を確かめた。
鉄扉にはシェインの安定結界、ベイルの力場封鎖、テリアの認識固定式が重なっている。三国がそれぞれの方法で剣を閉じ込め、ひとつが損なわれても他の封印が働くように組まれたものだ。
「封印は?」
「……稼働しています。どの術式にも破壊された形跡はありません」
「なら、中にある?」
レナの問いにロイドは答えなかった。トーマは、重い鉄扉の向こうへ視線を向ける。
ない。
扉を開く前から、そんな確信だけが胸にあった。
「私が開けます。誰も先に踏み込まないでください」
ロイドは正式な緊急手順に従い、シェインの認証と他の二国の緊急解除式を通し、監視記録を保存する。封印そのものではなく、確認用の通路だけを開いた。
重い扉が、石を擦るような音とともに動いた。ソルが剣を抜き、ユナが糸を広げる。ミアは短槍を構え、レナは後ろの廊下を警戒した。トーマも短棒を握り直す。
封印室の中央には、低い石の台座があった。
そして、その上には何もなかった。
──
鞘ごと封じられていた忘却の剣が、消えていた。
誰もすぐには声を出せなかった。剣はかつてトーマの意識を奪った。再び誰かが手にすれば何が起こるか、皆が知っていた。
「……ないぞ」
ミアの声が、ひどく小さく聞こえた。
「誰かが持っていったのか?」
レナが踏み出しかける。ソルが腕を伸ばして止めた。
「待て。床を見ろ」
台座の周囲には、灯りの向きと関係なく広がる薄い黒ずみがあった。煤でも泥でもない。石の表面へ影そのものを塗り込めたようで、その縁には数枚の黒い羽根が張りついている。
「記録喰い……」
トーマの口から名前が漏れた。地下闘技場で聞いた、偽りかもしれない声が耳の奥に蘇る。お前が殺したものはゼロ。証拠はない。それでも、恐怖が蘇った。
ユナの糸がかすかに張る。
「ここにいる」
「……ああ」
トーマは一度息を吸い、自分の名を声にした。
「トーマ」
「ミア!」
ミアがすぐに応じ、レナも「レナ!」と続ける。ユナは「ユナ」と短く告げ、ロイドは記録板から目を上げて「ロイドです」と答えた。ソルも剣を構えたまま自分の名前を口にした。
以前の認識異常を思い出し、皆が自分の居場所を確かめた。
ソルの視線が、台座の陰へ動いた。
「何かいる」
黒ずみの奥から、細長い腕のようなものが立ち上がった。人の形に近いが顔は見えず、その先端は台座に置かれていた剣を探るように動いている。
トーマの足が勝手に前へ出た。
「トーマ!」
ユナの糸が張り、彼の身体を引き戻す。糸を振りほどくこともできたはずだったが、自分から足を止める。黒い腕が胸元へ伸びた。
ソルが一歩踏み込み、剣を横へ払った。斬撃を受けた影は輪郭を失い、黒い羽根にほどけて床へ落ちる。羽根は床に触れる前に消えた。
「追うな」
ソルの短い命令に、レナが頷く。ミアは短槍を構えたまま、入口から目を離さなかった。
「今のは記録喰いなのか?」
「少なくとも、地下闘技場で確認したものに似ています。ただ、正体が同じかどうかまでは言えません」
ロイドは羽根の落ちた位置を記録した。
「剣を食べたのか?」
レナの問いに、ロイドは首を振る。
「剣そのものが消滅したのなら、もっと別の反応があっても不思議ではありません。剣に関する私たちの記録も残っています。ですが、それだけで剣が無事だと証明できるわけではありません」
「じゃあ、どうやって出したんだ?」
「分かりません。外から入った者の痕跡も、今のところ見つかっていません」
ソルは扉と台座を交互に見た。
「閉じ込めるものが残っていて、閉じ込められていたものだけがない」
トーマは台座の窪みに目を向けた。周りが暗く染まっているのに、剣の収まっていた場所だけが不自然に白い。一歩近づくと右手が震えた。
「トーマ。触るな」
ソルの声に足を止めたが、手は台座へ伸びようとする。トーマは短棒を床に置き、左手で右手首を強く掴んだ。
「俺……剣を取り戻そうとしてる」
「お前が?」
「違う。そうしなきゃいけないって、身体が勝手に……」
言葉の終わりに、目の前の景色が揺れた。台座から伸びた白い線が、視界の奥を裂いていく。ユナが呼ぶ声も、ソルの剣が動く音も、遠くへ離れていった。
──
そこは、崩れかけた壁に囲まれた暗い場所だった。
トーマは立っているはずなのに、足元の感覚がない。自分の目ではなく、別の誰かの視線を借りているようだった。目の前には鞘に収められた忘却の剣があり、その向こうに白い服の少女が立っている。
少女の顔はよく見えなかった。ただ、声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
「それを持っていかないで」
誰かが答えた。トーマの口から出た声ではない。低く、感情を押し殺したような声だった。
「これは、返されるべきものだ」
「違う」
「違わない」
少女は剣ではなく、その声の主を見つめているようだった。遠くで石の崩れる音がし、壁の隙間から黒い羽根が舞い込んだ。
「それを返したら、全部始まる」
「お願い」
少女が一歩近づく。白い裾が揺れ、その足元には何か赤いものが広がっていた。
「トーマを連れていかないで」
鞘の中で、剣が鳴った。音の震えが身体の芯まで届き、思わず耳を塞ぎたくなる。しかし借り物の視線は動かない。
そして、どこからともなく別の声が響いた。
「時は、まだ来ていない」
──
「トーマ!」
頬に鋭い衝撃が走った。目を開けると、すぐそばにレナの顔があった。彼女は両手でトーマの頬を挟み、逃がさないようにしている。
「戻ったか!?」
「……レナ?」
「レナだ!」
ミアも服の裾を掴んでいた。ユナの糸はまだ手首に繋がり、ソルが台座とトーマの間へ立っている。ロイドは呼吸を確かめ、水を差し出した。
「何が見えましたか?」
「白い服の少女がいた。剣を持っていくなって……」
トーマは水を飲み、言葉を繋いだ。暗い場所、壊れた壁、知らない誰かの声。聞こえた言葉はできるだけそのまま伝えたが、声の主の姿も、場所の名前も思い出せなかった。
「それを返したら、全部始まるって言ってた。最後に、『時は、まだ来ていない』って」
「何を返すんだ?」
ソルが問う。
「剣のことだと思う。でも、どこに返すのかは分からない」
ロイドは記録し続けた。
「実際に起きた過去なのか、誰かに見せられた映像なのか、今は区別できません。断定せずに記録します」
「白い子、ノアに似てたのか?」
ミアの問いに、トーマは少し考えた。
「声は似てた。でも顔が見えなかった。ノアだったかは分からない」
「今すぐ聞く?」
「いいえ。あの子に無理に思い出させることはしません。まず本人の体調を確かめてからです」
ロイドの判断に、トーマも頷いた。レナはようやく頬から手を離す。
「痛かったか?」
「少し」
「戻すためだ!」
「ありがとう」
「もう一回必要か?」
「今は大丈夫だ」
レナがほっとしたように笑う。それを見ると、頬の痛みさえありがたかった。暗い場所で、自分の名さえ失いかけた気がした。
部屋の詳しい調査はロイドと増援の術師に任せることになった。トーマたちは扉の外で待機し、ソルが通路側の警戒を引き受ける。しばらくしてロイドが出てくると、その顔には疲れが滲んでいた。
「監視記録に、欠けている部分があります」
記録石は内部を定期観測し、異常時には細かく記録する。扉の開閉記録と結界の稼働記録は正常だった。ところが、昨夜の深夜、わずか七秒間だけ、内部を観測した記録が続いていない。
「黒く塗られたのか?」
「いいえ。前後の記録は続いているのに、その七秒間だけが抜け落ちています。時間が飛んだように見えますが、実際に時間が失われたと決める証拠はありません」
「七秒で剣を運んだってことか?」
「可能性はあります。しかし、それも仮説です」
ソルは扉の向こうに目を向けた。
「剣も影も、同じ誰かが動かしたのかもしれない」
「そう考えると説明できることはあります。ただし、今はその人物が存在するかさえ不明です」
トーマの耳に、幻の中で聞いた声が戻ってきた。『これは、返されるべきものだ』。剣が戻る場所を知っている誰かがいるのだろうか。確かめようはなかった。
──
昼過ぎ、倒れていた二人の封印術師が目を覚ました。
彼らは自分が封印室を守っていたことも、巡回兵と交わした会話も覚えていた。ところが、何を守っていたのかだけが説明できなかった。ロイドが鞘付きの剣の図を見せると、一人は困惑した顔で首を傾げた。
「剣など、最初からなかったはずですが」
「封印したことも覚えていないのですか?」
「危険なものを管理していたことは覚えています。しかし、剣だと言われても……」
説明を繰り返しても、二人は目を離すとまた忘れた。思い出すべき記憶の場所が空っぽになっているようだった。
「戻る?」
レナが医務室の外で尋ねた。
「分かりません。今は休息を優先し、本人たちの同意を得た範囲で検査を続けます」
ロイドは声を抑えて答えた。剣がなくなっただけではない。守っていた者の記憶から、剣という対象が抜け落ちている。その事実が、トーマには何より恐ろしかった。
自分もいつか、ノアたちの名前を聞いても分からなくなるのだろうか。顔を見ても、思い出す前に忘れてしまうのだろうか。
「もし俺が忘れたら……」
言いかけたところで、隣にいたソルが振り向く。
「何を」
「皆を」
「そうか」
「もう一度、教えてくれるか?」
「面倒だ」
ソルは真顔で言った。トーマが思わず目を上げると、彼女は続けた。
「だが、やる。何度でも」
「ありがとう」
「礼は覚えてから言え」
「今は覚えてる」
「なら受け取る」
短い返事だったが、不思議と息が楽になった。トーマは青い糸へ視線を落とした。失っても名前を教えてくれる人がいる。その事実が、今は救いだった。
──
夕刻、シェイン王国からベイル王国とテリア王国へ緊急報告が送られた。ロイドは剣の消失、七秒間の記録欠落、術師の記憶異常を報告し、事実と推測を分けて追加点検を求めた。
テリア王国から返答が届いたのは、日が暮れる少し前だった。通信結晶の向こうで、アリスの声が大きく響く。
『消えたって、どういうことよ!』
「封印は破壊されていません。昨夜の監視記録に七秒間の欠落があり、その間に消失した可能性があります」
『七秒……そんな短い間に?』
背後から、テリア女王の声がした。
『ロイド。認識固定式はどうなっておる』
「正常に稼働しています」
『正常なまま、剣だけが消えたか』
「はい」
短い沈黙のあと、女王は低い声で言った。
『それは、外から破られたのではないのかもしれぬ。内側から、封印の意味を抜かれたのじゃ』
「封印の意味、ですか」
『中に何を置き、何を防ぐのか。その認識ごと揺らがされれば、術式だけが生き残ることもあり得る。ただし今は推測じゃ。実物を見ぬうちから決めつけるでないぞ』
アリスが言葉を継いだ。
『でも、それだけじゃ剣は外へ出られないわ。誰かが持ち出したのか、別の仕組みがあったのか、調べないと』
「こちらでも調査を続けます」
ロイドが答えると、テリア女王はトーマへ声を向けた。
『トーマ。剣の声は聞こえるか』
「いいえ。呼ばれている感じもありません。でも、扉を開ける前から、剣がないことを知っている気がしました」
『お主と剣の繋がりが、何か残っておるのかもしれぬな』
「場所も分かるでしょうか」
『今は分からぬじゃろう。焦って追うな』
そこへアリスが割って入った。
『近づいているのは、剣だけじゃないわ』
「どういうことだ?」
『ここ数日、魔法花が勝手に開くの。誰も魔力を流していないのに、全部同じ方向へ向くのよ』
「どこへ?」
『北西。三国の地図では古い荒野が続くはずの方角よ』
ロイドは机に広げた地図へ目を向けた。北西に大きな都市を示す印はなかった。
『記録に何もないからといって、何も存在しないとは限らぬ』
女王の声は静かだった。
『三国で記録を照らし合わせる。動くなら、それからじゃ』
通信が切れる直前、アリスが言った。
『トーマ、勝手に探しに行かないでよ』
「まだ何も言ってない」
『あなたは言う前に行くでしょう!』
「行く時は話す」
『話せば行っていいって意味じゃないからね!』
「分かった」
『本当に?』
「……たぶん」
『その返事、誰に教わったのよ!』
結晶の光が収まる。ロイドは眉間を押さえ、レナは小さく笑った。胸の重さが消えたわけではないが、トーマは仲間たちの顔を見て、少しだけ息を吐いた。
──
その夜、ベイル王国の自室で、リンは鏡台の前に座っていた。
シェインからの緊急報告を受け、王城でも点検が始まっていた。リンは愛用のチャクラムを布で拭き、刃に欠けがないか確かめてから鏡台の脇に置いた。すると、鏡の中の自分は一拍遅れて輪刃を下ろした。
「……あら?」
リンは目を細めた。幻惑で相手の認識を揺さぶることには慣れている。だが、自分で術を使っていないのに鏡像が遅れた理由は分からなかった。光の加減とも思えず、彼女は微笑んだまま視線だけを鋭くする。
チャクラムをもう一度持ち上げ、わざとゆっくり傾けてみる。今度は鏡の動きと重なった。それでも、背後に黒い羽根が一枚落ちるのを確かに見た。
振り返ると、絨毯には何もない。
鏡へ目を戻すと、そこに映るリンも静かに微笑んでいた。
「近々、何かが起きますねぇ」
窓の外には、晴れた夜空が広がっている。北西の低い空に輝いていた小さな星が、薄雲に隠れた。リンはその方向を見つめ、明日の報告に一行書き加えることを決めた。消えたものが何なのか、まだ誰にも分からない。だからこそ、今夜見た違和感だけは残しておかなければならなかった。