望郷のハチ公像
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
翌朝、大館の空は重かったが、雪は強くなかった。
ホテルの窓から見える国道7号線は、うっすらと白く縁取られている。昨夜のうちに積もった雪が路肩に残り、道の中央だけが車の通った跡で黒く見えていた。
電気のない部屋で、三人はランタンの明かりを消す前に朝食を済ませた。乾麺の残り、缶詰、温かい茶。ホテルのボイラーのお陰で昨夜湯に入れたおかげで、体の芯はまだ少し軽かった。
サヤはパンフレットをもう一度広げていた。
「秋田犬会館って、そんなに遠くないんだよね」
ミズホは地図を見ながら答えた。
「距離としては近い。でも、道幅や周辺を見ると、90式で直接乗り付けられる場所じゃないと思う」
シオナも地図を覗いた。
「国道沿いの広い場所に停めて、歩こう」
「歩くの?」
「うん。会館の近くにコンビニがある。駐車場が広そうなら、そこに90式を置く」
サヤは少し笑った。
「コンビニに90式を駐車」
ミズホが即座に言う。
「買い物じゃなくて一時停車」
「分かってるって」
シオナはパンフレットの「望郷のハチ公像」という文字を見た。
望郷。
その二文字が、昨日から胸の奥に残っていた。
渋谷のハチ公像は、故郷へ帰れなかった犬の像だったのだろうか。
それとも、人を待ち続けた犬が、最後には人のいない街で動物たちに囲まれていたのだろうか。
答えはない。
けれど、大館にいる今なら、その像を見に行く意味はある気がした。
「出よう」
シオナが言うと、サヤとミズホもうなずいた。
三人は荷物をまとめた。
ホテルには、昨夜と同じようにメモを残した。
国道7号線沿いホテルに一泊。
電気なし。ボイラー燃料により大浴場使用。
本日、秋田犬会館方面を徒歩確認後、弘前方面への経路を検討。
サヤがメモを見て言った。
「観光っぽいけど、観光じゃないね」
ミズホは淡々と返す。
「確認だよ。地域の目印と人の痕跡を見る」
「でもハチ公も見る」
「それも確認」
シオナは少しだけ笑った。
「行こう。雪が強くならないうちに」
三人は90式へ乗り込んだ。
ホテルの駐車場から国道7号線へ出る。
シオナはいつも通り、速度を出さない。大館市内は能代からの道よりも建物が多く、交差点も増える。雪に埋もれた車や、閉じた店舗の前を慎重に抜けていく。
サヤは車長ハッチ側から外を確認していた。
「前方、コンビニの看板。駐車場広い。放置車両少なめ」
ミズホが地図を見る。
「会館まで徒歩で行ける距離。ここでいいと思う」
シオナは駐車場の端へ90式を入れた。
建物から少し離れ、出入口を塞がない位置。すぐに出られる向き。前にも後ろにも余裕を残す。
エンジンを切ると、あたりは静かになった。
コンビニは営業していない。
ガラスは割れていないが、中は暗い。入口前には雪が吹き込んでいた。
三人はまず周囲を確認した。
人影なし。足跡は古いものが少し。危険な気配はない。
シオナは防寒具を整えた。
「徒歩で行く。長くは離れない」
ミズホが確認する。
「ライト、地図、救急袋、携帯食、カイロ。無線は近距離用だけ持つ。90式から離れすぎない」
サヤはネックウォーマーを上げた。
「長靴で行く?」
「雪が残ってるから長靴の方がいい」
三人は防寒着や帽子にネックウォーマーを重ね、足元は熱塩共同区でもらった長靴にした。雪道を歩くには、それがいちばん信用できた。
サヤは自分の足元を見て言った。
「大館で長靴観光」
ミズホが言う。
「観光じゃない」
「分かってる。確認」
「そう」
シオナは90式を振り返った。
雪をかぶった車体。
外部ラック。
濡れ物箱。
砲塔上に機銃はない。砲弾もない。
戦うためではなく、ここまで来るための車両。
「少し待ってて」
誰に言うでもなく、シオナはそう呟いた。
三人はコンビニの駐車場を出て、秋田犬会館へ向かった。
道は細くなった。
90式で入るには、やはり気が進まない道だった。普通の車なら入れる。けれど、雪の残る市街地で90式を無理に進める場所ではない。
歩いて正解だった。
サヤは息を白くしながら言った。
「これ、90式で来なくてよかったね」
ミズホがうなずく。
「曲がるだけで大変だったと思う。建物や電柱に近い」
シオナは足元を見ながら歩いた。
「壊さなくていいものは壊さない」
「それ、いいね」
サヤが言った。
「終末でも、壊さなくていいものは壊さない」
道の先に、秋田犬会館が見えてきた。
建物は雪の中で静かに立っていた。
人の気配はすぐには感じない。だが、入口付近の雪は完全に埋もれてはいなかった。誰かが以前、軽く払ったような跡が残っている。
そして、その前に像があった。
ハチ公だった。
「……あった」
サヤが小さく言った。
望郷のハチ公像。
雪をかぶりながら、像は静かに立っていた。
渋谷で見た像とは違う。周囲に動物たちの群れはいない。ツタも絡んでいない。ビルの谷底でもない。
ここは故郷だった。
大館の雪の中で、ハチ公は遠くを見るように立っていた。
シオナは、しばらく動けなかった。
渋谷の光景が戻ってくる。
草に覆われたスクランブル交差点。
ビルの骨を抜ける風。
動物たちの通り道になった谷底。
犬や猫が寝床にしていた像の足元。
ツタに包まれ、森の守り神のように立っていたハチ公。
あの時、シオナはひとりだった。
90式の砲塔から、誰もいない渋谷を見ていた。
まだサヤにも会っていない。
ミズホもいない。
ただ、東京の終わりと、終わった後に生まれた静かな世界だけがあった。
「……ここが、故郷なんだ」
シオナの声は、雪に吸い込まれるほど小さかった。
サヤは隣に立った。
「渋谷のハチ公とは、違う?」
シオナはゆっくりうなずいた。
「違う。渋谷のは、街を見守ってた。人がいなくなった後の街を」
「こっちは?」
シオナは像を見た。
「帰りたかった場所みたいに見える」
ミズホは像の足元を見ていた。
「雪、少し払われてるね」
シオナも気づいた。
完全に放置されているなら、足元はもっと雪に埋まっていたはずだった。
誰かが来ている。
誰かが、ここを気にしている。
サヤが少し明るい声で言った。
「じゃあ、大館にも人がいるね」
「うん」
ミズホは周囲を見回した。
「少なくとも、ここを忘れていない人がいる」
その言葉が、シオナには少し響いた。
忘れていない人。
終末のあと、守れるものは限られている。
食料、燃料、電気、薬、道。
そのどれもが大事だ。
けれど、その中で誰かが、ハチ公像の足元の雪を払った。
生きるために絶対必要なことではない。
でも、人が人でいるためには必要なことかもしれなかった。
シオナは像の前で立ち尽くした。
「渋谷では、ハチ公の周りに動物がいた。犬も猫も、シカもタヌキも。あの街はもう人のものじゃなくなってた。でも、ここは……」
ミズホが静かに続ける。
「まだ人が来ている」
「うん」
サヤは像を見上げた。
「待ってるんじゃなくて、迎えてるみたいにも見えるね」
シオナはその言葉に少しだけ笑った。
「そうかもしれない」
望郷のハチ公像は、雪の中で何も言わなかった。
けれどシオナには、その沈黙が渋谷のハチ公とは違うものに思えた。
渋谷の像は、終わった街を見ていた。
大館の像は、まだ帰ってくる人を待てる場所にいた。
三人はしばらくそこにいた。
長居はしない。
体が冷える。
90式もコンビニの駐車場で待っている。
ミズホが最後に、ノートを開いた。
「記録していい?」
シオナはうなずいた。
ミズホは短く書いた。
大館市内。
秋田犬会館前、望郷のハチ公像を確認。
像周辺に雪払いの跡あり。
人の出入り、または管理痕跡あり。
サヤが覗き込んだ。
「もう少し情緒を入れてもいいんじゃない?」
「記録だから」
「じゃあ別枠で」
ミズホは少し考えて、最後に一行だけ足した。
渋谷のハチ公とは違う静けさ。
シオナはそれを見て、何も言わなかった。
三人は会館を離れ、来た道を戻った。
コンビニの駐車場に、90式が見えてくる。
雪の中で、重い車体が静かに待っていた。
サヤが息を吐いた。
「戻ってきた」
ミズホが言う。
「この後は、大館の人の痕跡を探す。像の雪を払った人がいるなら、どこかに拠点があるかもしれない」
シオナは90式を見上げ、それからもう一度、秋田犬会館の方を振り返った。
「うん。ここは終わってない」
渋谷の谷底で、世界は人から離れていった。
大館の雪の中では、人がまだ何かを残そうとしていた。
同じハチ公なのに、見せるものは違っていた。
三人は再び90式に乗り込んだ。
次に探すのは、像を忘れなかった人たちだった。
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