第五十六話 名前を呼ぶ帰り道
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
黒い石畳は、遠くから見たときほど真っ直ぐではなかった。
道は何度も曲がり、二つに分かれた。片方を選ぶと先の石畳が霧に溶け、引き返せば分岐そのものが消えていた。
ロイドは方位と歩数を記録し、目印を置かせた。だが印を刻んだ岩は見つからず、砂地の足跡も途絶えていた。
「さっきまで荒野だったよな?」
レナが振り返る。十歩ほど先には黒い道が続いているが、その向こうは白い霧に閉ざされていた。
「荒野だった」
ユナは手首の糸を確かめてから、言葉を足した。
「……たぶん」
「たぶん?」
「岩の形を覚えてた。でも、どの岩だったか思い出せない」
糸は切れていない。引けば抵抗もある。なのに、何に結んだか思い出せなかった。
ミアは槍を抱えたまま、霧の奥を睨んだ。
「私が積んだ石もないぞ。三つ重ねたのに!」
「石が消えたのか、私たちが見つけられなくなったのか、まだ分かりません」
ロイドが記録板を見せた。『東側の岩に印を刻む』という文字は読める。しかし目を離してもう一度読むと、その岩が道のどちら側にあったのか、自分の記憶に確信が持てなくなる。
負傷者を運ぶ二人の歩幅が狭まっていた。戦闘後に十分休めていない。迷えば体力が先に尽きる。
「ここで一度止まりましょう。全員、間隔を詰めてください」
ロイドの指示で一行は身を寄せた。ノアが小さな膜を浮かべると石畳が青白く照らされた。霧は晴れないが、足元の道は見える。
トーマは札に手を当てた。城門でロイドから受け取った、名前と自分の選んだ言葉を刻んだ認識札だ。文字は残っている。ところが、その文を読んだ瞬間、胸に小さな引っかかりを覚えた。
『今ここで、トーマとして生きる』。
それは分かる。だが、どうしてこの言葉を選んだのだろう。誰と話して決めたのか、その顔が一瞬だけ浮かばなかった。
「ロイド。これ、見てくれ」
札を手渡そうとして、トーマは手を止めた。眼鏡の人物を見て、相手の名前は分かる。ロイドだ。しかしなぜ自分がその相手を信頼しているのか、答えようとすると言葉が出てこない。
ロイドは札より先にトーマの顔を見た。
「どうしました?」
「名前は分かる。でも……俺たち、いつから一緒にいた?」
レナが札を見下ろした。
「私たち、仲間だろ? そうだよな?」
「そうです。ですが、その理由を思い出すのに時間がかかるようなら、認識干渉を受けている可能性があります」
ロイドが全員の札を調べると、名前そのものは読めた。しかし互いを表す言葉が曖昧になり、いつ誰と約束したのかを語ろうとすると、記憶の順番が崩れる者が出始めていた。
「名前じゃなくて、繋がりの方を……」
ユナが糸を握り締めた。彼女の指から伸びる一本がミアの手首へ結ばれている。見れば確かに分かる。なのに目を閉じると、数ある糸のうちどれを彼女に結んだのか分からなくなった。
「ユナ?」
「今、ミアの糸がどれか分からなかった」
ミアの表情が変わる。いつものように勢いよく答える代わりに、彼女は槍を地面へ突き、空いている手でユナの手を握った。
「私、ここにいるぞ」
「うん。今は分かる」
糸を引くより、その手を握っている方が確かだった。
──
ロイドは全員の名前を呼び、声だけでなく札と顔を合わせて本人を確かめた。
「レナ。先ほどの影との戦いで、何をしましたか?」
「最初は突っ込んだ! そのあと私が止まったところへ、ユナの糸が来た!」
「それを覚えていれば十分です。次はミアさん」
「私はミア! 走れなくてもミアだ!」
言ってからミアは顔を赤くした。札の文をそのまま読んだのだ。ユナがかすかに笑い、自分の番になると目を伏せた。
「ユナ。糸で繋ぐ」
言い終えてから、ミアの手を見た。
「……繋がれてもいい」
「今、言ったな!」
「聞こえてたなら、二度言わせないで」
ミアは笑ったが、手を離さなかった。
ソルは短く自分の名前を告げ、それきり口を閉じた。トーマが札の続きは、と尋ねると眉を寄せる。
「必要ない」
「今、必要なんだと思う」
「……一人で立てる」
ソルは周りを見渡し、ためらうように続けた。
「誰かと並んでも立てる」
「ソルさんも言ったぞ!」
ミアの声に、ソルは目を逸らした。
「聞こえていたなら忘れろ」
「今忘れたら駄目じゃないか?」
思わぬ返しにソルは黙った。レナが笑いかけ、やがて周りの護衛兵まで小さく息を漏らした。
ロイドはそのやり取りを一行ずつ書き留めたあと、自分の札を握った。
「ロイドです。記録を残し、皆さんが無事に帰るための判断をします」
「自分のことも」
トーマが言うと、ロイドは眼鏡を押し上げる。
「……自分の恐怖と疲労も、記録の外へ捨てません」
続いてノアが顔を上げた。自分の札の文字を読み、トーマと視線を合わせる。
「私はノア。誰かの代わりじゃない」
彼女は少し考えて、付け加えた。
「みんなと一緒に帰りたい。シェインに、帰りたい」
トーマは、一人では行かないと約束した朝を思い出した。自分たちが今日選んだことだ。
「俺はトーマ。忘却の剣じゃない。ゼロでもない」
彼は仲間たちを見渡した。
「皆とここにいる。皆と帰る」
全員が互いの名前を呼んだ。札は変わらない。それでも、誰と並んでいるのかは確かめられた。
ノアは足元に小さな帰星を浮かべ、石畳の縁を照らした。ロイドが同じ場所へ短い印を刻み、護衛兵がその形を声に出して伝え合う。霧の残光も膜を消せば薄れた。
「帰星でも、道を残せるとは限らないんだね」
「ええ。今の光だけに頼るべきではありません」
ロイドは頷き、記録板を閉じた。
「目で見たもの、紙へ書いたもの、互いに覚えていること。その三つが食い違えば、立ち止まって確かめましょう」
「じゃあ、ずっと名前を呼んでればいいな!」
ミアが胸を張る。
「喉が枯れます」
「必要なときだけでいいぞ!」
「それはお願いします」
一行は再び歩き始めた。声を掛け合うたびに道が戻ったわけではない。それでも、誰かが歩幅を間違えたり、返事をしなくなったりすれば、すぐ気づけるようになった。
──
霧の向こうに黒い壁が現れたのは、それからしばらくしてだった。
岩山かと思ったが、壁面には継ぎ目と古い文字があり、顔のない像が組み込まれていた。上端は霧に隠れ、塔の先端だけが奥から覗く。
「……あった」
ノアが呟く。トーマも同じ景色を夢に見た気がして、足を止めた。
壁の中央には巨大な門があった。閉じた二枚の扉は石畳と同じ黒で、その中央に円と星を重ねた紋様が刻まれている。門前には一体の影が立っていた。
今まで戦った模造体とは違う。長い外套を纏い、片手に杖、もう片方に薄い板を持っていた。顔はない。それでも板へ視線を落とし、杖を持ち替える動作には見覚えがあった。
「……私?」
ロイドの声が落ちた。影は眼鏡など掛けていないのに、指を顔の横へ上げ、眼鏡を押し上げるような仕草をした。
「ロイドの真似だ!」
レナが構える。ロイドはすぐに首を振った。
「私の癖だけではありません。杖の先を見てください」
星形の線が、影の足元から広がっていた。ロイドの記録術式に似ているが、外縁を固定する紋様はテリア女王が使う星膜とよく似ている。二つを重ねてひとつの式にしたようだった。
「どうして、その式を……」
ロイドの問いには答えず、影が杖を地面へついた。
胸元の認識札が一斉に浮き上がる。実際に首の紐が引かれているわけではない。札は胸に触れたままなのに、刻まれた文字だけが表面から剥がれ、薄い光となって影の板へ流れ始めていた。
「下がって!」
ロイドが叫ぶ。ユナは糸を張って札を守ろうとしたが、奪われているのが紐ではないと気づき、すぐに手を変えた。
「私が作った固定式を狙われています。各自、札を裏返してください。今は文字を見ないで!」
指示に従った者から光の流れが弱くなる。しかし影が杖を上げると、裏返した札からも文字が浮いた。術式そのものが影に読み取られている。
「自分の式なのに、止められないのか?」
トーマの問いに、ロイドの顔が強張った。
「止めようとしています。ですが、私が解除するより先に、向こうが形を書き換えるのです」
板の上へ文字が走った。
『記録鍵、照合。』
門の中心が低く鳴る。ロイドはその二文字を見た瞬間、呼吸を止めた。
「記録……鍵?」
知らない言葉のはずだった。なのに、手の中の記録板を開く指が勝手に次の術式を探している。何を書けばよいか、考えるより先に分かってしまいそうで怖かった。
影がもう一度杖を鳴らす。今度は護衛兵の一人が胸を押さえ、膝をついた。
「名前を言ってください!」
ロイドが叫ぶ。兵士は口を開けるが、声にならない。左腕を吊った、先ほどまで荷を運んでいた男だった。
「……何だ? 俺は……」
札から浮いた文字が影の板へ吸い込まれていく。兵士は仲間の顔を見るのに、自分が彼らとどういう関係だったのか思い出せないようだった。
ロイドは記録をめくった。入隊の年月、家族構成、治療の記録。情報は残っている。それでも彼の名を読み上げる前に、本人と目を合わせた。
「ディン。あなたはディンです。シェインの護衛兵で、左腕に古傷があります。昨日、負傷した仲間を運んでくれました」
「ディン……?」
「妹さんが一人いると、自分で話してくれましたね」
兵士の目に、わずかな光が戻った。
「……ああ。妹は、今、城下町で……」
「そうです。私たちは一緒に帰ります」
トーマが名前を呼ぶ。レナもミアも続いた。本人が「ディン」と繰り返すと、文字が札へ戻った。ただし理由は分からない。
ディンは札を握り締め、仲間へ頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
ロイドは短く頷き、影の板を睨む。
「私の記録を、勝手に使わないでください」
影が杖を持ち上げた。今度の光はロイド一人を狙っている。記録板の角から白い文字が抜け落ち、影の足元に星形の障壁が立ち上がった。
ソルが前へ出て剣を振るう。刃は障壁へ触れた瞬間に押し返され、手首へ鈍い衝撃が走った。二撃目も同じ位置で止められる。
「硬いな」
「テリア女王の固定式に似ています。でも、少し違う」
ロイドは星の線が光る順序を追った。何度も見たことがあるような感覚が込み上げる。右上の小さな継ぎ目。三度目の脈動。そこだけが、ほかの場所より僅かに遅れて閉じる。
「ソル、右上です。三度目の光で、そこを!」
「分かった」
障壁が一度光る。二度。三度目にソルが剣先を押し込むと、星形の外縁へ細い亀裂が走った。ソルは無理に斬り抜けず、一歩下がって影の動きを見る。
「なぜ分かった」
「……分かりません」
それは、トーマ自身も何度も口にした答えだった。
影の板へ新しい文字が浮かんだ。
『対象記録、未接続。』
『血統照合、不完全。』
『母体記録、不在。』
「母体……?」
ノアが呟く。ロイドの指が一瞬止まった。しかし、意味を問う余裕はなかった。影が手を伸ばし、残った文字を一度に吸い寄せようとしたからだ。
ロイドは自分の板を開いた。そこには昨日の戦闘、失った道標、守るべき負傷者、仲間と交わした言葉が残っている。都市が求める『記録鍵』というものが何であれ、今ここで目の前の仲間を失わせる理由にはならない。
「何の鍵と呼ばれようと、私には分かりません」
震える息を整え、記録板へ新しい一文を刻む。
「ですが、私がロイドであることは知っています」
『ロイド。シェイン王国ヴァルキリー。記録する者。今ここにいる仲間と共に進む者。』
「誰の娘でも、何の鍵でも、それを理由に私の名前を奪わせはしません」
トーマはロイドを呼んだ。ノアが続き、ミア、ユナ、レナ、ソル、護衛兵たちも次々と声を重ねる。ロイド自身はその声に頼るだけでなく、記録板の式を組み替え、奪われた札の文字を元の場所へ戻そうとした。
白い記録式が影の黒い線へぶつかる。敵の式は完全には崩れないが、先ほど割れた障壁の継ぎ目が開いた。ソルがそこへ踏み込み、杖を持つ腕を斬り払う。影は身を引こうとしたが、ユナの糸が足首を引き留めた。
「トーマ、今!」
彼は短棒で薄い板を突いた。表面に亀裂が走る。影の胸の中央が開き、黒い核の奥で赤い欠片が一瞬だけ光った。
最後の一打で板が砕けると、影は形を失って羽根にほどけた。赤い欠片が石畳へ落ち、ロイドが拾おうとする前に短い文字を浮かべる。
『第二鍵、不在。』
欠片は細かく砕け、風もない門前から消えた。
──
門が低い音を立てて動いた。開いた隙間は人が一人通れるほどで、その奥には光の届かない通路が続いていた。
「開いたぞ!」
レナが覗き込もうとして、ロイドに肩を掴まれた。
「まだ入らないでください。扉の仕組みも、向こうの足場も分かりません」
「でも通れる!」
「通れることと、安全なことは違います」
ソルが剣を構えた。闇の奥から小さな足音が聞こえたからだ。誰かがゆっくりと門へ近づいている。
現れたのは、黒い衣を纏った少女だった。長い黒髪、幼い顔立ち。光の下へ出てきた瞬間、トーマは思わずノアを見た。
同じ顔だった。
ただ、ノアの瞳にある温かさが、目の前の少女にはない。少女は門の影へ溶け込むように立ち、どこか懐かしそうにトーマを見つめた。
「……ノア?」
トーマの呟きに、隣のノアが首を振る。
「私じゃない。私、ここにいる」
黒い少女が小さく笑った。
「遅かったね」
声まで同じだった。ノアは息を呑み、一歩だけトーマに近づいた。
「あなたは誰?」
少女は答えない。トーマの方へ顔を向け、何度も呼んだことがあるように名を口にした。
「トーマ。帰ってきたんだね」
「俺はここに来た覚えはない」
「忘れたんだよ」
「何を?」
少女の笑みが消えた。門の内側から伸びた影が足元に集まる。
「まだ、足りない」
「何が足りないんだ」
少女はロイドを見た。
「記録」
遠く、城壁の向こうへ視線を動かす。
「境界」
次にノアへ。
「記憶」
最後にトーマを見つめる。
「剣」
「全部揃えばどうなる」
「始まる」
「何が?」
黒い少女は答えず、少しだけ首を傾けた。その輪郭が羽根にほどけ始める。
「あなたたちが、もう一度」
伸ばしたトーマの手が届く前に、少女は消えた。門の奥に残っていた影も薄れ、遠くの石畳がゆっくりと姿を現す。
ノアは震える手を握り締めた。
「……私、あんなこと言ってない」
「分かってる。俺もあの子をノアだって決めたわけじゃない」
「でも、声が同じだった」
「そうだな」
ノアは袖を掴んだ。夢の白い少女にも、黒い少女にも、まだ答えはない。
──
別の道では、テリア女王が同じ黒い門を前に立ち止まっていた。表面の星形の線は彼女の星膜とよく似ている。アリスが刻まれた文字を読む。
「第一鍵、帰還……?」
女王は顔を上げ、門へ伸ばしかけた手を引いた。
「触るでない。まだ何が起こるか分からぬ」
「でも、開けるための術式に見えますよ」
「開けられることと、開けてよいことは違うのじゃ」
そのとき、門の表面を赤い裂傷が走った。女王はその形を見て、喉の奥で名前を呼んだ。
「……セイレン」
アリスが振り向くより先に、亀裂は消えた。女王は自分の手を見つめ、なぜこんなに胸が痛むのかを言葉にできなかった。
──
南側ではベイル女王の前に、小柄な少女の影が立っていた。眠そうな目元と、剣を担ぐように傾いた肩。似ているのは姿だけだと分かっていても、女王の拳はすぐには動かなかった。
「お前ではない」
影が口を開く。
「母」
ガーネが盾を上げ、カノンが弓を引く。リンはチャクラムを手元へ戻したが、女王の背へ向けて幻惑の術をかけることはしなかった。今この瞬間の判断を、本人に委ねたかったからだ。
「我の娘の声を借りるな」
女王が一歩踏み込むと、影は後退せずに羽根へ崩れた。何も斬っていないのに、その場には誰かを失ったような沈黙だけが残った。
──
城壁の別の門では、セイレンが古い赤い傷を見上げていた。自分の術式と似ている。けれど、どうしてそれがここにあるのか分からない。
「私のものじゃない」
「似てる」
ルークは大剣の柄に手を置き、傷の向こうへ耳を澄ませた。
「中に誰かいる」
『第二鍵、帰還。』
門の奥で声がした。セイレンは旗を横へ構え、赤い線を足元に走らせる。
「私を鍵と呼ぶな」
「壊す?」
「必要ならね。でも、何を壊そうとしてるのかを確かめてからよ」
二人は入らず、奥の気配を待った。
──
トーマたちの前では、黒い門が開いたままだった。
中には夢で見た通りが続いている。黒い家々、水のない運河、顔のない像。遠くにはひときわ高い建物が見え、その頂上に人影のようなものが立っていた。
ノアが小さな帰星を浮かべると、門の上に刻まれた文字の表面が照らされた。黒い汚れの下から、古い字がひとつだけ読めるようになった。
『ア』
「都市の名前でしょうか」
ロイドが呟く。ほかの文字はまだ読めず、壁を削ることもできない。トーマは夢の中で少女に止められたときの感触を思い出した。
そのとき、耳の奥で声がした。
『おかえり。』
ノアも何かを聞いたのか、胸へ手を当てていた。しかし彼女はそれを言葉にできず、ただ門の奥を見つめている。
「……行こう」
トーマが言うと、ロイドが頷く前に、ソルが周囲を確かめた。負傷者を中央へ寄せ、扉が急に動いたときの逃げ道を取る。ユナは糸を結び直し、レナは一度足を止めて皆が揃ったことを確認した。
最後にトーマがノアへ手を差し出す。
「置いていかない」
「うん。私も一緒に行く」
二人は手を繋いで、門の内側へ足を踏み入れた。