第2話 ヴァルハラでの説教地獄
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あらすじ
北欧神話の戦士の館ヴァルハラ。 そこは本来、戦場で勇敢に死んだ戦士たちがオーディンのもとへ集いラグナロクに備えて宴と鍛錬を続ける栄光の広間であった。 しかし近代以降、戦争はあまりにも複雑になった。 剣と盾で倒れた者だけでなく砲兵、戦車兵、航空兵、潜水艦乗り、参謀、軍需官僚、宣伝担当、独裁者、戦争犯罪者まで、次々と「自分も戦士である」と名乗って押し寄せてくる。 その結果ヴァルハラは荘厳な戦士の館であると同時に、死者受入、武勇審査、席次管理、戦争責任調査、異界間移送協議を行う巨大官僚機構と化していた。 これは戦士たちの栄光と酒と反省文が入り混じる、ヴァルハラ版あの世事務処理コメディである。
本文
ヴァルハラには、地獄はない。
少なくとも、そういう建前になっている。
ここは戦士の館であり、冥府ではない。
罪人を責め苛むための火の池もなければ、針の山もない。
死者の叫びが響く拷問部屋も、鎖で吊るされた亡者の列もない。
ただし、ヴァルハラ戦死者審査局には、証言聴取席がある。
そして多くの者は、そこを一度経験すると言う。
「なるほど。これは地獄よりきつい」
アドルフとだけ書かれた札の前で、男は座っていた。
彼の前には机がある。
机の上には紙がある。
紙の上には、発言申請書がある。
その隣には、証言記録票。
さらにその横には、異議申立用紙。
ただし、異議申立用紙の上には赤い印が押されていた。
受付停止中。
男はそれを見て、口を引き結んでいた。
広間の中央では、いつものように戦士たちが食事をしている。
肉を焼く匂い。
酒杯を合わせる音。
古代の戦士と近代の兵士が、なぜか同じ卓で肩を並べている。
騎士と戦車兵は、馬と履帯についてまだ揉めていた。
ヴァイキングはようやく入館申請書を書き終えたらしく、受付係に「斧の欄がない」と抗議していた。
遠くでは、航空兵が「撃墜後に敵地を徒歩で三日歩いた場合は歩兵加算がつくのか」と相談している。
ヴァルハラは今日も平常運転だった。
その喧騒の端で、証言聴取席だけが妙に静かだった。
ラーズグリーズが机の横に立っている。
彼女は、手元の記録板に目を落としたまま告げた。
「初回証言、継続します」
アドルフは顔を上げた。
「私はすでに十分聞いた」
「まだ初回です」
「何人目だ」
「六人目です」
「六人で十分だ」
「初回証言予定者は2461名です」
アドルフの口元がぴくりと動いた。
「ふざけているのか」
「ふざけていません」
ラーズグリーズは淡々と言った。
「2461名は初回抽出分です。全体ではありません」
男は一瞬、言葉を失った。
それから机を叩こうとした。
だが、叩く寸前で止めた。
ここに来て早々に受けた警告三の記憶が残っていたらしい。
ラーズグリーズは、わずかに目を細めた。
「学習は確認しました」
「私は犬ではない」
「犬の方が規則を覚えるのは早い場合があります」
近くの受付係が羽根ペンを落としかけた。
ミストは、記録板を抱えたまま目を伏せた。
笑ってはいけない。
研修中である。
笑ってはいけないのだが、ラーズグリーズの言葉は時々、槍より鋭い。
ブリュンヒルデ管理官は、少し離れた位置で全体を見ていた。
彼女は手元の綴じ帳に何かを書き込みながら、ミストに言った。
「記録を続けなさい」
「はい」
「感想は記録しないように」
「はい」
ミストはそっと、いま書きかけた「犬より遅い」を線で消した。
証言聴取席の前に、次の死者が立った。
若い男だった。
軍服は古く、裾は泥に汚れている。
顔立ちはまだ少年のようでもあった。
彼はアドルフを見て、しばらく黙っていた。
ラーズグリーズが確認する。
「証言者。氏名は記録済み。所属、記録済み。発言を許可します」
若い兵士は、小さくうなずいた。
「俺は、あなたの顔を直接見たことがありません」
アドルフは黙っている。
「演説も、直接は聞いていません。新聞に載っている写真を見たことはあります。町の壁に貼ってあったやつです」
彼は、自分の袖を見た。
「俺は、言われた通りに入隊しました。みんな行くから。国のためだと言われたから。臆病者と思われたくなかったから」
広間のざわめきが、少し遠のいたように感じられた。
若い兵士は続けた。
「前線に着いた時、誰も英雄みたいじゃありませんでした。寒くて、汚くて、腹が減っていて、みんな怖がっていました」
アドルフの指が動く。
「私は」
ラーズグリーズが即座に言った。
「発言申請なし」
「だが反論を」
「現在は証言者の発言時間です」
「一方的だ」
「あなたは一方的に語る時間が長すぎました」
アドルフは歯を食いしばった。
若い兵士は、少しだけ苦笑した。
「反論したいなら、後で紙に書いてください。俺たちもずっとそうでした」
その一言に、ミストは筆を止めそうになった。
兵士は静かに続けた。
「命令は紙で来ました。移動命令。攻撃命令。撤退禁止。補給不足。死傷報告。紙ばかりです」
彼はアドルフを見た。
「でも、その紙の向こうに、あなたがいました」
アドルフは何も言わない。
いや、言えない。
発言申請書は目の前にある。
だが、彼がそれを手に取れば、書かなければならない。
何に対して発言するのか。
どの証言の、どの部分に、どう反論するのか。
いつものように壇上から叫ぶだけでは済まない。
ラーズグリーズが、証言記録票に短く書き込んだ。
「命令と責任の関連性。記録」
若い兵士は深く息を吐いた。
「俺は別に、ここであなたを殴りたいわけじゃありません」
アドルフが顔を上げた。
「では何を」
ラーズグリーズが冷たく言った。
「警告」
アドルフは黙った。
若い兵士は言った。
「聞いてほしいだけです。俺たちがどう死んだか。何を思っていたか。何を知らされなかったか」
彼は目を伏せた。
「あなたは、俺たちを数にしました。師団とか、戦線とか、損耗とか」
その声は怒鳴っていなかった。
だからこそ、広間の空気に沈んだ。
「でも俺は、母に手紙を書きたかった。ただそれだけの日がありました」
ミストは、記録板の端を握る指に力を込めた。
ヴァルハラに来る死者たちは、しばしば武勇を語る。
何人倒したか。
どの城を攻めたか。
どの戦車を撃破したか。
どの空戦を生き延びたか。
しかしこの席では、武勇だけではないものが語られる。
言えなかった言葉。
届かなかった手紙。
戻れなかった家。
命令書の末尾に埋もれた人生。
ブリュンヒルデは目を閉じずに聞いていた。
彼女はこういう時、決して目をそらさない。
証言者が去った後、アドルフは机の上を見つめていた。
ラーズグリーズが言った。
「次の証言者を呼びます」
「待て」
「発言申請ですか」
「違う」
「では続行します」
「待てと言っている」
「理由を」
アドルフは、言葉を探した。
「私は……整理が必要だ」
ラーズグリーズは記録板を見た。
「休憩申請ですね」
「休憩だと」
「当局ではそう呼びます」
「私は命令しているのではない。必要だと言っている」
「では申請してください」
ラーズグリーズは別の紙を差し出した。
一時休憩申請書。
アドルフは、それをしばらく睨んでいた。
「何でも紙か」
「はい」
「神々の館なのに」
「神々の館だからです」
ブリュンヒルデが近づいた。
「規則がなければ、強い声の者が場を支配します」
アドルフは顔を上げた。
ブリュンヒルデは彼を見下ろしていた。
「ここでは、それを許しません」
ミストは、その言葉を記録した。
規則がなければ、強い声の者が場を支配する。
それは、ヴァルハラ戦死者審査局の本質に触れる言葉のように思えた。
アドルフは一時休憩申請書を手に取った。
だが、筆を持つところで止まった。
「理由欄がある」
「あります」
「何と書けというのだ」
ラーズグリーズが答えた。
「疲労。混乱。証言内容の整理。逃避衝動。どれでも適切なものを」
「最後のは何だ」
「頻出理由です」
「私は逃げていない」
「では書かなければよいだけです」
アドルフはしばらく筆を握ったまま動かなかった。
そして、しぶしぶ書いた。
証言内容の整理。
ラーズグリーズはそれを受け取り、即座に判を押した。
「休憩七分を許可します」
「七分だと」
「標準です」
「短すぎる」
「初回なので寛大です」
「寛大で七分か」
「本来は五分です」
ミストはまた笑いそうになり、今度は記録板で口元を隠した。
ブリュンヒルデは見ていないふりをした。
休憩中、アドルフは証言聴取席から離れることは許されなかった。
机の前に座ったまま、広間を見ることだけができた。
中央席では、戦士たちが酒を飲んでいる。
その中には、ドイツ軍人もいた。
第一次大戦の古参兵もいる。
第二次大戦の兵士もいる。
戦車兵もいる。
航空兵もいる。
彼らの中には、武勇を認められた者もいるのだろう。
だが、彼らの誰も、アドルフの席へ来なかった。
敬礼もしない。
呼びかけもしない。
遠くから見る者はいる。
しかし、それは忠誠の視線ではない。
どこか冷めた、あるいは重い視線だった。
一人の老兵が、酒杯を片手に近くを通りかかった。
アドルフが顔を上げる。
老兵は彼を見た。
第一次大戦時の軍服だった。
アドルフは何か言いかけた。
老兵は先に言った。
「同じ戦争にいたからといって、同じ席に座れるとは限らん」
それだけ言って、老兵は去った。
アドルフは唇を結んだ。
休憩七分は、驚くほど早く終わった。
ラーズグリーズが時間を確認する。
「再開します」
「私はまだ」
「休憩は終了しました」
「延長を」
「申請書を」
「もういい」
「では再開します」
次の証言者が来た。
今度は兵士ではなかった。
民間人の女だった。
粗末な外套をまとい、痩せた手を胸の前で重ねている。
ミストは少し戸惑った。
「管理官。民間人も証言するのですか」
ブリュンヒルデは静かに答えた。
「戦争責任審査です。戦場で倒れた者だけではありません」
「ヴァルハラなのに」
「だからこそです。戦士の席を求める者に、戦士以外の死者を見せる必要があります」
民間人の女は、証言聴取席の前に立った。
ラーズグリーズが確認する。
「証言者。発言を許可します」
女は、アドルフを見た。
怒り狂っているわけではない。
泣き叫んでいるわけでもない。
ただ、ひどく静かだった。
「私は兵士ではありません」
アドルフは黙っていた。
「銃も持っていません。国境の場所も、よく知りませんでした。政治も、新聞に書いてあることくらいしか知りませんでした」
女は続けた。
「けれど、戦争は私の家にも来ました」
広間の音が遠ざかった。
「最初に夫がいなくなりました。次に兄がいなくなりました。息子はまだ子供でした。最後に家が焼けました」
ミストは、筆の先を紙に置いたまま動かせなかった。
「私はあなたに会ったことがありません。あなたの声も、ほとんど知りません」
女は言った。
「でも、あなたの決めたことは、私の食卓まで来ました」
アドルフの目が、わずかに揺れた。
「私は」
「発言申請なし」
ラーズグリーズの声が入る。
アドルフは拳を握った。
女はその拳を見て、少しだけ首を傾げた。
「あなたはまだ、手を握れるのですね」
その言葉は、罵倒ではなかった。
だから、余計に重かった。
「私は最後、娘の手を握れませんでした」
誰も笑わなかった。
広間の遠くで、ヴァイキングですら黙った。
彼は手にしていた斧を静かに床へ置いた。
騎士も、戦車兵も、航空兵も、その瞬間だけは議論をやめた。
女は最後に言った。
「私はあなたを戦士として覚えていません」
そして静かに下がった。
ラーズグリーズは記録した。
「民間被害証言。受理」
アドルフは、机の上を睨み続けていた。
だが、その視線は先ほどよりも鋭くなかった。
むしろ、焦点が合っていないように見えた。
ブリュンヒルデは言った。
「アドルフ」
彼はゆっくり顔を上げた。
「これが証言聴取です」
「私は裁判を受けているのか」
「審査です」
「違いは何だ」
「裁判は判決を出します。審査は、あなたがどの席に座る資格があるかを確認します」
「私はどこにも座れないではないか」
「現在、座っています」
ラーズグリーズが補足した。
「証言聴取席です」
ミストは、今度は笑えなかった。
その返しはいつものように事務的だったが、机の前に積まれた証言の重さが、場から笑いを奪っていた。
アドルフは低く言った。
「これは処罰だ」
ブリュンヒルデは首を横に振った。
「違います」
「では何だ」
「あなたが作った声の山です」
アドルフは黙った。
「あなたは生前、多くの者に聞かせました。演説を。命令を。標語を。理想を。敵の名を。勝利の幻を」
ブリュンヒルデは机の上の紙に目を落とした。
「今度は、あなたが聞く番です」
アドルフは椅子の背にもたれた。
疲れたように見えた。
それでも、彼はまだ崩れてはいなかった。
崩れないことだけに、全力を使っているようにも見えた。
ラーズグリーズが次の紙を取る。
「次の証言者」
「まだ続けるのか」
「はい」
「私は人間だぞ」
「証言者もそうでした」
この返答に、アドルフは口を閉じた。
ミストは、記録板にその一文を書いた。
証言者もそうでした。
短い。
けれど、どんな長い説教よりも強かった。
その日の証言聴取は、夕刻まで続いた。
兵士が来た。
民間人が来た。
収容所で死んだ者が来た。
空襲で家族を失った者が来た。
命令を出した側の下級官吏も来た。
命令に従った兵士も来た。
敵軍の兵士も来た。
ドイツ人も来た。
ドイツ人ではない者も来た。
そのたびに、アドルフは発言しようとした。
そのたびに、ラーズグリーズは言った。
「発言申請なし」
やがて彼は、申請書を手に取った。
ミストは、思わず身を乗り出した。
アドルフは筆を持ち、理由欄を見た。
発言の目的。
反論。
釈明。
質問。
謝罪。
その他。
彼の筆先は、反論の近くで止まった。
次に釈明へ動いた。
そこでまた止まった。
質問の前で少し迷った。
謝罪の欄には、触れなかった。
結局、彼は何も書かなかった。
申請書は白紙のまま机に戻された。
ラーズグリーズはそれを見て、ただ言った。
「未提出として扱います」
夕刻、ブリュンヒルデは証言聴取の一時終了を告げた。
「本日はここまで」
アドルフは、椅子から立ち上がろうとした。
ラーズグリーズが言う。
「席を離れる許可は出ていません」
「一日中ここに座らせる気か」
「違います」
「ならば」
「当面です」
「当面とは」
「審査進行状況によります」
「どれほどだ」
ラーズグリーズは手元の書類を確認した。
「ラグナロクまでに終われば、順調です」
アドルフは目を閉じた。
ミストは、その横顔を見た。
怒り。
屈辱。
拒絶。
焦り。
そして、その奥にほんのわずか、疲労が見えた。
同情ではない。
ただ、理解した。
演説できない者は、思った以上に小さく見える。
夜のヴァルハラでは、宴が続いていた。
中央席には光がある。
肉と酒と歌がある。
英雄譚がある。
遠くから聞こえる笑い声が、証言聴取席まで届いていた。
アドルフの前には、明日の証言予定表が置かれている。
その厚さは、今日よりも増えていた。
ミストは、最後の記録を書き終えた。
勤務初日業務記録。
証言聴取席運用開始。
被審査者アドルフ、中央席申請却下後、初回証言を聴取。
発言申請、未提出。
休憩申請、一件受理。
自己正当化、複数回検出。
反省、未確認。
ミストは最後の一行を迷った。
業務記録に感想は不要だ。
けれど、研修記録には所感欄がある。
彼女は少し考えて、こう書いた。
強い声を持っていた者が、初めて他者の声を聞く席。
それが証言聴取席である。
ブリュンヒルデはその記録を見て、何も言わずに判を押した。
承認。
その音が、静かに響いた。
ラグナロクはまだ来ない。
だが、証言は来る。
そしてヴァルハラ戦死者審査局では、明日も朝から整理番号が呼ばれる。
「証言者一番から十番の方、証言聴取席へお進みください」
戦士の館は、今日も事務処理中である。