第十五話 いけない子
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第十五話 いけない子
それからしばらく、変わり映えのない日常が続いた。
少なくとも、ノアの前ではそう見えるようにしていた。
朝起きて、ノアと一緒に朝食を作る。
ハートの城へ行き、ノアの執務室で資料整理をする。
夕方には家へ戻り、夕食を食べて、ノアの「おやすみ」を聞いて眠る。
穏やかで、優しくて、少し不思議な日々。
けれどアリスは、その中でずっと探していた。
帰るための糸口を。
最初は包丁の持ち方ひとつ危なっかしかったアリスも、今ではムラサキねむりかぶを切る時、野菜のあくびにつられて包丁を落とさないくらいには慣れていた。
ノアは相変わらず、にんじん柄のエプロンをつけて台所に立つ。
白銀の髪をゆるくまとめ、白い兎耳をぴんと立て、眠たげな野菜を当然のように刻んでいく。その姿は可愛らしくて、少しおかしくて、けれど妙に頼もしかった。
「アリス、指」
「分かっています」
「分かっている子ほど危ないんだよ」
「その言い方、おじい様みたいです」
「それは光栄だね」
ノアはそう言って、砂糖菓子みたいに甘く笑う。
その笑顔を見るたび、アリスの胸は少しだけ温かくなった。
同時に温かくなる自分が、少し怖かった。
ここは帰る場所ではない。
そう何度も思うのに、朝の匂いも、焼きたてのパンも、白い指が差し出すカップも、少しずつアリスの中へ入り込んでくる。
まるで、この国に根を張ってしまうみたいに。
朝食を終えると、二人でハートの城へ向かう。
アリスは灰茶色の髪を緑のリボンで結び、オリーブ色の瞳をした“子ぶた娘ルーシー”として、ノアの隣を歩いた。
城では、ノアの執務室で資料整理をする。
日付順に書類を並べる。赤い紐で束ねる。青い印のついたものは別にする。最初はただの紙束にしか見えなかった書類も、だんだん意味の違いが分かるようになってきた。
扉の報告書。
夢鳥の飛行記録。
薔薇園の色彩管理。
異界干渉の微細な揺れ。
読めば読むほど、この国の“普通”が少しずつ分かっていく。けれど同時に、自分がまだ何も知らないことも思い知らされた。
アリスは、書類を整えるふりをしながら、目につく言葉を少しずつ拾った。
立ち入り禁止区域。
境界の揺れ。
閉鎖された通路。
異界との接続記録。
けれど、長く見すぎてはいけない。
ノアは優しかった。
アリスが疲れていれば紅茶を淹れてくれる。眠そうにしていれば、何も言わず上着をかけてくれる。知らない料理に戸惑えば、先にひと口食べて「大丈夫」と笑ってくれる。
その優しさは、嘘には見えなかった。
だからこそ、ノアの時折見せる行動がひどく不気味だった…。
アリスが扉の報告書を長く見ていると、いつの間にか背後に立っている。
禁止区域の文字を見つけて指を止めた時だけ、甘い声が少し低くなる。
「ルーシー、それは君が読むものじゃないよ」
そう言って、いつもの甘い笑顔で微笑む。
けれど、その書類は次の日には棚から消えていた。
そういうことが、何度かあった。
ノアが執務室を離れる時は、必ず鍵をかけていった。
カチャリ、と扉の向こうで鍵が回るたび、胸の奥が冷たくなる。
ノアの手のひらの上で生かされている。
甘い紅茶と、柔らかな毛布と、優しい声で、少しずつ帰り道を忘れさせるのかもしれない。
あれ以来、ガルと会うことはなかった。
廊下ですれ違うことも、執務室に訪ねてくることもない。あの日の会話が夢だったのではないかと思うほど、ガルはアリスの前から姿を消した。
けれど、彼の言葉は残っていた。
『節度を持った行動をお願いします』
あの静かな忠告だけが、胸の奥に残っている。
ノアへの不信感は日々募っている。
消えた花畑。
鍵のかかった部屋。
夢と記憶の狭間でみた、幼い自分に向けられていた小瓶。
それらはアリスの胸の奥に、小さな棘のように残っていた。
けれど、一緒にいる時間が長くなればなるほど、ノアはアリスの日常にもなっていった。
朝、彼の声で一日が始まる。
夜、彼の「おやすみ」で一日が終わる。
パンの焼ける匂い。紅茶を淹れる白い指。書類に目を通す横顔。眠そうにしていると、何も言わず上着をかけてくれる手。
アリスが足元を見失いそうになると、彼は必ず少し前で待っていた。
ノアは家族のようだった。
兄のようで、祖父のようで、時々それよりもずっと近い。
この不思議な国で、アリスが朝起きて最初に探してしまう人になっていた。
だからこそ、苦しかった。
帰りたいと思う自分が、ノアを裏切っているように感じることがあった。
でも、帰りたい。
それもまた、嘘ではなかった。
お姉様がいる。
父と母の薔薇園がある。
おじい様が守ろうとした土地がある。
叔父レオニクとエドワードが好き勝手にしている屋敷を、そのままにしておくことなどできない。
アリスは、自分の帰る場所を忘れたくなかった。
たとえこの国に温かい食卓があっても。
たとえノアの隣が、少しずつ安心できる場所になっていても。
帰らなければならない場所がある。
だから、アリスは良い子の顔をした。
何も気づいていないふりをした。
ノアの隣で笑いながら、書類の言葉を覚え、街の道順を覚え、扉の噂を拾った。
ノアに怪しまれないように。
ルーシーとして。
けれど、胸の奥ではずっとアリスとして。
*
そんなある日。
その日はノアの仕事が休みで、二人は家で過ごしていた。
昼食を終えたあと、ノアは庭仕事をすると言って外へ出た。裏庭の花はもうなくなってしまったけれど、小さな畑の世話は相変わらず丁寧にしているらしい。
アリスは自分の部屋にいた。
窓辺に座り、膝に本を開いていた。けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。
視線は何度も窓の外へ向かった。
庭ではノアが白いシャツの袖をまくり、土を整えている。髪を軽く後ろで結び、兎耳が時々ぴこりと揺れていた。
その姿は穏やかだった。
何も隠していないように見えた。
誰かを傷つけるような人には、どうしても見えなかった。
だからこそ、胸の奥が苦しくなる。
信じたい。
でも、何も知らないままではいられない。
このままでは、きっと自分は慣れてしまう。
鍵の音にも。
ルーシーという名前にも。
帰れない日々にも。
ノアの隣にいることにも。
それが、何より怖かった。
そう思った時だった。
ドンッ!!
突然、窓に黒い影がぶつかった。
「きゃっ」
アリスは小さく声を上げ、本を取り落とした。
慌てて窓へ駆け寄る。
屋根の上に、黒いカラスが倒れていた。羽を広げ、目を回している。首には小さな筒が巻きつけられていた。
アリスは庭を見た。
ノアは畑の方にいる。
こちらには気づいていない。
心臓が、強く鳴った。
今なら。
そう思ってしまった自分に、アリスは少しだけ息を呑んだ。
けれど、手は止まらなかった。
アリスはそっと窓を開けた。身を乗り出すと、少し足元がすくむ。けれど屋根は思ったより広く、手を伸ばせばカラスに届きそうだった。
「大丈夫?」
アリスはカラスをそっと抱き上げ、部屋の中へ入れた。
ベッドの上に布を敷いて寝かせる。カラスは「カァ……」と情けない声を漏らした。怪我はしていないようだ。ただ、勢いよく窓にぶつかって目を回しているだけらしい。
水を少し含ませ、羽を整えてやる。
それから、首に巻かれていた筒を外した。
中には一通の手紙が入っていた。
封には、おかしな時計屋の印。
アリスの心臓が強く跳ねた。
もう一度、窓の外を見る。
ノアはまだ庭仕事をしている。
気づいていない。
アリスは震える指で封を開けた。
そこに書かれていた内容は、短かった。
『時計、直った。取りに来るなら今日がいい。明日になると昨日へ戻る。塩は百杯まで。――時計屋』
時計が直った。
帰るための時計が。
アリスは、手紙を胸元に押し当てた。
息が浅くなる。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
帰れるかもしれない。
お姉様に会えるかもしれない。
屋敷へ戻れるかもしれない。
でも、ノアには言えない。
言えばきっと止められる。
守るためだと言って、また鍵をかけるかもしれない。
アリスは手紙を素早く畳み、ドレスの内側へ隠した。
カラスはようやく目を覚まし、ぼんやりした様子で首を振っている。
「ごめんなさい。少しここで休んでいてね」
アリスは小さく囁いた。
窓の外では、ノアが何も知らずに畑の土を整えていた。
その白い背中を見て、アリスの胸が痛んだ。
今、自分は秘密を持った。
ノアに言えない秘密を。
それは、アリスにとって初めての小さな反抗だった。
その日の午後、ノアが言った。
「久しぶりに街へ買い物に行こうか」
アリスは一瞬、息を止めた。
「街へ?」
「うん。食材も買いたいし、ルーシーの服も少し増やした方がいい。ずっと同じ服じゃ退屈だろう?」
街へ行ける。
時計屋へ行く機会がある。
けれど、ノアも一緒だ。
隙を見つけなければならない。
アリスは、できるだけ自然に笑った。
「行きたいです」
「よし。じゃあ支度しよう」
ノアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、また罪悪感が刺さる。
街は相変わらず賑やかだった。
歪んだ屋根。喋る看板。勝手に開く小さな扉。行き交う獣耳の人々。空を泳ぐ魚型のランタン。
ノアはいつものように、アリスの少し横を歩いていた。
近すぎず、遠すぎず。
けれど今日は、その距離がいつもより狭く感じた。
カフェでお茶をした。
アリスは甘いミルクティーを頼み、ノアは白い花が浮いた紅茶を飲んだ。彼は時々、アリスのカップが空になっていないか確かめ、菓子皿を少しこちらへ寄せてくれた。
その自然な優しさが苦しかった。
洋服屋にも入った。
ノアは淡い緑のリボンをアリスの髪に当てて、「こっちも似合う」と笑う。
アリスはうまく笑い返した。
でも頭の中は、ずっと時計屋のことでいっぱいだった。
どうすればいい。
どうすれば、ノアから離れられる。
ノアは隙がなかった。
買い物をしていても、カフェで席を立っても、彼の視線は必ずアリスを追っていた。
束縛されているわけではない。
むしろ、優しく見守られている。
でも今のアリスにとって、その優しさは柔らかな檻だった。
その時、八百屋の前でアリスの目が止まった。
木箱いっぱいに、紫色のかぶが並んでいる。
ムラサキねむりかぶ。
切る時にあくびをする、あの野菜。
アリスの頭に、小さなひらめきが落ちた。
これなら。
「ノア」
「うん?」
「今日は、良いねむりかぶを選ぶ練習がしたいです」
ノアが少し驚いたように目を丸くした。
「急に勉強熱心だね」
「料理の手伝いをするなら、素材の選び方も覚えたいんです」
「いい心がけだ」
ノアは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、また胸が痛む。
ごめんなさい。
心の中で呟きながら、アリスはノアを八百屋の前へ連れていった。
箱の中には、大量のねむりかぶが詰まっていた。
どれも丸々としていて、つややかで、とても眠そうだった。
「良いものは、葉がしっかりしていて、皮に張りがあるもの」
ノアが説明する。
「あと、あくびが上品なもの」
「上品なあくび?」
「ふぁあ、くらいが良い。ふごぉ、は育ちすぎ」
ノアは真面目だった。
アリスも真面目な顔で頷く。
その間にも、ねむりかぶたちは次々とあくびをした。
「ふぁ……」
「ふぁあ……」
「ふぁ……ぁ」
ノアの白い耳が、少し下がる。
赤い瞳がとろんとしてきた。
効いている。
アリスはさらに、袋いっぱいにねむりかぶを買った。
袋の中で、かぶたちは小さくあくびを繰り返す。
ノアは歩きながら、少しずつ眠そうになっていった。
「ノア、大丈夫ですか?」
「うん……少し、眠いだけ」
「公園のベンチで休みましょう」
「そう、だね……」
アリスはノアの手を引いて、公園へ向かった。
芝生の中に、白いベンチがあった。
ノアをそこへ座らせると、彼は珍しく抵抗しなかった。
「少し横になった方がいいです」
「アリスが、看病してくれるの?」
眠そうな声で、ノアが笑った。
いつもより幼い顔だった。
アリスの胸が、きゅっと痛くなる。
「はい。だから休んでください」
「良い子だね……」
ノアはそう言うと、ふらりと身体を傾けた。
そして、そのままアリスの膝に頭を乗せた。
アリスは固まった。
「ノ、ノア?」
「少しだけ……」
白銀の髪が膝の上に広がる。
白い耳が力なく垂れる。
長いまつげが伏せられ、赤い瞳が隠れた。
眠っているノアの顔は、少し幼く見えた。
いつもの甘い笑顔も、掴みどころのない軽さもない。そこにいるのは、長く何かを抱えて疲れてしまった青年のようだった。
アリスの心臓が、うるさく鳴った。
膝の上の重み。
近い呼吸。
甘い薔薇のような香り。
この人を置いていく。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
でも。
帰らなければ。
アリスは唇を噛んだ。
そっとノアの頭を持ち上げる。
起こさないように、ゆっくり、ゆっくり。
ベンチの上に彼の頭を下ろし、白い外套を少し引き寄せて身体にかけた。
「ごめんなさい」
小さく呟く。
ノアは眠ったままだった。
アリスは立ち上がり、走り出した。
時計屋へ。
時間がない。
ノアが起きる前に。
時計塔は相変わらず、空へ突き刺さるようにそびえていた。
アリスは見上げる間も惜しんで、中へ駆け込んだ。
階段を登る。
一段。
また一段。
前に来た時よりも身体は動く。
それでも千二百三十四段は容赦がなかった。
息が苦しい。
足が震える。
脇腹も少し痛む。
けれど止まらなかった。
帰るため。
お姉様のため。
屋敷のため。
そして、自分の意志で選ぶため。
アリスは歯を食いしばって登った。
ようやく頂上に着いた時には、肺が焼けるようだった。
扉を開ける。
中では、相変わらずおかしな時計屋が机の上に座っていた。
「客人! 遅い! いや、早い! どちらにしても机に座れ!」
アリスは息を切らしたまま言った。
「塩は百杯でお願いします」
時計屋の目が輝いた。
「百杯! 分かっておる! 百は美しい数だ。一杯、二杯、三杯……」
時計屋が嬉々として塩を数え始める。
アリスはその隙に奥の部屋へ向かった。
「確か……針を回していたわよね」
前回、ノアがやっていた動きを思い出す。
大きな柱時計。
長針を右へ。
短針を左へ。
秒針を少し引っ張って、弾く。
指が震えた。
でも、やるしかない。
アリスは慎重に針を動かした。
ボーン。
ボーン。
低い音が響く。
小さな扉が開き、中から服を着たカエルが出てきた。
「おや」
フロロは丸眼鏡の奥からアリスを見た。
「今日は一人かな?」
「はい。受け取りを頼まれて来ました」
アリスはポケットから手紙を取り出す。
「手紙もここにあります」
フロロは手紙を受け取り、ふむふむと頷いた。
「確かに、うちの手紙だね」
胸が少しだけ軽くなる。
疑われなかった。
フロロは奥の小箱から真鍮の懐中時計を取り出した。
「完全ではないが、動くところまでは戻したよ。あとは針の機嫌次第だね」
アリスは両手で時計を受け取った。
手のひらに、ずしりとした重みが落ちる。
これが。
これさえあれば。
「ありがとうございます」
「ただし、気をつけなさい」
トードが言った。
「時計は道具だが、道具は持ち主の心に反応する。気持ちが空回りすれば、望まぬ場所へ飛ぶこともある」
「……はい」
アリスは頷いた。
今は、それでもいい。
少なくとも、このまま何もしないでいるよりは。
アリスは足早に部屋を出た。
時計屋はまだ塩の杯数を数えている。
「四十七杯、四十八杯、昨日の四十九杯……」
アリスは息を潜め、ゆっくりと横を通り過ぎた。
時計塔の扉を抜けた瞬間、少女は深く息を吐いた。
「はぁ……」
手の中には、真鍮の懐中時計があった。
古びた金色の蓋。細い鎖。薔薇と兎と鍵の紋様。
壊れていたはずのそれは、今、掌の中でかすかに熱を帯びている。
成功した。
これで、帰れる。
そう思った、その時だった。
「まったく」
階段の下から、声がした。
甘いのに、冷たい声。
「いけない子だね……」
身体が凍りついた。
ゆっくり振り返る。
螺旋階段の下から、白い影が上ってくる。
白銀の髪。
血のように澄んだ赤い瞳。
月の光を集めたような、長い白兎の耳。
彼はいつものように微笑んでいた。
砂糖菓子みたいに甘く、やわらかく、綺麗な笑顔。
けれど、その笑顔には人の温度がなかった。
その恐怖さえ、綺麗な時計の歯車みたいに眺めている。
「ノア……」
「探したよ」
一段ずつ階段を上がってくる。
こつ。
こつ。
こつ。
靴音が、冷たい石壁に響いた。
彼が近づくたびに、凍るような緊張感が増していくのが分かった。
震える手で時計を胸元に抱きしめる。
「私は帰ります」
「家に?」
彼の赤い瞳が、わずかに細くなる。
「あの場所にもう君の居場所はないよ」
胸の奥を、細い針で刺されたようだった。
けれど、顔を上げる。
「それでも大切な場所です」
ノアの笑みが、ほんの少し鋭くなった。
その瞬間、気づいてしまった。
白兎は、最初から自分を自由にする気がなかったのだ。
アリスは窓辺へ向かった。
時計塔の丸い窓。
外には雲が広がり、その下にワンダラーの街が小さく見える。
怖い。
足がすくむ。
けれど、その時だった。
胸元の真鍮の時計が、かすかに震えた。
カチ。
カチ。
カチ。
止まっていたはずの針が、ひとりでに動き出す。
窓の外の空が、青白く歪んだ。
風が吹き込む。
ただの空ではなかった。
そこには、細い光の輪が浮かんでいた。
扉と呼ぶには頼りない。
道と呼ぶには、不安定すぎる。
けれど、確かに何かが開いている。
アリスは息を呑んだ。
これが帰り道かどうかは分からない。
ガルの言葉が、胸の奥をよぎる。
ー扉は、すべてが帰り道とは限りません。
分かっている。
それでも。
今ここで立ち止まれば、また何も知らないまま守られるだけになる。
「アリス」
ノアの声が低くなった。
怒鳴ってはいなかった。
焦ってもいなかった。
ノアはただ、淡々と告げる声で言った。
「運命は、決して君を離さないよ」
その静けさが、何より怖かった。
アリスは振り返る。
目に涙が滲んでいた。
「さようなら、ノア」
ノアの赤い瞳が、大きく見開かれる。
アリスは時計を胸に抱きしめた。
帰れる保証なんてない。
けれど、ここに残れば、帰るための意志まで眠ってしまう気がした。
だから、選ぶ。
自分の足で。
アリスは、青白い光の中へ飛び込んだ。
「……アリス!」
ノアの声が聞こえた。
次の瞬間、世界は光に飲み込まれた。
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