第五十七話 暮らしの消えた街
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あらすじ
遺した記録、貴方の記憶、その手で全て解き明かして。
本文
黒い門が閉じ始めたのは、最後尾の兵が通路へ入った直後だった。
背後で石が擦れる重い音がして、レナが振り返る。二枚の扉が左右から迫っていた。門の外の石畳が、狭まる隙間に見える。
「待て!」
レナが走った。隙間へ腕を伸ばす直前、ソルが叫んだ。
「レナ、止まれ!」
踵が石畳を強く擦り、レナの身体が門の手前で止まった。次の瞬間、二枚の扉が噛み合い、通り全体を震わせる音が響いた。指二本ほどの差で、手が挟まれるのを免れた。
「危なかったな!」
レナは自分の手を見て笑ったが、ロイドは眼鏡を押し上げた。
「笑うところではありません」
「でも、止まれたぞ!」
「それは評価します。ですが次は、私の指示を待ってください」
「分かった!」
レナが門を押しても動かない。ソルが全員を離れさせて剣を当てると、硬い石を斬ったはずなのに、刃が何にも触れなかったように空を滑った。門には傷一つない。
「硬いのではない。斬った感触がない」
「対象が刃の前から外されたのでしょうか」
ロイドが記録板を開く間に、ユナは青い糸を門の表面へ伸ばした。糸は最初こそ石へ張りついたが、引き戻すと抵抗を失って反対側へ抜けた。接触が一定しない。
ロイドは確認できた事実を書き留めた。しかし『外門閉鎖。接触反応は不安定』と記した文字のうち、後半だけが見る間に薄れ、紙から消えていった。書き直しても消えた。
「外へ出る記録を消すのか」
トーマの呟きに、ロイドは筆を止めた。
「そう見えます。ただ、門が記録を消しているのか、この区画全体の影響なのかまでは分かりません」
ノアは掌に小さな守りの膜を浮かべ、門へ近づけた。青白い光に照らされた石の一部が透けたように見え、その奥に白い霧が揺れた。道はあったはずなのに、先ほど置いた目印も、帰っていく仲間の足跡も見えない。ノアの指が震えた。
「見つからない」
「何が?」
「外。この向こうにあるはずなのに、帰る場所として感じられないの」
トーマは彼女の手を取り、膜を消すのを待った。そこに出口がないとは限らない。
「なら、別の出口を探そう」
「ある?」
「なかったら作る。皆と帰るって約束しただろ」
ソルが剣を鞘へ収めた。
「それでいい」
ロイドは記録を複写し、護衛兵に目印を任せた。
「目的に帰還経路の確保を追加します。忘却の剣と黒い人物の調査も続けますが、探索範囲は慎重に広げましょう。負傷者の移動速度に合わせます」
「全部やれば帰れるな!」
「簡単にまとめましたね」
「分かりやすい方がいい!」
ロイドは否定せず、隊列を整え直した。
──
門の内側には、馬車が並んですれ違えるほど広い大通りが続いていた。
家や宿、工房が並び、窓の間には色褪せた布が掛かっていた。屋根も戸も残り、焼け跡も散乱した荷物もなかった。それなのに人の姿だけがなく、建物の奥から食器の触れ合う音ひとつ聞こえない。
風も入ってこなかった。旗は垂れたままで、噴水も黙っている。ミアが小さく喋ると、声は十歩ほど先で急に弱くなり、静けさが戻った。
「静かだな」
「大声を出してみるか?」
レナの提案にロイドが即答する。
「やめてください。何かを呼ぶ可能性があります」
「影なら、さっきいっぱい来たぞ」
「もっと来るかもしれません」
「……やめとく」
ユナは建物の入口と路地へ糸を伸ばしたが、すべての家を調べるほど広げようとはしなかった。見えないものに触れる危険を避けるためだ。ソルが先頭を守り、ミアとレナは負傷者の歩調に合わせて中央を歩いた。
「誰かいる?」
トーマの問いに、ユナは二階の暗い窓へ視線を向けた。
「空っぽに感じる。でも、見られてる」
皆が窓を見上げた。人の目はなかった。けれど、誰もいないはずの窓が一斉にこちらを向いているように感じられた。
「目を合わせるな」
ソルが言う。
「目があるのか?」
「なくてもだ」
トーマは視線を戻した。模造体は仲間の戦技を知っていた。この街にも何が潜むか分からない。彼は短棒を握り直し、通りの左右を交互に確かめながら進んだ。
最初に異変を見つけたのはミアだった。道端に落ちた小さな木製の玩具を指し、しゃがみ込む。動物の形をした木片に車輪と紐がついている。片耳が欠け、胴に赤い線が残っている。
「これ、誰かが遊んでたんだよな」
「触らないでください」
ミアは手を引っ込めた。ロイドは布越しに玩具を持ち上げ、記録術式を近づける。危険な魔力反応は見つからず、車輪も普通の木でできていた。軸はまだ滑らかに動いた。
「普通の玩具に見えます」
「じゃあ、触っていい?」
「普通に見えることと、安全であることは別です」
ロイドが車輪を指先で回した。
きい、と短い音が鳴る。
その直後、通りの先から子どもの笑い声が聞こえた。
全員が足を止める。レナが前を見張り、ソルは背後を確かめた。声は建物の陰から続いていたが、誰もいない。次はミアの背後で笑い声がした。
「今、私の後ろに……」
ユナの糸が空中で不自然に曲がった。まるで見えない何かの肩を避けるように、一本だけが弧を描いている。
「いる」
「影か?」
「分からない。硬くないし、動いてもない」
ロイドが術式を向けると、記録板へ『対象一。形状、人間』と浮かんだ。続けて年齢と名前の欄が現れたが、そこだけ何度試しても空白になった。
「人の形は確認できます。ですが、私たちには姿が見えません」
ミアは玩具を見つめた。一人で残されたのだろうか。見えないものの前で膝を折り、声を落とす。
「そこにいるのか?」
ロイドが手を伸ばして止めようとした瞬間、ミアの指先が僅かに持ち上がった。小さな手に触れられたような、柔らかい感触だった。
「ミア!」
ユナの声が聞こえたとき、目の前の景色が変わった。
──
市場に色鮮やかな布が揺れ、パンの匂いが漂う。道には行商人の荷車が並び、噴水の水しぶきを避けて子どもたちが走っている。先ほどまで黒く沈んでいた家々には白や淡い青の壁があり、窓辺には花が置かれていた。
ミアは驚いて自分の足元を見た。石畳の形は同じだ。なのに、隣の家から聞こえる笑い声まで生き生きとしている。街そのものが別の時間へ移ったようだった。
「何だ、これ……」
呼びかけても返事はない。人々は肩が触れそうになっても気づかない。顔だけがうまく見えず、振り返るたびに輪郭がぼやけてしまう。
少女が、車輪のついた玩具を引いていた。赤く塗られた耳が片方欠けている。先ほどのものと同じだった。
「待って!」
ミアは追いかけた。少女は路地を曲がり、噴水の横を抜けていく。足は小さいのに、どうしても距離が縮まらない。追うほどに人混みが遠ざかり、道の端にあったはずの仲間たちの気配も失われていった。
少女が振り返った。顔は見えない。それでも、笑っていることだけはなぜか分かった。
「一緒に行こう」
声は幼く、どこにでもいる子どものものだった。
「走れる子は、みんな一緒」
ミアの足が止まる。そこに怖い言葉はなかったはずなのに、胸の奥に昔の痛みがよみがえった。走れず、仲間の前へ出られない自分など必要とされないと恐れた日がある。
「こっちに来れば、ずっと走っていられるよ」
少女が手を差し出す。明るい街がその先にある。走れれば誰にも置いていかれない。ミアは一歩進んでしまった。
足首に青い糸が触れた。
「ミア!」
ユナの声が遠くで響く。続いてトーマが呼び、レナの大きな声も聞こえた。目の前の少女は不思議そうに首を傾げた。
「止まったら置いていかれるよ」
ミアは自分の胸元の札を握った。刻んだ理由は覚えていた。
『走れない日でもミアはミア。』
「違う」
「何が?」
「止まっても、ユナが引いてくれる」
ミアは糸を掴んだ。その張りは、一人で走らせまいとしたユナの手を思わせた。
「トーマもいる。レナも待ってる。ソルも、ロイドも、ノアも」
少女の向こうの街が揺らぐ。ミアはもう走らなかった。引かれた糸へ向かい、一歩ずつ歩いて戻る。
「私が走れなくても、私はミアだ!」
青い糸を強く握った瞬間、パンの匂いが遠のいた。
──
「戻った!」
目を開くと、レナが目の前にいた。ユナは膝をつき、ミアの手を両手で包んでいる。トーマとノアもすぐそばにいた。
「どこ行ってたんだ!」
「ここにいたぞ!」
「でも、いなかった!」
レナの言葉に、ミアは返すことができなかった。身体は確かにこの場所にあったらしい。けれどユナが名前を呼んでも返事をせず、目は何もない通りの先へ向けられたままだったという。
「糸を引いたら、普通じゃないくらい遠くまで伸びた気がした」
ユナが説明した。指先には細かな擦り傷が残っている。ミアはその手を見つめ、小さく謝った。
「ごめん。心配させた」
「戻ったからいい。でも、次は先に言って」
「触る前に?」
「そう」
ミアに外傷はなかった。明るい街が過去の記憶か幻かは分からなかった。
「この子がいたんだ」
ミアは木の玩具を見た。そこにはもう笑い声も気配もない。
「名前は?」
「分からない。でも、いた。ここにいた子だ」
ロイドが布を緩めると、玩具の車輪の横に小さな文字が浮かびかけた。『リ』と読めるようにも見えたが、次の瞬間には木目へ紛れて消えてしまった。
「今の、見たか?」
「ええ。ただし名前とは限りません。玩具の印かもしれませんから、そのまま記録します」
ミアは頷いた。あの子が街を走っていたことを覚えていたかった。
「持っていっていいか?」
ロイドはしばらく考え、薄い記録袋を取り出した。
「袋に入れて、私の記録と照合できるようにしてください。異常を感じたらすぐ知らせること」
「私が持つ」
「離さない?」
「うん」
ミアは玩具を大切に包んだ。ユナがその袋の口を結んでくれた。待ってくれる人がいる。それを忘れたくなかった。
──
一行は街の中心へ進んだ。まず通り沿いの三軒を選び、全員で入口と室内を確認した。許可なく品物に触れないよう決めた。
最初のパン屋には空の籠が並び、石窯の扉が半ば開いていた。熱は残っていない。それでも医療術師の一人が「焼きたての匂いがした」と言い、すぐに顔色を変えた。ほかの者には何も匂わない。窯へ近づかせず、その場所だけ記録した。
隣の宿屋には客室の鍵が行儀よく並び、帳簿が開かれていた。名を書く欄はすべて空白だったが、最後の頁の端に一文だけ残っている。
『また明日。』
「帰ってこなかったんだな」
レナが呟く。誰に向けた言葉だったのか分からない。宿の主人か旅人か。誰かが、明日もここへ来るつもりだった。
工房には作りかけの剣と冷えた炉があり、その横の壁には小さな手形が残っていた。細い指の跡へミアが近づきかけると、ユナが肩を軽く押さえた。ミアは頷き、今度は触れずに目で確かめた。
「誰かが、ここで暮らしてたんだ」
「ええ。ただ、いつ、どのように人がいなくなったのかは不明です」
ロイドは崩れた建物が少ないことを確認し、記録帳を閉じた。戦争で街が滅びたと断じる根拠も、住民が逃げたと決める根拠もない。遺体や荷物が見つからないことも、説明しきれなかった。
ノアは食卓に並んだ二つの杯を見つめていた。片方には小さな欠けがあり、その向かいに置かれた椅子は少し引かれている。食事の途中で席を立った人が、すぐ戻るつもりだったのかもしれない。
「こんなの、怖い」
トーマが隣へ立つと、ノアは自分の腕を抱いた。
「私も、こうなるのかな」
「ならない」
言い終えてから、トーマは自分の返事があまりに早かったことに気づいた。ノアも顔を上げる。
「どうして分かるの?」
「……分からない」
「また?」
「でも、させない。俺一人じゃ足りなくても、皆がいる」
トーマは手首の糸へ目を落とした。
「俺も、皆も、ノアを覚えてる」
ノアは手を取り、頷いた。
「私も覚える」
「何を?」
「トーマを」
ノアの掌に小さな帰星が浮かんだ。膜は二人の間を柔らかく照らしただけで、空白の帳簿を埋めることも、失われた人々を呼び戻すこともなかった。けれど光を消そうとしたとき、通りの端にある家の壁へ青白い反射が走った。
「あそこ……」
ほかの建物と違い、窓枠にはかすかに青い色が残っていた。白い石の壁には小さな星が二つ、子どもの手で描かれたように並んでいる。
ノアは一歩近づいて立ち止まった。何かを知っている気がしたが、その理由を問われても答えられない。ソルが入口と窓を確認し、ロイドの許可を得てから、一行は家へ入った。
室内には低い卓と椅子があり、壁際に小さな食器棚があった。豪華な調度はない。台所には二つの子ども用の器が重ねられ、外の空気よりも僅かに温かいような気がした。誰かがここを大切に使っていたことが、使い込まれた木の角から伝わってくる。
「見て」
ノアが玄関脇の柱を指した。炭で引かれた細い線が二列並び、年を追うように少しずつ上へ伸びている。誰かが子どもの背丈を測った跡だった。
トーマは低い方の線へ指を近づけたが、触れずに止めた。二列の高さが僅かに違うことだけで、なぜこんなにも胸が苦しくなるのか分からない。
「二人分……」
ノアの指が、線の横に残る薄い炭の汚れへ触れた。
──
「動かないで!」
明るい部屋に少女の声が響く。白い服の裾が揺れ、炭を持った少女が壁の前に立つ少年へ小さな板を当てていた。
「もういいだろ」
「駄目。曲がってる」
少年は不満そうに口を尖らせた。少女が板を直して線を引くと、満足そうに笑う。
「去年より伸びた」
「少しだけ」
「私も」
二人が場所を入れ替える。少年が炭を持ち、少女は柱へ背をつけた。
「動くなよ」
「動かない」
「今動いた」
「動いてない」
「動いた」
「トーマが下手なだけ」
少年は笑い、線を引いた。少女の方がほんの少し低い。
「来年は追いつく」
「無理だろ」
「追いつく」
「じゃあ再来年」
「来年!」
「分かった、分かった」
笑い声の向こうで食器が触れ合った。台所に長い髪の女性が現れる。顔だけは光の向こうで見えない。白い衣の袖を捲り、穏やかに呼んだ。
「食事が冷めるわよ」
少年と少女が同時に振り返る。
「アリア!」
その名が響いた瞬間、部屋が暗く沈んだ。
──
「ノア!」
トーマに抱き留められ、ノアは現実の床へ膝をついた。息が乱れ、目から涙がこぼれている。窓の青い色も、二列の傷も元のままだった。
「何を見た?」
「私たち……ここにいた」
「俺たち?」
ノアは頷いた。それが過去なのか幻なのか、分からない。少女が少年を見つめていたときの温かさだけが、胸の奥に残っていた。
「その子、トーマの名前を呼んだの。私の声に似てて……私だった気がする」
ロイドが筆を取る。
「ほかに誰かいましたか」
「うん。ご飯を作ってた人。私たちを呼んで……」
名前を口にしようとした瞬間、棚の下から黒い染みが滲み出た。壁の継ぎ目が裂け、何本もの細い腕がノアへ伸びる。ソルが剣で払い、レナがノアを抱えて戸口へ下がった。
「全員、外へ!」
ミアが負傷者を導き、ユナは糸で棚が倒れるのを防いだ。黒い腕は追ってこず、ノアが言葉を続けようとするたびに喉の高さへ集まる。
「名前を言わせたくないのか」
トーマは短棒を構え、ノアの前へ立った。確信はない。それでも、あの名を口にしようとして初めて異変が起きた。
「言って」
「でも、また……」
「俺たちが覚える。ロイドも記録してくれる」
「はい。聞きます」
ロイドは記録板を開いた。ソルが戸口に立ち、レナは左右の窓を警戒している。ノアは震える息を整え、目を閉じた。炭で汚れた小さな手、笑い声、湯気の立つ食卓。そして二人を呼んだ声。
「アリア!」
家が低く震えた。伸びていた腕が止まり、炭の線を覆っていた黒い染みが引いていく。ロイドは名前を記した。今度は文字が消えなかった。
「アリア」
トーマが繰り返した。ミアも、ユナも、レナも、ソルも、無理に意味を決めず、その名を覚えた。小さな家を覆っていた闇が少しだけ薄れ、扉の上に古い文字が浮かんだ。
ロイドが声に出して読む。
「『王家保護居住区』……その下に、保護対象としてトーマ、ノア。管理責任者……アリア、とあります」
「この人が、私たちを知ってる」
ノアは涙を拭った。名前だけでは正体は分からない。それでも、ここに暮らした二人へ食事を用意してくれた誰かの声を、忘れたくなかった。
──
街の中央で鐘が鳴った。
一度、二度、三度。建物の扉がひとりでに開き、窓の奥から淡い人影が現れ始める。影たちは黒くない。透き通った輪郭だけを持ち、性別も年齢も見分けられないまま、通りに静かに並んだ。
レナが拳を構えたが、人影に敵意はなく、ソルは刃を下ろした。彼らはトーマとノアを見つめ、一人、また一人と膝をついた。通りの先まで、透明な人々が頭を下げていく。
「何で……」
ノアが呟く。トーマにも分からなかった。知らない国の人々に、帰ってきた者として迎えられる理由などないはずだった。
中央にそびえる高い建物の屋上で、黒い外套の人物が動いた。手には忘却の剣がある。ゆっくり頭巾へ手をかけたとき、遠くから女性の声が届いた。
「おかえりなさい」
ノアが息を呑む。さっき食卓の向こうで聞いた声だった。トーマの胸にも、誰かに迎えられた日の温かさが、理由もなく込み上げた。
外套が外れかけた、そのときだった。
都市の屋根を覆う影が一斉に膨らみ、空へ広がった。透明な人々の輪郭が苦しげに揺れ、建物が軋む。ノアは手を伸ばしかけ、トーマがその肩を支えた。
黒い雲の奥で、巨大な目が開いた。
それは通りにいる誰でもなく、ノアだけを見つめていた。