第2話『忘れ去られた帰郷』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昭和三十三年、朽葉村。 民俗学者の与一は、祖父の四十九日に故郷へ戻った。祖父の遺品の中に、一冊の手記があった。最後の一行だけ、字が違った。 村では三日前、寡婦の小夜が死んでいた。暴力を受け続けた十年の末に。村は知っていた。誰も言わなかった。 山の方から、夜ごと音が来る。 祓い女の清子は言う。「怒りは溜まる。溜まり続けたら、かたちを持つ」 与一は夜の山へ単独で踏み込んだ。赤い目が三つ、闇の奥にあった。それは獣ではなかった。黙らされ、蚊帳の外に置かれ、誰にも届かなかった怒りが、形を持ったものだった。 祖父が黙ったものを、与一は書いた。 令和。ことのは大学の資料室で、その手記は眠っていた。
本文
朽葉村に入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
バスを降りた与一に、出迎えはなかった。
当たり前のことだと思っていた。祖父が死んで四十九日。遺品の整理のために戻ってきた、それだけの話だ。村と与一の間には、「帰る」と「戻る」の区別が、最初からなかった。生まれた場所だが、自分の場所ではなかった。そういう育ち方をした。
村の入口に差し掛かった時、向こうから女が来た。
背に風呂敷包み、腰の高さに薄い木箱。歩き方が、荷を運ぶための歩き方だった。与一と目が合った。女の方が先に視線を外した。挨拶はなかった。
村の人間ではない、と与一は思った。顔を知らないということもあったが、それよりも、冷たさの種類が違った。村の人間が与一に向ける冷たさは、「いてもいなくても同じ」という無関心だった。この女の冷たさは、もう少し能動的な何かだった。
与一が祖父の家に着いた時、玄関の引き戸の隙間に、白い札が一枚、貼られていた。
朝に貼られたばかりの、新しい紙だった。
家の中は、誰かが片付けた後だった。
祖父の布団は上げられ、仏壇の線香立てには新しい灰がある。茶碗が洗われ、台所の三和土に水の跡が残っている。誰が入ったのか、与一には分からなかった。村の誰かが鍵を持っていたのか、それとも最初から鍵などかかっていなかったのか。
訊ける相手がいなかった。
荷を置いて、与一は祖父の文机に向かった。引き出しを開けると、書類の束の下に、ノートが一冊あった。表紙に書名はなく、右下に万年筆で日付と名前だけ書いてある。祖父の字だった。
開こうとした時、外で音がした。
軒先に何かが当たるような音ではなかった。もっと低い音だった。地面の下から来るような、あるいは山の方から来るような、方角を決める前に消える音だった。
与一はノートを閉じた。
開けてはいけない気がした、というより、今ここで開けることが正しい順番ではない気がした。理由は言葉にならなかった。ただ、その感覚だけが、はっきりとそこにあった。
ノートを文机の上に置いたまま、与一は外へ出た。
空は曇っていた。山の稜線が、ぼんやりと霞んでいる。
玄関の白い札が、風もないのに、端だけ少し揺れていた。
女は隣家の縁側にいた。
風呂敷を解いて、木箱を開いて、中の札を一枚ずつ確認している。作業の手は止めなかった。与一が近づいても、顔を上げなかった。
「……さっきの人か」
与一が言うと、女はようやく手を止めた。
「清子や」と言った。名乗りというより、確認に近い言い方だった。「お前が孫か」
「与一です」
「知っとる」
清子は木箱の蓋を閉めた。祓い女というものを与一は本で読んだことしかなかったが、目の前の女はその字面よりずっと実務的に見えた。疲れているのか、あるいは疲れを顔に出さない習慣があるのか、判断できなかった。
「玄関に貼ったのは、あなたですか」
「うちやない。依頼を受けたのは昨日や。もとから貼ってあった」
「誰が?」
清子は答えなかった。視線が、与一の手元に移った。いつの間にか、与一はノートを持ち出していた。祖父の家を出た時には持っていなかったはずだが、気づいたら手にあった。
清子の目が、少しだけ変わった。
「それ、見せてくれ」
与一が差し出すと、清子はノートの表紙だけ見て、中を開かなかった。指先で表紙の端を押さえて、何かを確かめるような間があった。
「開かんのか」と与一は言った。
「開けん、や」清子はノートを返した。「今はまだ、そういうもんやない」
「どういう意味ですか」
「お前が決めることやない、という意味や」
清子は木箱を抱えて立ち上がった。仕事に戻る、という体だった。
「祓いの依頼は誰から来たんですか」と与一は聞いた。
清子は振り返らなかった。
「村から来た。それだけや」
お葉の家は、村の一番奥にあった。
道が細くなり、石畳が途切れ、踏み固められた土だけになる、その先だ。樹が近い。昼なのに光が届きにくく、空気の質が少し変わる。与一は子供の頃、この辺りまで来たことがあったかどうか、思い出せなかった。
縁側に老婆が座っていた。
与一の顔を見ても、立ち上がらなかった。驚きもしなかった。まるで今日ここへ来ることを知っていたような、あるいは誰が来ても同じ顔をするような、そういう静かさだった。
「孫やな」とお葉は言った。挨拶ではなかった。
「与一といいます」
「知っとる」
清子と同じ言葉だった。与一はここへ来るまで、自分が村の人間に名前を知られているとは思っていなかった。
お葉の視線が、与一の手のノートに止まった。
「……これはお前の祖父さんの字やな」
老婆の声が、少しだけ変わった。低くなったのではない。密度が上がった、と与一は思った。
「あの人も、見てしもたんや」
「何を見たんですか」
お葉は答えなかった。視線をノートから外して、山の方を向いた。
「小夜のことは知っとるか」
与一は首を振った。
「三日前に死んだ。夫に殴られて、十年、それが続いて」お葉の声に感情はなかった。事実を積み上げるような言い方だった。「村は知っとった。誰も言わんかっただけや」
風が来た。木々が鳴った。
「怒りは溜まる」とお葉は言った。「溜まり続けたら、かたちを持つ」
与一はノートを胸に抱えた。何かに引き寄せられるような感覚があった。それを引き寄せる、と呼ぶのが正しいのかどうか分からなかったが、他の言葉が出てこなかった。
「あれはどこにいるんですか」
「夜になれば、分かる」
お葉はそれだけ言って、目を閉じた。
話は終わりだった。
夕方、井戸端に人が集まっていた。
与一が通りかかると、声が低くなった。止まりはしなかった。ただ、与一の方を向かなくなった。
断片だけが耳に入った。
三日前の夜のこと。山の方から来た音のこと。夫が翌朝、半狂乱で村に走り込んできたこと。小夜の体には、一箇所も傷がなかったこと。
怖いという声の中に、当然やという声が混じっていた。
与一には、どちらの声も、同じように聞こえた。
夜になって、与一は祖父の家に戻った。文机の上にノートがある。行灯の光の中で、表紙の字がうっすら浮いて見えた。
祖父は何を見たのか。
見て、どうしたのか。
与一はノートを手に取った。今度は開けるつもりだった。開けなければいけない気がした。だが、指が表紙の上で止まった。
外から、音が来た。
昼間と同じ音だった。低く、方角のない音だった。今度は、少しだけ長く続いた。
戸を叩く音がした。
開けると清子が立っていた。昼間と同じ顔だった。
「一人でいくな」と清子は言った。「夜に山へ入ることを考えとるやろ」
与一は否定しなかった。
「なんで分かるんですか」
「そういう顔をしとる」清子は土間に上がった。許可を取る気はなかった。「書いた人間の孫が来て、ノートを持って、お葉さんに会いに行った。次にすることは一つしかない」
「行くなということですか」
「今夜は行くな、と言っとる」
清子は文机の前に座った。ノートを見た。手は触れなかった。
「一つだけ聞いてええか」与一は言った。「あなたは、あれが怒りだと知っとるんですか」
清子は少し間を置いた。
「知っとる」
「怖くないんですか」
今度の間は、もう少し長かった。
「怖い。けど、怖いのと、やらなあかんのは別の話や」
与一には返す言葉がなかった。怖いのか、やらなければならないのか、自分がどちらの側にいるのか、その夜はまだ分からなかった。
清子は縁側の方を向いたまま、静かに言った。
「書くんはええけど、軽う扱いなや。あれは本物の怒りや」