第11話 大統領ではなく艇長として
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あらすじ
北欧神話の戦士の館ヴァルハラ。 そこは本来、戦場で勇敢に死んだ戦士たちがオーディンのもとへ集いラグナロクに備えて宴と鍛錬を続ける栄光の広間であった。 しかし近代以降、戦争はあまりにも複雑になった。 剣と盾で倒れた者だけでなく砲兵、戦車兵、航空兵、潜水艦乗り、参謀、軍需官僚、宣伝担当、独裁者、戦争犯罪者まで、次々と「自分も戦士である」と名乗って押し寄せてくる。 その結果ヴァルハラは荘厳な戦士の館であると同時に、死者受入、武勇審査、席次管理、戦争責任調査、異界間移送協議を行う巨大官僚機構と化していた。 これは戦士たちの栄光と酒と反省文が入り混じる、ヴァルハラ版あの世事務処理コメディである。
本文
ヴァルハラ戦死者審査局では、肩書きは便利である。
誰が誰なのかを確認するには必要だ。
王。
皇帝。
将軍。
大臣。
総統。
大統領。
どの時代にも、立派な肩書きを持った死者はいる。
だが、ブリュンヒルデ管理官はいつも言う。
「肩書きは入口の札です。席を決めるのは行いです」
その日、黄金門の受付に現れた男も、立派な肩書きを持っていた。
背は高く、身なりは整っている。
若さと老成が妙に同居したような顔をしていた。
死後の姿であるから、傷も病も見えない。
それでも、その立ち方には、どこか海軍士官らしい緊張が残っていた。
受付係が尋ねる。
「お名前を」
男は答えた。
「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ」
受付係が書類に記入した。
「肩書きは」
男は少しだけ間を置いた。
「第35代アメリカ合衆国大統領」
受付係の筆が止まった。
その瞬間、近くで待機していたラーズグリーズが顔を上げた。
ミストも記録板を抱え直した。
黄金門の後ろにいたヴァイキングが、隣の騎士に小声で尋ねた。
「大統領とは王か」
騎士は首をかしげた。
「選ばれる王のようなものではないか」
アメリカ戦車兵が遠くから言った。
「違う。が、説明すると長い」
イギリス戦車兵が紅茶を飲みながらうなずいた。
「長いなら後にしよう」
受付係は書類を確認し、丁寧に言った。
「大統領職は、ヴァルハラ中央席審査の直接根拠にはなりません」
男は怒らなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
「そう言われると思っていました」
受付係が続ける。
「他に申告する戦歴はありますか」
男は姿勢を正した。
「アメリカ海軍。PT-109艇長」
受付係の筆が、再び動いた。
「海軍士官歴あり。艇長。戦時救助功績照会」
ラーズグリーズが静かに言った。
「自己正当化の気配は薄いです」
ミストは思わず記録板に書きかけた。
珍しい。
ラーズグリーズが見ずに言った。
「書かなくてよろしい」
ミストはそっと筆を止めた。
ブリュンヒルデが現れた。
彼女はケネディをしばらく見た後、静かに言った。
「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ。あなたの政治的評価は、現世史および国家指導者記録の管轄です」
ケネディはうなずいた。
「わかります」
「ここでまず確認するのは、戦場であなたが何をしたかです」
「では、あの夜の話ですね」
「あの夜」
ミストは、すぐに書類を探した。
PT-109。
夜の海。
衝突。
沈没。
生存者。
救助。
ブリュンヒルデは受付係に告げた。
「武勇審査室ではなく、戦場証言照合室を開けます」
受付係が少し驚いた。
「証言者を呼びますか」
「はい」
ブリュンヒルデはケネディを見た。
「救助功績を審査します。ただし、敵味方双方の記録を照合します」
ケネディは表情を引き締めた。
「当然です」
ラーズグリーズが小さくうなずいた。
「この“当然です”は受理できます」
ミストは今度こそ、心の中だけに記録した。
戦場証言照合室は、番号のない上映室ほど暗くはない。
未完裁判記録室ほど重くもない。
ただ、部屋の中央には長い水盤があり、その水面に過去の戦場が映る。
陸の戦場なら土。
空の戦場なら雲。
海の戦場なら波。
この部屋では、地図でも書類でもなく、戦場そのものが証言する。
ケネディは水盤の前に立った。
ミストはその横に控えた。
ブリュンヒルデ、ラーズグリーズ、そしてゴンドゥルも同席していた。
ゴンドゥルは名簿を抱えている。
それは死者だけの名簿ではない。
生還した者の名も含まれていた。
「あなたが連れて帰った者たちの名です」
ゴンドゥルはそう言って、名簿をケネディの前に置いた。
ケネディは、静かにそれを見た。
水盤に、夜の海が映る。
黒い水。
濃い闇。
遠くの火。
折れた艇体。
叫び声。
油の匂い。
木片。
波。
ミストは思わず息をのんだ。
戦場というより、海そのものが口を開いたようだった。
ブリュンヒルデが言った。
「証言者を呼びます」
水面に、細い光が走った。
それは船の形になった。
次に、白い軍装にも似た姿の女性が現れた。
髪は黒く、眼差しは静かで鋭い。
しかし、その身にまとう気配は人間ではない。
艦である。
鋼であり、波であり、夜の航跡である。
彼女は一礼した。
「日本海軍駆逐艦、天霧」
その声は、艦内号令のように澄んでいた。
「艦魂として証言に応じます」
ミストは記録板を握りしめた。
艦魂。
ヴァルハラには戦士が来る。
だが、艦そのものの魂が証言に立つことは多くない。
ブリュンヒルデは丁寧に応じた。
「天霧。出頭に感謝します」
天霧の艦魂はケネディを見た。
ケネディも、彼女を見た。
敵だった者。
いや、正確には、敵艦だった存在。
その夜、PT-109と衝突した駆逐艦。
ケネディはゆっくりと姿勢を正した。
「お会いすることになるとは思いませんでした」
天霧は静かに答えた。
「海では、そういうことがあります」
ヴァイキングなら笑って済ませるような言葉だった。
だが、この部屋では重く響いた。
ブリュンヒルデが問いかける。
「天霧。あの夜の状況を証言してください」
天霧の艦魂は水盤を見た。
「夜間行動中。視界は限られ、敵魚雷艇との遭遇がありました。衝突は瞬間でした。こちらは敵艇を意図して追い回したのではありません。戦場の夜、針路と速度と闇がぶつかりました」
水面に、巨大な艦首が映る。
小さなPT艇。
闇。
接近。
衝撃。
ミストは、記録しながら手が震えそうになるのを抑えた。
ケネディは黙っていた。
天霧は続けた。
「衝突後、海には人が残りました。敵味方の区別ではなく、海に残された者たちです」
ゴンドゥルが名簿を開く。
「死者の名を読みます」
部屋が静まった。
PT-109の戦死者の名が、一人ずつ読み上げられる。
ケネディは目を逸らさなかった。
名が読まれるたびに、わずかに顔が動く。
それは弁明ではない。
記憶だった。
ゴンドゥルは次に、生還者の名を読み上げた。
「救助対象者。生還確認」
ケネディは小さく息を吐いた。
ブリュンヒルデが尋ねる。
「ジョン。あなたは艇の沈没後、何をしましたか」
ケネディは答えた。
「生きている者を集めました。負傷者を支え、泳ぎ、島へ向かいました。指揮官として、それ以外にすることはありませんでした」
ラーズグリーズが言った。
「自己美化は薄い。事実確認へ」
ケネディは少し苦笑した。
「厳しいですね」
「公平ではありません」
ラーズグリーズは淡々と言った。
「正確です」
ケネディはうなずいた。
「それはいい」
天霧の艦魂が、彼を見た。
「あなたは、部下を捨てなかった」
ケネディはすぐには答えなかった。
「捨てられませんでした」
「同じではありませんか」
「少し違います」
ケネディは水盤の夜の海を見た。
「英雄になろうとしたわけではない。あの時は、ただ、誰をまだ連れていけるかだけでした」
ブリュンヒルデの表情は変わらない。
だが、ミストには、空気がわずかに和らいだように感じられた。
ヴァルハラで武勇と呼ばれるものは、いつも剣を振ることではない。
ときには、夜の海で誰かを背負うこともある。
ときには、指揮官が最後まで数えることもある。
誰がいるか。
誰がいないか。
誰を連れていくか。
誰の名を忘れないか。
ゴンドゥルが名簿を閉じた。
「生還者名簿、確認済み」
スクルドが部屋へ入ってきた。
手には勲章記録と報告書を持っている。
「戦時功績文書を照合します」
ケネディが言った。
「文書まであるのですか」
スクルドは答えた。
「文書がないと、後で揉めます」
天霧の艦魂がわずかに目を細めた。
「海軍らしい」
スクルドは書類を確認する。
「PT-109沈没後の救助行動。負傷者支援。生存者の統率。救助要請伝達。これらは武勇審査上、評価対象です」
ケネディは黙って聞いた。
スクルドは次の書類を出した。
「ただし、暗殺死亡は戦死区分ではありません」
ケネディはうなずいた。
「それもわかります」
「大統領職責は別記録です」
「ええ」
「キューバ危機、ベトナム政策、公民権、冷戦上の意思決定、その他、現世史照会へ回付」
ケネディは少しだけ肩をすくめた。
「そちらは、簡単には終わらないでしょうね」
ブリュンヒルデが答えた。
「簡単に終わる国家指導者記録は、ほとんどありません」
遠くで、ムッソリーニの声が聞こえた気がした。
「私はまだ98番なのか!」
ラードグリーズの声。
「現在21番です」
ケネディはそちらを一瞬見た。
「大変そうですね」
ミストは思わず言った。
「はい。だいぶ」
ラーズグリーズが補足した。
「演説による列妨害が多いです」
ケネディは小さく笑った。
「政治家には耳が痛い」
ラーズグリーズがすぐに言った。
「自覚ありとして記録します」
「今のもですか」
「はい」
ケネディは苦笑した。
「ここでは冗談も記録される」
「必要なら」
ブリュンヒルデが話を戻した。
「天霧。証言を続けてください」
天霧の艦魂はうなずいた。
「私は敵艦でした。衝突は戦場の出来事です。私は彼を助けたわけではありません。彼も私を許すためにここへ来たわけではないでしょう」
ケネディは静かに答えた。
「はい」
「ですが」
天霧は水盤を見た。
「海に落ちた者を連れて帰ろうとした行いは、敵であっても見ます」
その言葉に、部屋が静まり返った。
ヴァルハラは戦士の館である。
敵を倒した話はいくらでもある。
勝った話も、負けた話も、名誉も、誇りも、怒りもある。
だが、敵が敵の武勇を認める時、広間の騒がしさとは違う重さが生まれる。
ブリュンヒルデは、ゆっくりとうなずいた。
「証言として受理します」
スクルドが判を押す。
証言受理。
天霧の艦魂はケネディに向き直った。
「艇長」
大統領ではなかった。
将来の指導者でもなかった。
その呼びかけは、ただ一人の海軍士官へ向けられていた。
ケネディは姿勢を正した。
「はい」
「あなたは、暗い海で部下を数え続けた」
「そうするしかありませんでした」
「その“しかない”を選ばなかった者もいます」
ケネディは答えなかった。
天霧は続けた。
「私は艦です。沈む者も、浮かぶ者も見ます。あの夜、あなたは浮かぶ者を見捨てませんでした」
ブリュンヒルデは、審査票に記入した。
武勇審査
PT-109艇長として受理
救助功績、高評価
中央席、条件付き審査継続
大統領職責、別記録へ回付
ミストはそれを見て、少し安心した。
だが、ケネディはすぐには喜ばなかった。
彼はゴンドゥルの名簿を見た。
「死者の名簿を、もう一度見せてもらえますか」
ゴンドゥルはうなずいた。
「はい」
ケネディは、沈没で亡くなった者たちの名を一つずつ読んだ。
今度はゴンドゥルが読み上げるのではない。
彼自身が読んだ。
ゆっくりと。
間違えないように。
省略しないように。
読み終えると、彼は小さく言った。
「彼らは帰れなかった」
ブリュンヒルデが答えた。
「はい」
「私は全員を連れて帰れたわけではない」
「はい」
「それでも、審査は受理されるのですか」
ブリュンヒルデは静かに言った。
「武勇とは、必ず成功することではありません」
天霧の艦魂が続けた。
「海では、なおさらです」
ケネディは、わずかに目を伏せた。
「ありがとうございます」
ラーズグリーズが言った。
「謝意として記録します。自己美化ではありません」
ケネディは少しだけ笑った。
「それは助かります」
審査が終わると、天霧の艦魂は水盤の前に立った。
その姿は少しずつ、艦影へ戻っていく。
ケネディは彼女に敬礼した。
天霧も、静かに答礼した。
敵同士だった。
だが、ここではどちらも、あの夜の海を知る証言者だった。
ミストはその光景を記録した。
大統領ではなく、艇長として。
敵艦ではなく、証言者として。
肩書きが剥がれた時、残るものが審査される。
ブリュンヒルデは、その記録を読み、判を押した。
承認。
その時、外の廊下からヴァイキングの声がした。
「大統領とは結局、王なのか」
アメリカ戦車兵が答えた。
「違うと言っている」
イギリス戦車兵が言った。
「紅茶を出せば説明しやすいのでは」
「それで説明できるのか」
「だいたいの政治制度は、紅茶があれば少し落ち着く」
ケネディはそれを聞いて、今度は少しはっきり笑った。
「なるほど。議会にも必要ですね」
ラーズグリーズが言った。
「政治的冗談として記録保留」
「保留ですか」
「大統領職責記録に回すか検討します」
「厳しい」
「職務です」
戦場証言照合室の水盤は、静かに波を消していった。
夜の海は閉じられた。
だが、そこにいた者たちの名は残った。
その名を読んだ艇長も、審査票の上では大統領ではなかった。
ただの肩書きではない。
ただの英雄譚でもない。
あの夜、沈んだ艇の艇長。
暗い海で、まだ生きている者を数えた男。
ミストは最後に所感を書いた。
肩書きは席を開けない。
だが、暗い海で誰かを連れて帰った記録は、扉を叩く。
ブリュンヒルデはそれを読み、静かにもう一度判を押した。
承認。
戦士の館は、今日も事務処理中である。