大洗水族館の朝 ― 動物たちの避難場所
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
大洗駅前で一夜を過ごした翌朝。
90式の小さな不調を確認したシオナは、地図を広げて勝田駐屯地と施設学校の位置を見つける。
「那珂川を渡って、勝田の方へ行けばいい」
サヤは頷く。
「じゃあ、まずそっちだね」
90式は大洗駅前ロータリーを離れ、ゆっくりと県道108号線へ入る。
海風が街路樹を揺らしていた。
大洗の町は静かだったが、完全に死んでいる感じではなかった。
シャッターの閉じた店。
色あせた観光案内板。
錆びた自転車。
風で揺れるのぼり旗。
その中を、90式は低い唸りを響かせながら進んでいく。
しばらく進むと、海側に向かう案内板が見えた。
水族館。
サヤがそれに気づく。
「水族館、あるんだ」
シオナは少しだけ速度を落とす。
「大洗にもあったんだね」
その先に、さらに別の看板があった。
大洗パークホテル。
だが、ただの古い看板ではなかった。
その下に、手書きの板がくくりつけられている。
黒いマジックで書かれた文字。
《動物がいます。大きな音を立てないでください》
サヤが眉をひそめる。
「……これ、最近書いたやつだよね」
シオナも頷く。
雨ざらしのわりに、文字がまだ濃い。
板も新しい。
90式はそこで一度止まった。
風の中に、かすかに鳴き声のようなものが混じる。
鳥か。
それとも別の動物か。
サヤが小さく言った。
「誰かいる」
「うん」
シオナは操行ハンドルから手を離し、エンジンを落とした。
急に、町が静かになる。
二人はハッチを開け、外へ出た。
水族館の入口は閉じていなかった。
自動ドアは動かないが、片側だけ手で開けられるようになっている。
入口横には、また手書きの紙が貼られていた。
《中に動物がいます。驚かせないでください》
サヤは紙をじっと見る。
「誰が書いたんだろ」
「中にいる人」
シオナはそう言って、慎重に扉を開けた。
館内は薄暗かった。
大きな水槽は、もうほとんど生きていない。
水は濁り、魚の姿はなかった。
電力が失われた後、濾過も循環も止まったのだろう。
だが、完全な廃墟ではなかった。
床はある程度掃かれている。
通路の隅には、バケツ。
古いタオル。
餌を入れていたらしいプラスチック箱。
そして奥の方から、かすかな鳴き声がした。
「……アザラシ?」
サヤが声を潜める。
二人は奥へ進む。
屋外エリアに出る扉の手前に、またメモがあった。
《南の倉庫には誰も入らないでください。中に怪我した子がいます。──ミオ》
サヤがそれを読む。
「ミオ……」
その時だった。
背後で、何かが落ちる音がした。
二人が振り返る。
通路の奥に、ひとりの女性が立っていた。
黒髪のショートヘア。
潮風で少し茶色がかっている。
レインジャケットに、砂色のワークパンツ。
傷んだスニーカー。
手には餌の入ったバケツを持っている。
その女性は、驚いたように目を見開いていた。
「……人?」
シオナも、サヤも動かなかった。
女性は一歩下がる。
「撃たないで」
震えた声だった。
シオナは両手を少し上げる。
「撃たない。武器も持ってない」
サヤもゆっくり頷く。
「私たち、旅をしてるだけ」
女性はまだ警戒していた。
だが、二人の後ろにも武器がないことを確かめるように視線を動かし、それから少しだけ息を吐いた。
「……さっきの音、あなたたち?」
「90式の音。驚かせてごめん」
シオナが言うと、女性は小さく首を振った。
「大丈夫。あの子たち、もう慣れてるから」
「あの子たち?」
サヤが聞く。
女性は少し迷ったあと、屋外エリアの方を見た。
「ついてきて」
水族館の裏手には、小さな避難場所が作られていた。
元は搬入口か、飼育用の作業スペースだったらしい。
ブルーシートで風よけが作られ、古いコンテナや木箱が並んでいる。
その奥に、アザラシの子どもがいた。
片方の前肢に布が巻かれている。
近くには海鳥が数羽、羽を休めていた。
さらに遠くのプールには、水が少しだけ残っている。
女性はバケツを置き、アザラシの子に近づいた。
さっきまで震えていたのが嘘のように、手つきは慣れている。
「この子、少し前に岸で怪我してたの。放っておけなくて」
サヤはそっと近づく。
「あなたが世話してるの?」
「うん」
女性は頷いた。
「魚は……電気が止まって、ほとんど助けられなかった。水槽はポンプが止まったら終わりだから」
声が少し沈む。
「でも、アザラシとかの哺乳類や海鳥は、外に出せば生きられるかもしれなかった。だから、放した。海に戻したり、運河の方へ逃がしたり」
シオナは静かに聞いていた。
「それでも、全部いなくなったわけじゃないんだ」
女性は少し笑う。
「うん。戻ってくる子もいる。怪我した子もいる。だから、ここを開けてる」
サヤが尋ねる。
「名前、聞いてもいい?」
女性は少しだけ目を伏せ、それから答えた。
「ミオ」
短い沈黙のあと、彼女は付け加えた。
「水戸にいた。終末前は、動物看護の専門学校に通ってた」
「だから、動物の世話を」
「それしか、できなかったから」
ミオはそう言って、照れたように笑った。
その笑い方だけが、急に幼く見えた。
ミオは、少しずつ話してくれた。
終末後、大洗水族館に逃げ込んだこと。
最初は他にも数人いたこと。
けれど、やがて誰もいなくなったこと。
電気が止まり、魚の水槽は維持できなくなった。
それでも、海へ返せる命は返した。
アザラシ。
海鳥。
場合によっては、近くに迷い込んだ野良猫の面倒まで。
「海に戻せば生きられる子は戻した。でも、怪我した子はここに置いた。私が見れば、少しは助かるかもしれないから」
「一人で?」
サヤの声には、驚きと痛ましさが混じっていた。
ミオは小さく頷く。
「一人の方が、怖くない時もあったから」
その言葉に、三人の間に静けさが落ちた。
外では海風が吹いている。
遠くで鳥が鳴く。
シオナはミオを見た。
「私たちは勝田へ行くところ。90式の調子が少し悪いから、駐屯地と施設学校を見に行く」
「勝田……」
ミオは少しだけ考える。
「近いよ。那珂川を渡って、ひたちなかの方」
「知ってるの?」
「水戸の出身だから」
サヤがほっとしたように笑う。
「じゃあ、道案内してもらえる?」
ミオは驚いた顔をした。
「私?」
「無理にとは言わないけど」
シオナが言う。
「ここに残るなら、それでもいい。ただ、少しだけ話を聞かせてほしい。大洗のことも、勝田までの道も」
ミオはしばらく黙っていた。
そして、アザラシの子の頭をそっと撫でる。
「……少しなら」
それから、二人を見て小さく笑った。
「人と話すの、久しぶりだから。変だったら、ごめん」
サヤがすぐに笑い返す。
「大丈夫。私たちも、だいぶ変だから」
ミオは一瞬きょとんとして、それから少しだけ声を出して笑った。
その後、三人は水族館の裏手を回った。
ミオは動物たちの避難場所を見せ、餌の保管場所や、海水を濾過する簡単な装置を説明した。
大洗パークホテルの一部を倉庫代わりに使い寝泊まりもしていること。
商店街の保存食を少しずつ使っていること。
ミオの生活は、弱々しく見えて、驚くほど筋が通っていた。
人のいない町で、彼女は彼女なりの秩序を作っていた。
サヤは海鳥に餌をやるミオを見ながら呟く。
「すごいね」
「え?」
「一人で、ちゃんと暮らしてる」
ミオは困ったように笑う。
「ちゃんと、かな。なんとか、だよ」
シオナは90式の方角を振り返った。
勝田へは行かなければならない。
冷却系の不調は放置できない。
けれど、大洗にはもうひとつの理由ができた。
また戻る理由。
「ミオ」
シオナが言う。
「私たち、勝田に行ってくる。戻れるかは分からないけど、近くまで来たら必ず寄る」
ミオは少しだけ目を丸くした。
「……本当に?」
サヤが頷く。
「本当に。アザラシの子の様子も見たいし」
ミオは少し俯き、そして静かに笑った。
「じゃあ、待ってる」