ハチ公の故郷
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
大館市街へ入ったころには、もう夕方の色が濃くなっていた。
雪はちらつく程度だったが、空は暗い。
日が落ちきる前に泊まれる場所を探す必要があった。
シオナは国道7号線沿いを、速度を落としたまま進んだ。放置車両はある。閉まった店舗も多い。だが、道路そのものは完全には塞がれていない。誰かが雪を寄せ、車を端に動かした跡がある。
サヤが車長ハッチ側から外を確認する。
「前方、ホテルっぽい建物。駐車場広い」
ミズホが地図を見る。
「国道沿い。市街中心に入りすぎない位置だね」
シオナはすぐに判断した。
「今日はここにしよう。暗くなる前に止まる」
90式はホテルの駐車場へゆっくり入った。
入口付近には雪が積もっていたが、駐車場の端には十分な余地がある。シオナは建物から見える位置に車体を停め、エンジンを切った。
静かになった瞬間、周囲の音が戻ってきた。
遠くの風。
雪を踏む三人の足音。
どこかで軋む看板の音。
ホテルは無人だった。
ロビーの自動ドアは動かない。電気は来ていない。
三人は手動で扉を開け、懐中電灯で中を照らした。
サヤが小声で言った。
「真っ暗」
ミズホは足元を照らす。
「でも荒らされてはいない。使えそう」
シオナはロビーを見回した。
フロントには古い宿泊案内。
観光パンフレットの棚。
大館市内の地図。
秋田犬の写真が表紙になった冊子。
その隣には「忠犬ハチ公のふるさと」と書かれたパンフレットが置かれていた。
その文字に、シオナの視線が一瞬だけ止まった。
だが、まずは宿泊場所の確認だった。
三人は低い階の部屋を選んだ。
窓から90式が見える。出入口にも近い。何かあればすぐ外に出られる。
電気はない。
暖房も動かない。
けれど、手持ちのランタンとライトで明かりは作れた。能代で補給したカイロもある。食事は持参した保存食と乾麺、缶詰でどうにかなる。
サヤは荷物を置きながら言った。
「電気なしホテルかあ」
ミズホが手早くランタンを置く。
「灯りはある。食べ物もある。布団もある。今日は十分」
シオナは窓から外を見た。
90式は雪の中で静かに停まっている。
秋田から能代、ふたつい、大館。今日はよく進めた。
「大浴場を確認してみよう」
サヤが顔を上げた。
「お風呂?」
「使えるかは分からない。でもホテルならボイラーが残っているかもしれない」
三人は浴場へ向かった。
大浴場は暗かった。
照明は使えない。脱衣所も冷えている。浴槽には湯は張られていない。
だがボイラー燃料がまだ残っていた。完全な管理状態ではないが、最低限なら使えそうだった。給水も細く生きている。
ミズホは慎重に確認した。
「大浴場全部を普通に使うのは無理。でも、浴槽に湯を貯めるだけならいけるかもしれない」
サヤの表情が少し明るくなる。
「今日もお湯がある?」
シオナはうなずいた。
「電気はないけど、燃料が生きてる。無理しない範囲で湯を張ろう」
時間はかかった。
照明は手持ちのライトだけ。
湯量も勢いよく出るわけではない。
だが、浴槽の底に少しずつ湯が溜まり、やがて三人が体を温められるくらいにはなった。
サヤは浴槽の縁に手を入れて、感心したように言った。
「あったかい」
ミズホが答える。
「ありがたいね。電気がなくても、燃料と水があればここまでできる」
シオナは湯気を見つめた。
「にしめはシャワー。ここは大浴場。場所によって残り方が違う」
「終末温泉めぐりみたいになってきたね」
サヤが言う。
ミズホがすぐ返した。
「目的は青森だよ」
「分かってる。でも、お湯は大事」
「それは否定しない」
三人は順番に体を洗い、湯船に入った。
暗い大浴場に、ランタンの光だけが揺れている。
窓の外は雪。
湯気が静かに上がる。
にかほの露天風呂のような開放感はない。
西目のようなシャワーだけの侘しさでもない。
ここは暗く、静かで、少し心細い。けれど湯は確かに温かかった。
サヤは肩まで沈んで息を吐いた。
「今日、大館まで来たんだね」
ミズホがうなずく。
「予定より順調だった。ふたついで道路がつながってるって確認できたのが大きい」
シオナは湯面を見ていた。
「沿岸に出なくてよかったと思う」
「うん」
ミズホは短く答えた。
「101号線に入っていたら、今どこで止まっていたか分からない」
サヤは少し黙ってから言った。
「ちゃんと道を選べるようになってきたよね。私たち」
シオナは小さく笑った。
「前は選ぶというより、進めそうな方に行ってた」
「今は止まれそうな方も見る」
ミズホが言った。
三人はしばらく湯に浸かっていた。
体が温まると、暗い浴場も怖くなくなった。
外の雪も、少し遠く感じた。
風呂から上がると、脱衣所は寒かった。三人は急いで体を拭き、乾いた服を着た。ドライヤーは使えない。髪はタオルでしっかり水気を取るしかない。
サヤは厚手の靴下を履きながら言った。
「今日も靴下が偉い」
ミズホは髪を拭きながら答えた。
「靴下とカイロは偉い」
シオナもネックウォーマーを整えながら言った。
「あとボイラー燃料」
「それも偉い」
部屋に戻ると、ランタンの明かりの下で夕食にした。
缶詰を開け、湯を沸かしてインスタント麺に注ぐ。温かいものがあるだけで、部屋の冷たさは少し和らいだ。
食後、ミズホは記録をつけた。
能代出発。
雪ちらつくが風なし。
道の駅ふたついで大館方面通行可を確認。
国道7号線を進み、夕方前に大館市中心部へ到達。
国道沿いホテルへ投宿。
電気なし。手持ち照明使用。
ボイラー燃料残存。大浴場に湯を貯め入浴可能。
サヤはロビーから持ってきたパンフレットをぱらぱらめくっていた。
「ねえ、大館って本当に秋田犬の町なんだね」
ミズホが顔を上げる。
「秋田犬は有名だね」
「これ、ハチ公のことも載ってる」
その言葉に、シオナの手が止まった。
サヤはパンフレットを広げた。
そこには秋田犬の写真と、忠犬ハチ公の由来が簡単に紹介されていた。大館がハチ公のふるさとであること。駅前や観光施設に関連する像や展示があること。人を待ち続けた犬として、多くの人に知られてきたこと。
ランタンの明かりが、紙面の犬の写真を照らしていた。
シオナは黙ってそれを見た。
サヤが気づく。
「シオナ?」
シオナは少し遅れて答えた。
「渋谷で見た」
「ハチ公?」
「うん」
その声は静かだった。
ミズホもペンを置いた。
シオナはゆっくり話し始めた。
「サヤと会う少し前。東京を抜けていた時、渋谷を通った」
サヤは黙った。
自分と出会う前のシオナの話を、あまり多くは聞いていなかった。
「山手線の高架をくぐったら、景色が変わってた。人の声はなくて、風がビルを抜ける音だけがしてた。スクランブル交差点は草に覆われていて、シカやタヌキや猫が通ってた」
ミズホは静かに聞いていた。
「ハチ公像の周りに、動物が集まってた。犬も猫もいて、像の足元を寝床にしてた。ツタが絡んで、森の守り神みたいだった」
ミズホはパンフレットの写真とシオナを交互に見た。
「渋谷が……そんな風に」
「うん」
シオナはランタンの光を見つめた。
「その時、思ったんだ。ずっと待っていたのかって」
誰を。
何を。
人をなのか。
街をなのか。
それとも、もう戻らない何かをなのか。
シオナ自身にも、はっきりとは分からなかった。
サヤは小さな声で言った。
「それで、大館がハチ公のふるさと」
「今、知った」
シオナはパンフレットに視線を落とした。
「ルートを決めた時は知らなかった。ただ、101号線は危ないから、7号線で大館に出ようって決めただけ」
ミズホは静かにうなずいた。
「その方がいいと思う。偶然つながった方が、たぶん本当っぽい」
サヤはパンフレットを丁寧に畳んだ。
「明日、見に行けるかな。ハチ公の像」
シオナはすぐには答えなかった。
窓の外では、雪がわずかに舞っている。
電気のないホテルの一室で、ランタンだけが小さく光っている。
渋谷のハチ公は、草と動物たちに囲まれていた。
大館のハチ公は、どんな姿で待っているのだろう。
「行けるなら」
シオナは言った。
「少しだけ、見に行きたい」
ミズホはノートに小さく書き足した。
大館。
ハチ公のふるさと。
明日、状況が許せば確認。
サヤは布団を敷きながら言った。
「東京で待ってた犬と、故郷の犬か」
ミズホが答える。
「同じ犬だけど、場所が違うと意味も変わるね」
シオナは窓の外を見た。
東京の谷底で、緑に包まれていた像。
秋田の雪の町で、これから会うかもしれない像。
終末の中で、ハチ公は二度現れる。
一度目は、人のいなくなった東京で。
二度目は、まだ人の手が残っているかもしれない故郷で。
その偶然が、シオナには少しだけ不思議だった。
大館の夜は静かだった。
電気はなく、街全体も暗い。
けれど部屋にはランタンの明かりがあり、湯で温まった体があり、畳まれたパンフレットがあった。
三人はその夜、ハチ公の故郷で眠った。
明日の朝、雪がひどくなければ、シオナはもう一つのハチ公像を見ることになる。
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