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第3話『赤い目と蚊帳の外』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/3/26 📚 シリーズ: 怒りを喰らう獣 📝 3,137文字 ✅ 全年齢

あらすじ

昭和三十三年、朽葉村。 民俗学者の与一は、祖父の四十九日に故郷へ戻った。祖父の遺品の中に、一冊の手記があった。最後の一行だけ、字が違った。 村では三日前、寡婦の小夜が死んでいた。暴力を受け続けた十年の末に。村は知っていた。誰も言わなかった。 山の方から、夜ごと音が来る。 祓い女の清子は言う。「怒りは溜まる。溜まり続けたら、かたちを持つ」 与一は夜の山へ単独で踏み込んだ。赤い目が三つ、闇の奥にあった。それは獣ではなかった。黙らされ、蚊帳の外に置かれ、誰にも届かなかった怒りが、形を持ったものだった。 祖父が黙ったものを、与一は書いた。 令和。ことのは大学の資料室で、その手記は眠っていた。

本文

 翌朝、与一はノートを開いた。

 祖父の字は細かく、几帳面だった。感情を削り落とした後の骨格だけを残すような書き方で、出来事が並んでいた。日付、場所、天候、聞いた言葉、見たもの。記録者の手つきだった。

 読み進めると、ある頁で文章が途切れた。

 途中ではなかった。文章としては完結していた。だが、その先に白紙が続いていた。書こうとして書けなかったのか、書いてから消したのか、最初から書くつもりがなかったのか、判断できなかった。

 最後の一行だけが、他と少し字が違った。力が入りすぎているような、あるいは力が抜けすぎているような、どちらにも見える字だった。

「見た。書いた。だが、これは誰にも見せてはならん。見せることが、また怒りを呼ぶ気がしてならんのや。」

 与一はノートを閉じた。

 閉じてから気づいた。祖父はこれを隠さなかった。引き出しの中に、書類の束の下に、あった。隠すつもりなら、もっと深く隠せた。見せてはならない、と書いて、見つけられる場所に置いた。

 その矛盾の意味を、与一はまだ解けなかった。

 清子が帰ったのは、夜の九時頃だった。

 与一は行灯を消して、暗い中で一時間ほど待った。山の方から音は来なかった。虫の声だけがあった。それが途切れた瞬間に、与一は立ち上がった。

 理由は説明できなかった。虫の声が止んだことと、動くべきだという判断の間に、論理はなかった。体が先に動いた。

 戸を開けると、夜気が来た。

 山の方向へ歩き始めて、五十歩ほどで分かった。

 血の匂いだった。

 傷の血ではなく、古い血の匂いだった。土に染み込んで長く経ったもの、あるいは時間そのものが腐ったものが持つような匂いだった。与一は立ち止まった。引き返すべきかどうか考えた。

 考えている間に、足が動いた。

 匂いの方へ、ではなかった。匂いの中へ、だった。その区別を、与一はその時初めて知った。向かうのではなく、既にその中にいる。そういう感覚だった。

 木々が近くなった。空が消えた。

 与一は山の中にいた。

 赤い目が、三つあった。

 暗い中で、それだけが見えた。地面に近い位置に一つ、その上に一つ、また少し上に一つ。等間隔ではなかった。生き物の目の配置ではなかった。だが、目だった。見ていた。

 与一は動けなかった。

 口の中が砂になっていた。耳の奥で、山鳴りか血鳴りか判別できない音が低く続いていた。

 恐怖ではなかった、と後になって思う。正確に言うと、恐怖の前段階のようなものだった。これが何であるかを判断するより先に、体が判断を停止した。

 その時、与一の中で何かが裂けた。

 映像ではなかった。感触だった。

 蚊帳の外、という感触だった。

 幼い頃、大人たちが何かを決める時、与一はいつも輪の外にいた。座敷の端、廊下の角、障子の向こう。聞こえてくる声の意味は分かった。だが、参加を許されなかった。何かが起きている、誰かが泣いている、誰かが怒っている、それを与一はいつも輪の外から観測した。

 祖父も、そうだった。

 見ていた。記録していた。輪の外から。

 与一は今、山の中で、同じ場所に立っていた。

 赤い目が近づいた。

 音がなかった。地面を踏む音も、草を掻き分ける音も、息の音も。ただ、三つの赤い光が、間合いを詰めてきた。

 与一は気づいた。

 これは怒りだ。

 形容ではなかった。認識だった。目の前にあるものが怒りそのものであるという確信が、説明の余地なく、体の中心に届いた。

 誰かの怒りだ。積み重なったものだ。黙らされて、蚊帳の外に置かれて、正しくやっているのに汚れ扱いされて、暴力に晒され続けて、それでも誰にも届かなかった怒りが、形を持った。

 小夜の怒りだけではない、と与一は思った。

 お葉の怒りも、清子の怒りも、祖父が見た誰かの怒りも、ここにある。

 溜まり続けたものが、かたちを持った。

 赤い目が、与一の目の前まで来た。

 与一は、逃げなかった。

 逃げなかったのは勇気ではなかった。足が動かなかった。だが、それとは別に、逃げてはいけないという感覚もあった。これを見た人間が記録する義務がある、という感覚だった。祖父が残した矛盾の意味が、その瞬間だけ、少しだけ近づいた気がした。

 何かが来た。

 火が散った。

 与一の横から、清子が札を打ち込んだ。一枚ではなかった。三枚、続けて。間隔が均等だった。手慣れていた。体で覚えている動きだった。

 赤い目が退いた。

 消えたのではなかった。距離が開いた。暗い中で、三つの光が止まっていた。

「歩ける?」

 清子の声は平坦だった。動揺が見えなかった。与一は頷いた。足が動いた。清子が与一の腕を引いて、木々の間を戻り始めた。

 来た道を戻りながら、清子は前を向いたまま言った。

「なんで来た」

 与一は答えられなかった。

「止めたやろ」

「止めてもらいました」

「けど来た」

「……はい」

 清子は足を止めなかった。腕を引く力も変わらなかった。怒っているのか呆れているのか、判断できなかった。ただ、引っ張る手が離れなかった。

「見えたか」と清子は言った。

「見えました」

「分かったか」

 与一は少し間を置いた。

「怒りだと分かりました」

 清子は何も言わなかった。

 山を出ると、村の灯りが見えた。夜気が変わった。血の匂いが薄くなった。与一は初めて、自分の手が震えていることに気づいた。

 祖父の家の縁側に、二人で並んで座った。

 清子は木箱を膝の上に置いたまま、山の方を向いていた。与一はしばらく手の震えを黙って見ていた。

「怒りをあそこまで育てたのは誰ですか」と与一は言った。

「村や」

 清子の答えは早かった。

「小夜さんが暴力を受けていることを、村は知っとった。知っていて、誰も言わんかった。言わないことを、十年続けた」

「祖父も知っていたんですか」

「知っとったんやろな」清子は目を閉じた。「あの人のノートに何が書いてあるか知らん。けど、あの人も村にいた人間や」

 与一は膝の上のノートを見た。

「知っとったんや、村は」清子は続けた。「お前だけが知らんかっただけや」

 その言葉が、与一の中のどこかに正確に刺さった。

 蚊帳の外、という感触が戻ってきた。

 村が知っていた。祖父も知っていた。清子も、お葉も、何かを知っていた。与一だけが、何も知らないまま戻ってきた。祖父の死に際にも、間に合わなかった。何かが起きるたびに、与一はいつも、その外側にいた。

 それが孤独なのか、それとも与一自身の怒りなのか、与一にはまだ分からなかった。

「あなたは」と与一は言った。「どこに怒りがあるんですか」

 清子は長い間、答えなかった。

 やがて清子は立ち上がった。

「書くつもりやろ」

 与一は頷かなかった。頷けなかった。だが、清子には分かったらしかった。

「書くな」と清子は言った。

 初めて、強い言い方だった。

「今夜見たことを書いたら、お前の中に残る。残ったものが、また引き寄せる。書き残すということは、そういうことや」

「祖父は書きました」

「書いて、苦しんだんやろ」

 与一は何も言えなかった。

「儀式は明日の夜や」清子は木箱を抱えた。「それまで、書くな。触るな。考えるな」

 清子が帰った後、与一は文机の前に座った。

 紙を出した。墨を摺った。筆を持った。

 書けなかった。

 怖いから書けないのではなかった。書く言葉が出てこなかった。今夜見たものを言葉にしようとすると、言葉が先に逃げた。三つの赤い目、血の匂い、逃げなかった自分、清子の手、震えた指。それぞれは確かにあった。だが、それを並べても、あの山の中にいた感触が戻ってこなかった。

 与一は筆を置いた。

 ペンが紙に触れた跡は、なかった。

 与一の怒りが、どこにあるのか、その夜ははっきりと分かった。

 書けない自分への、怒りだった。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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