第4話『怒りを喰わせる夜』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昭和三十三年、朽葉村。 民俗学者の与一は、祖父の四十九日に故郷へ戻った。祖父の遺品の中に、一冊の手記があった。最後の一行だけ、字が違った。 村では三日前、寡婦の小夜が死んでいた。暴力を受け続けた十年の末に。村は知っていた。誰も言わなかった。 山の方から、夜ごと音が来る。 祓い女の清子は言う。「怒りは溜まる。溜まり続けたら、かたちを持つ」 与一は夜の山へ単独で踏み込んだ。赤い目が三つ、闇の奥にあった。それは獣ではなかった。黙らされ、蚊帳の外に置かれ、誰にも届かなかった怒りが、形を持ったものだった。 祖父が黙ったものを、与一は書いた。 令和。ことのは大学の資料室で、その手記は眠っていた。
本文
翌日の昼過ぎ、清子が来た。
荷が多かった。木箱が二つ、風呂敷が一つ、それと細い竹の束。与一が手伝おうとすると、首を振られた。触らせないのではなく、触る必要がない、という振り方だった。
お葉も来た。
杖をついていた。昨日よりゆっくり歩いていた。与一の顔を見て、山の方を見て、また与一の顔を見た。
「生きとるな」とお葉は言った。
「はい」
「それでよかった」
それだけだった。労いではなかった。与一が生きていることを確認した、という言い方だった。
清子は縁側で準備を始めた。与一は少し離れた場所から見ていた。何をしているのか、半分しか分からなかった。分かる半分は、紙を折ること、竹を束ねること、墨で何かを書くこと。分からない半分は、その順序と間隔と、清子の手の角度だった。
お葉が与一の隣に来た。
「今夜、清子は何かを削る」とお葉は言った。
「削る?」
「自分の中から、何かを出す。それを獣に喰わせる。そういう儀式や」
与一は清子の背中を見た。清子は振り返らなかった。
「何を出すんですか」
「本人しか知らん」お葉は杖を握り直した。「訊いたらあかん」
夜になった。
場所は山の入口だった。清子が昨夜与一を引き戻した、あの境目だった。木々が始まる手前、地面が土になるところ。清子は竹を四本立て、紙を渡して、小さな空間を区切った。結界というより、区切り、という言葉の方が近かった。
お葉は少し後ろに立っていた。与一はお葉の隣に置かれた。
「動くな。声を出すな」と清子は言った。与一ではなく、空間全体に向かって言った。
清子が中に入った。
最初は何も起きなかった。
風もなかった。虫の声もなかった。昨夜と同じ、音が消えた時間だった。与一は息を浅くした。
赤い目が来た。
昨夜より早かった。木々の奥から、間合いを詰めずに、ただそこに現れた。三つの光が、清子の区切った空間の前で止まった。
清子は動じなかった。
正面から向き合った。背筋が伸びていた。怖がっている様子はなかった。だが与一には、清子が何かを抱えているのが見えた。見えた、というより、伝わった。体から出ているものがあった。
清子が口を開いた。
言葉は聞こえなかった。声の高さと長さだけが届いた。命令ではなかった。説明でもなかった。差し出す、という感じの声だった。
赤い目が揺れた。
清子の体が、一瞬、ぐらりと傾いた。
与一は動きそうになった。お葉の手が与一の腕を掴んだ。力が強かった。老いた手とは思えなかった。
清子は倒れなかった。
膝をついた。地面に手をついた。だが、顔は上げたままだった。赤い目と向き合ったままだった。
三つの光が、近づいた。
近づいて、止まった。
何かが起きた。与一には見えなかった。音もなかった。ただ、空気が変わった。血の匂いが来て、来て、来て、それから、すうっと引いた。
赤い目が消えた。
一つ、また一つ、最後の一つ。闇の中に溶けるように、消えた。
清子は地面に手をついたまま、しばらく動かなかった。
与一はお葉の手が緩むのを待って、清子に近づいた。
清子は顔を上げた。怪我はなかった。血も出ていなかった。ただ、何かが違った。
顔の輪郭は同じだった。声も同じだろうと与一は思った。だが、目の奥の何かが、昨日と違った。削れた、という言葉をお葉は使った。それが何なのか、与一には分からなかった。分からないまま、確かに何かが減っていた。
「大丈夫ですか」と与一は言った。
「大丈夫や」
清子の答えは早かった。強がりではなかった。事実の確認だった。だが、与一には、その「大丈夫」が昨日の清子の「大丈夫」と同じ重さかどうか、測れなかった。
お葉が来た。
清子の顔を見て、お葉は何も言わなかった。言葉ではなく、長い間だった。それから、清子の肩に手を置いた。軽く、一度だけ置いて、離した。
それがどういう意味を持つのか、与一には分からなかった。
分からないことが、与一の中で積み重なっていた。
怒りではなかった。今は。ただ、分からないということが、与一の書こうとする手と、書けない手の間に、静かに溜まっていた。
それを書くべきか、書かざるべきか。
与一はまだ決めていなかった。
竹を片付けながら、清子は与一に言った。
「書くか」
問いではなかった。確認だった。
「……書きたいと思っています」
「止めん」清子は竹の束を縛った。「止めんけど、一つだけ言う」
与一は清子の背中を見た。
「お前が書いたもんは、残る。残ったもんは、また誰かが見つける。見つけた人間が、また引き寄せられる」
「祖父のノートのように」
「そうや」清子は縛り終えた束を置いた。「それでも書くか」
与一は答えなかった。
答えの代わりに、懐から紙を出した。昨夜、ペンが触れなかった紙だった。折り目がついている。持ち歩いていた。
清子はそれを見た。何も言わなかった。
与一はその場に膝をついた。紙を地面に置いた。懐から筆を出した。
今度は、手が動いた。
震えていた。それでも動いた。昨夜とは違った。言葉が逃げなかった。三つの赤い目、血の匂い、清子が膝をついた瞬間、何かが削れた後の目の奥。それを言葉にしようとすると、言葉が来た。
完全ではなかった。書けないことの方が多かった。だが、筆は紙の上を動いた。
清子は何も言わずに、片付けを続けた。
お葉が、遠くから見ていた。
祖父の家に戻って、与一は夜明けまでかかった。
書いたのは長くはなかった。短かった。見たものを全部書こうとすると、言葉が足りなかった。足りないまま書いた。足りないということも、書いた。
最後の一行を書く時、与一は少し止まった。
祖父の最後の一行を思った。見た。書いた。だが、誰にも見せてはならん。
与一は筆を動かした。
「――書いた。祖父が黙ったものを、わしは書いた。これで何かを捧げたのか、それとも何かを喰われたのか、まだわからん。」
書き終えて、与一は二冊を並べた。
祖父のノートと、与一の手記。
藁半紙の質が違った。字の大きさが違った。祖父は細く、与一は少し太い。だが、並べると、どこか似ていた。似ている、というより、続いている、という感じだった。
断ち切れなかったもの、という言い方もできた。
与一はしばらくそれを見ていた。
それから、二冊を重ねて、文机の引き出しにしまった。
今度は、深くはしまわなかった。