第五十四話 地図の外を歩く
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
北西へ向かう道は、地図に存在しなかった。
シェイン王城の作戦室では、ロイドが三国から集めた地図を年代順に並べていた。川筋や国境の違いは時代の変化で説明できた。しかし北西の空白だけは、どの地図にも同じ形で残っていた。
「未踏の土地なら、そう書けば済みます。ですが、どの記録者もここを空白にした理由を記していません」
ロイドが指を置くと、レナが身を乗り出した。
「全員が書き忘れたんじゃないのか?」
「百年以上離れた資料まで、同じ範囲を書き忘れるとは考えにくいです」
「じゃあ、何もない場所?」
「何もないと確認された場所でもありません」
ロイドは別の記録板を出した。前日に写し取った、北西地方の旧街道に関する文章が途中で切れている。文字が掠れたのではなく、文章そのものが途切れていた。
「今朝確認したときには、この状態でした。昨夜の写しには続きがあったはずなのですが、原本にも写しにも残っていません」
「記録喰いがやったの?」
ノアの問いに、ロイドはすぐには答えなかった。
「疑う理由はあります。ただ、剣の消失も含め、同じものが原因だと断定するには証拠が足りません」
机の周りにはトーマ、ミア、ユナ、ソルが立ち、後方には遠征に加わる術師と護衛兵が控えていた。トーマは昨夜、自分の記録帳に書かれていた見覚えのない一文を思い出す。『始まりの都市へ。』帳面は封をしてロイドへ預けている。
「地図が使えないなら、何を頼りに進むんだ?」
「星と地形、それに中継地点を併用します。ひとつの手掛かりだけでは危険です」
ロイドがそう答えたところで、通信結晶が青く光った。
最初に現れたのはテリア女王だった。アリスとロイ、イリスもいる。女王の星膜は北西の縁だけが曇っていた。
『こちらの星膜にも変化が出たぞ。昨日は点のような歪みじゃったが、今日は線になっておる』
「王都の結界そのものに影響はありますか?」
『今のところはない。ワシの手元に展開した膜だけじゃ。妙な反応ではあるがのう』
『魔法花もずっと北西を向いてるのよ』
アリスが言葉を継ぐ。
『魔力を切って開き直しても同じ。あんな場所に何があるのか知らないけど、放っておけないわ』
「そちらの準備は?」
『整っておる。ワシとアリス、ロイ、イリス、ルチア、フィナを中心に、少数で向かうつもりじゃ』
『女王様は残るべきだって言ってるんだけど!』
『その話はもうしたであろう。お主こそ、なぜそんなに急ぐのじゃ』
『トーマたちが勝手なことをしないように決まってるでしょ!』
「聞こえてる」
『特にあなたよ!』
アリスは結晶越しに指を突きつけた。
「まだ何もしてないだろ」
『これからする顔をしてるの!』
「どんな顔?」
『そういう顔よ!』
「分かる」
ソルが静かに言ったので、トーマは彼女を振り向いた。
「ソルまで?」
「一人で先に行きそうな顔だ」
「行かないって約束しただろ」
ロイドが眼鏡を直した。
「その約束は継続しているのですね?」
「……継続してる」
ノアが笑った。もう一方の結晶にはベイル女王とガーネ、リン、カノンが映り、後ろにキリカとメルもいた。
『こちらも出発できる。我らは南側から迂回する。三国が同じ道へ集中すれば、ひとつの異変でまとめて足止めされる』
『ならばワシらは北側じゃな』
「シェインは中央から進みます。合流地点は固定せず、連絡が取れる範囲で位置を確認しましょう」
ロイドが三本の予定線を引いた。中央の線が空白へ入った瞬間、インクが薄くなり、紙へ吸い込まれるように消えた。
「……もう一度試します」
二度目も同じだった。紙は破れておらず、指でなぞってもインクの感触さえない。
『トーマ』
テリア女王が呼んだ。
『お主は道が分かるか』
突然の問いに、トーマは顔を上げた。答えられるはずがない。足を踏み入れたことのない土地だ。それでも白い部分を眺めていると、右手の指先が微かに熱を持った。
「……試していいか」
ロイドが頷く。トーマは空白の外縁から指を動かした。真っ直ぐではない。北へ折れ、浅い谷を避けるように西へ進み、一度南へ迂回する。誰かに教わった覚えはないのに、そこへ足場の感覚だけが浮かぶ。
「ここ」
指が止まったのは、空白の奥だった。
「ここに都市がある」
「なぜ分かるのですか」
「分からない。でも……道も知ってる」
トーマは不安になった。封印室で剣の消失を悟ったときと同じで、手足が先に知っている。
その隣へノアの手が伸びた。彼女の指先から小さな防御膜が広がり、トーマが触れた場所を淡く照らす。白紙に、先ほど辿った曲がり角に似た筋が浮かび上がった。
「道が出たぞ!」
ミアが声を上げる。しかしロイドが別の紙へ写そうとしたときには、筋はもう消えていた。
「ノアさん、今は何をしましたか?」
「光を当てただけ。いつも作る小さな膜だよ。道を描こうとはしてない」
「膜への反応か、偶然かは分かりませんね」
女王は通信の向こうから二人を見つめていた。
『無理に再現するでないぞ。見えたものは手掛かりじゃが、仕組みが分からぬうちは頼りきるな』
「うん」
ノアが膜を消すと、紙は元の白さへ戻った。トーマも指を引いた。道を知ることと、安全に歩けることは別なのだ。
──
出発は、装備と連絡手順を確認した翌朝になった。
城門の外には、七人のほかに封印術師二人、医療術師一人、護衛兵が三人並んでいた。水と食料は分散して持つ。ロイドは列の前を歩きながら、金属札を配った。
「個人認識札です。名前と所属、それから本人が忘れたくないことを記しました。読めなくなる場合も考えられるので、口に出して確認する習慣もつけてください」
レナが受け取った札には、名前の下に短い文章が刻まれていた。
『速く走る。待つことを覚えた。呼ばれた場所へ戻ってくる。』
「いい札だ!」
「自分でそう言えるなら、少しは安心です」
ミアの札には『前へ走る。走れない日でもミアはミア』とあった。彼女は照れくさそうに笑い、胸元へ結ぶ。ユナの札に書かれた『自分自身も、繋がれてよい』という一文を見たときだけ、彼女は無言でロイドを見た。
「余計」
「必要です」
「消していい?」
「いけません」
ユナは不満そうに札を裏返したが、外さなかった。
ノアの札には『ノアはノア。誰かの代わりではない』と書かれていた。彼女がゆっくり文字をなぞると、トーマは隣からその表情を覗き込んだ。
「どうした?」
「ううん。これ、好き」
「よかった」
トーマの札には『忘却の剣ではない。ゼロでもない。今ここで、トーマとして生きる』とあった。ゼロという名前へ指を置いたが、胸の奥に答えは現れない。それでも、この文章は自分で選べることだと思えた。
「今の自分まで、昔の記憶に奪われる必要はありません」
ロイドの言葉にトーマは頷いた。
ソルは自分の札を受け取り、すぐに裏返した。トーマが覗くと『一人で立てる。誰かと並んで立つこともできる』とある。
「気に入らなかった?」
「皆に見せる必要はない」
「でも外さないんだな」
「必要な札だから」
ロイド自身の札には、『自分の恐怖も疲労も、記録の外へ捨てない』という一文があった。レナが彼の鞄を持ち上げようとして、顔をしかめた。
「重い! 記録板、何枚あるんだ?」
「必要最低限です」
ソルが無言で鞄の半分を引き受ける。
「重い」
「返してください」
「疲労も記録の外へ捨てるな」
ロイドは一度自分の札を見下ろし、反論を諦めた。
その様子に皆が笑った。城門を出たとき、道はまだ見慣れたものだった。畑の間を抜け、馬車とすれ違い、丘を越える。帰りにも通るはずの道だった。
──
一日目の夕方、道標から名前が消えた。
護衛兵が最初に気づいた。三つの村名が彫られていたはずの木札に、文字の跡が一つもない。削られた木屑は見当たらず、表面は古く滑らかなままだった。
「この道は何度も通っています。昨日まで、確かに名前がありました」
「村はどこにありますか?」
ロイドの問いに兵士は東を指した。
「この丘の向こうです。人も住んでいます。でも……名前が、出てこない」
家々の煙は遠くに見えた。暮らしが続いているのに、住む人の名だけが思い出せない。トーマは札を握った。
「自分の名前は言えますか?」
兵士は頷き、名乗った。ロイドは一人ずつ点呼を取り、返事が遅れた者には少し休ませた。全員の名前が確認できても、道標の文字は戻らなかった。
ノアは小さな帰星を掌に浮かべた。光はいつものように静かで、消えた名を映すことも、兵士の記憶を戻すこともなかった。それでも彼女は、その光を見ながら口を開く。
「私、ノア。みんなの名前も覚えてる」
「俺はトーマ」
「ミア!」
「ユナ」
「レナ!」
「ロイドです」
「ソル」
隊員たちも続いた。声だけで文字は戻らない。それでも点呼を繰り返せば、次の異常に気づける。
ロイドは道標の位置を記録し、道沿いの岩へ小さな印を刻むことを許可した。レナが石を三つ積み、ミアは倒木に矢印を描く。ユナは木々の間へ目立たない糸を張ったが、帰りにほどけるよう簡単な結び目にした。記録帳にも、名前ではなくその場で見た景色を書き残す。
「これで戻れるな!」
レナの声にロイドは首を横へ振った。
「保証はできません。印が消えたり、道そのものを見失ったりする可能性があります」
「でも、何もしないよりいいだろ?」
「……ええ。それは間違いありません」
道標を過ぎてから、トーマは何度も振り返った。道はまだあるのに、帰り道を知っている感覚だけが薄れていく。
──
二日目には、草原から木々が減り始めた。鳥の声が途切れ、道の両脇には乾いた岩が増える。予定していた分岐は見つかったが、地図にない石柱が二本、倒れたまま道の端に横たわっていた。ロイドは無理に北西へ直進せず、斜面が崩れていないか調べさせた。
トーマには、石柱の向こうへ続く細い足場が分かる気がした。自分でも理由を説明できなかったので、黙って先へ出ようとしたところをソルに止められる。
「道が見えるのか」
「たぶん、あっちへ行ける」
「なら、足元も見ろ」
ソルが剣の鞘で砂を払うと、斜面の縁が崩れ落ちた。下には人の背丈ほどの空洞がある。トーマは息を呑み、無意識に出しかけた足を引っ込めた。
「身体が覚えている道でも、今の道とは違う」
「……そうだな」
一行は迂回して進んだ。術師が足場を確認し、レナは先走らずに荷を運んだ。夕暮れには岩陰の平坦な場所を選んで野営する。中央に小さな火を置き、外周へ見張りを配置した。
交代の時間が近づいたころ、トーマは焚き火の前で北西の空を見ていた。夜の色の中に、そこだけさらに濃い影があるように思える。
「見えるのか」
隣へ座ったソルが尋ねた。
「都市は見えない。でも、あるって分かる」
「身体が呼ばれている?」
「呼ばれてるのとは違う。……帰ろうとしてる、のかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、トーマは胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。自分にとっての帰る場所は、今のシェイン王国のはずだった。ノアや仲間たちが待つ場所だ。それなのに、遠い都市を思うと、別の誰かが先に帰ろうとする。
「嫌か」
「分からない。もし、あそこにいたのが昔の俺なら、俺は何を思い出すんだろう」
ソルは焚き火へ薪を一本加えた。
「私には、帰る場所がなかった」
「今は?」
「ある」
「シェイン?」
ソルはすぐには頷かなかった。火の向こうでは、レナが眠るミアへ毛布を掛け直していた。
「場所だけではない」
小さく薪が弾けた。
「トーマ。過去の場所へ戻っても、今の場所を偽物だと思うな」
「……うん」
「古い方が本物とは限らない。先に知っていた者が、大切とも限らない」
「記録帳に書いておく」
「そこではない」
ソルは自分の胸を指した。
「ここにだ」
トーマが頷くと、ソルはようやく視線を外した。そのとき、毛布の中にいたノアが起き上がった。
「トーマ」
彼女の声が、普段より低かった。
「どうした?」
「来る」
ソルが立ち上がる。
「方向は」
「……全部」
答えが終わる前に、焚き火の炎が横へ引き伸ばされた。風は吹いていない。火の向こう、岩の輪郭に重なるように黒い人影が一つ立ち、さらに二つ、三つと増えていった。
──
「全員、起きてください!」
ロイドの声で野営地が動き出す。ソルは剣を抜き、レナがノアの前に立った。ユナは負傷者と荷物の間に糸を張り、ミアは短槍を構える。トーマも短棒を握ったが、道の方向は見失っていた。
顔のない三体の影が外周に並び、こちらの位置を測るように上体を傾けた。
「様子を見る。こちらから近づくな」
ソルが告げた直後、一体が膝を沈めた。
レナの顔から笑みが消える。
「……私?」
影が地面を蹴った。レナが新しく身につけた急停止を混ぜ、右へ鋭く回り込む。受けたレナは横へ滑りながら立て直したが、影は追ってくる。
「本当に私だ!」
「喜ばないでください!」
ロイドが叫ぶ間にも、二体目の影から黒い糸が伸びた。ユナの糸をなぞるような軌道で、後ろにいた術師の足首を狙う。ユナは青い糸を交差させ、寸前で絡め取った。
「私の考え方まで真似してる」
三体目の腕には黒い剣が形を取った。ソルが一歩前へ出ると、影も同じ角度に剣を傾ける。二つの刃がぶつかり、乾いた音が夜へ飛んだ。
「私の動きを知っている」
「今見たのか?」
「違う。前から知っていたように動く」
トーマの背筋を冷たいものが走る。影が写しているのは姿だけではなかった。どこで足を止め、いつ反撃するかという、仲間たちが積み重ねてきた戦い方そのものだった。
レナが黒い自分へ踏み込むと、影も同じ速さで来る。ユナの糸が二つの進路を分けようとしても、黒い糸が先回りして妨げた。ミアは短槍で隙を探ったが、相手がこちらの癖を知っているせいで、無理に突っ込めば味方を巻き込む。
トーマの身体は、影を倒す方法を探していた。足や腕を壊して動きを止める。考える前に浮かぶ手順が冷たかった。
「トーマ」
袖を掴んだノアが首を振った。
「一人で全部やろうとしないで」
トーマは息を吐いた。今ここには、レナもユナも、ミアもソルもいる。彼らの癖を知っている影が現れたのなら、今ここで仲間が何を選ぶかまでは知らないはずだった。
「レナ、真っ直ぐ走れるか!」
「任せろ!」
「ユナ、途中で横へ引いて!」
「分かった」
レナが黒い自分へ向かう。影は同じ速度で迎え撃った。衝突の一歩手前でユナが糸を引き、レナの身体がわずかに横へ滑る。影は急に進路を変えられず、真っ直ぐ抜けた。
そこへミアが短槍の柄を差し込み、相手の足を払う。倒れた影へトーマが短棒を突き立てると、胸の奥の黒い点が砕け、身体が羽根のようにほどけた。
「倒れた!」
レナが声を上げる。しかし残る二体は止まらない。黒い糸がノアの方へ伸びた瞬間、彼女は防御膜を広げて受け流し、ユナが糸の根元を縛った。ミアの槍が腕を押さえ、ソルの剣が影の中心を斬る。崩れた輪郭は元に戻らず、黒い羽根へ変わって消えた。
最後の一体はソルの剣筋を正確になぞった。剣を合わせるたびに同じ角度で返され、正面から押し切れない。トーマが短棒で脇を狙おうとすると、影はそちらも読んだように身を引いた。
「レナ!」
ソルが呼ぶ。
レナは影の背後へ走ったが、攻撃せず寸前で止まった。影が振り向いて剣を振るう。その空振りへユナの糸が巻きつき、ミアが槍の柄で足を崩す。ソルは相手の剣を押し上げ、露わになった胸元へ刃を突き立てた。
黒い輪郭が割れた。最後に小さな羽根が落ち、それも地面へ触れる前に消えた。
「私の剣を、お前が使うな」
ソルは剣先を下ろした。勝ったはずなのに、すぐには誰も笑わなかった。影が消えた場所には、焚き火の消えた跡と、踏み荒らされた砂だけが残っていた。
──
負傷者を確かめたあと、ロイドは全員の名前を呼び直した。護衛兵の一人が腕を傷め、術師の一人が転倒して足を捻っていたが、命に関わる傷ではない。医療術師が処置を終えるまで、誰も荷を片づけようとしなかった。
「あれは、何だったんだろう」
ノアの問いに、ロイドは砂の上へ落ちた黒い欠片を見つめた。消える寸前、その表面に一瞬だけ文字のような形が浮かんでいた。写し取れたのは数本の線だけで、意味は分からない。
「戦い方の記録を模倣しているように見えました。仮に『記憶模造体』と呼びます。ただ、どこからその記録を得たのかは未確認です」
「また来る?」
レナが尋ねる。
「来る可能性はあります。今夜のうちに、移動できる準備を整えましょう」
しかしテリアとベイルへの通信は繋がらず、返事が届かなかった。ユナが地面へ残した糸の印を確かめると、野営地の西側だけ、先ほど結んだ場所からずれていた。
トーマは北西へ目を向けた。暗い空の下、遠い山並みの上に、黒い輪郭が一瞬だけ浮かび上がる。幾つもの屋根と、ほかより高い建物。その頂上に、人のようなものが立っていた。
低い鐘が鳴った。
「待ってる」
ノアが呟く。都市が本物か幻か、トーマには分からない。それでも、あの方角へ自分の足が向かおうとしていることだけは分かった。
もう一度、鐘が鳴る。
ソルが剣を構え直した。地面の割れ目、岩の陰、枯れ草の間から、先ほどより多くの黒い影が立ち上がり始める。ロイドは記録板を閉じ、全員へ後退の合図を送った。
道のない荒野で、彼らが残した帰り道を守るための戦いが始まろうとしていた。