第十六話 樹海の館
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第十六話 樹海の館
目を覚ますと、知らない場所だった。
最初に感じたのは、湿った土の匂いだった。
頬に触れている草は冷たく、指先には崩れた土のざらつきがついている。身体の下は硬く、ノアの家の柔らかなベッドでも、城の執務室にあった深緑のソファーでもなかった。
アリスは、ゆっくりと目を開けた。
頭上には、深い緑が広がっていた。
高い木々が何重にも枝を伸ばし、空を覆い隠している。葉と葉の隙間から細い光が差し込んでいたが、その光はもう昼の色ではなかった。少し赤く、少し金色で、今にも森の奥へ沈んでいきそうな夕暮れの光だった。
森には不穏な静けさがあった。
遠くで鳥が一度鳴いた。葉の裏で小さな虫が擦れる。どこかで枝が折れる。見えないところに、何かがいる。
アリスは身体を起こした。
「……ここは」
胸の上を押さえる。
真鍮の時計は、まだそこにあった。
鎖に繋がれた時計の重みを感じた瞬間、記憶が一気に戻ってきた。
時計屋から時計を受け取り。
止めるノアに『さようなら』と言って青白い光の中へ飛び込んだ。
――アリス!
ノアのあんな声を聞いたのは、初めてだった。
ただ必死で、痛いほどまっすぐに自分を呼ぶ声。
アリスは時計を握りしめた。
帰れると思った。
この時計があれば、元の世界へ戻れると思った。
けれど、目の前にあるのは見知らぬ森。
ここが、元いた世界なのか…
それともまだ、不思議の国なのか…
アリスは立ち上がり、周囲を見渡した。
木々の幹はひどく太く、根は地面の上を蛇のように這っている。幹には青白い苔が光り、枝からはしましまの赤い実がぶら下がっていた。遠くの木の上で、見たことのない鳥がこちらを見ている。
それだけで、答えは分かってしまった。
ここはまだ不思議の国ワンダラーだ。
胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。
帰れなかった。
ノアを置いてまで飛び込んだのに。
あんな顔をさせて、あんな声で名前を呼ばせて、それでも自分の意志で選んだのに。
喉の奥が熱くなる。
泣きそうになった。
けれど、アリスは唇を噛んで堪えた。
ここで泣いても、道は見つからない。
森の中でひとりきり。
それが今の現実だ。
アリスは服の下へ時計を押し込み、ゆっくり歩き出した。
どこへ向かえばいいのかは分からない。
けれど、じっとしているよりはいい。日が落ちる前に、人のいる場所を探さなければいけない。
そう思って歩き出したものの、森は深かった。
光は少しずつ薄くなっていった。
夕暮れは、木々の間で早く沈む。
空が見えないぶん、夜が上からではなく、森の奥から滲み出してくるようだった。
アリスは何度も胸元の時計に触れた。
これさえあれば帰れる。
そう信じたかった。
けれど、今の時計は何も答えてくれない。ただ冷たい金属の重みだけを黙って伝えてくる。
ノアなら、どうしただろう。
そう考えてしまって、アリスはすぐに首を振った。
だめ。
今はノアのことを考えてはいけない。
彼は鍵をかけ。
閉じ込めていた。
大事なことを、ずっと隠している。
それは事実だ。
けれど、膝の上で眠っていたノアの顔が脳裏に浮かんだ。
少し幼くて、無防備で、ひどく疲れて見えた寝顔。
胸が痛んだ。
敵なのか、味方なのか。
信じていいのか、いけないのか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
その時だった。
背後から、低い鳴き声が聞こえた。
グルルルルッ。
アリスは足を止めた。
獣の声。
喉の奥で唸るような、湿った音だった。
もう一度、鳴き声がした。
さっきより近い。
アリスの身体から、血の気が引いていく。
振り返ってはいけない。
振り返ったら、足が動かなくなる。
そう思った瞬間、身体が勝手に走り出していた。
枝が腕に当たる。
葉が髪に絡む。
スカートの裾が根に引っかかる。
それでも走った。
後ろで、何かが地面を蹴る音がする。
ざっ。
ざっ。
重い。
大きい。
近づいてくる。
息が苦しい。
服の下で、胸の上の時計が何度も跳ねた。
「きゃっ!」
張り出した根に足を取られ、アリスは前のめりに転んだ。
手のひらが地面を打つ。
膝に痛みが走る。
すぐに起き上がろうとしたが、足が震えてうまく力が入らない。
獣の気配が近づく。
アリスは息を呑み、顔を上げた。
その時、頭上から声が降ってきた。
「あれ~? こんな所に人なんて珍しいな」
間の抜けた、けれど聞き覚えのある声。
アリスははっとして見上げた。
茶色の兎耳の少年が立っていた。
くせのある茶色の髪。
鼻筋に散ったそばかす。
少しつった目。
やんちゃそうな顔つき。
三月うさぎのロビンだった。
ロビンはアリスをじろじろと見下ろした。
「あれ~。確かお前、ノアのとこの」
アリスの心臓が跳ねた。
ロビンは、子ぶた娘ルーシーとして、前に会ったことを覚えているのだ。
ロビンは少し考えるように耳を揺らした。
「……あー、分かった。あの時計か」
「時計……?」
「俺がちょっと細工したやつ。本当ならノアが来るはずだったんだけどな」
ロビンは面倒くさそうに頭をかいた。
「手違いでお前が飛ばされたってことか。ややこしいな、ほんと」
アリスは胸元を押さえた。
時計に細工…?ロビンがやった…?
聞きたいことは色々あったけど、今ここで問い詰める余裕はなかった。
森の奥から、また獣の唸り声がした。
グルルルルッ。
ロビンの耳がぴんと立つ。
「あー、そっち行くと食われるぞ」
「食われる……?」
「樹海狼だよ。夜前になると腹減って機嫌悪いんだ」
聞きたくない言葉だった。
ロビンはアリスを見下ろして、短く言う。
「立てるか?」
「……はい」
アリスはなんとか立ち上がり、膝についた土を払った。
すると、ようやく自分のすぐ近くに古い洋館が建っていることに気づいた。
森の奥に沈むように佇む館だった。
蔦の絡まる壁。
傾いた屋根。
黒く沈んだ窓。
庭には枯れた薔薇と、逆さまに生えたキノコが並んでいる。
前にロビンが、マッドのところへ行くと言っていた。
ここが、イカれた帽子屋マッドの館なのだろう。
ロビンはぶっきらぼうに言った。
「夜になると帰り道がなくなる。来いよ。マッドんとこで夜明けまでいればいい」
「帰り道が、なくなるんですか?」
「この森、夜になると道が寝るんだよ。起きてる道を探すの大変なんだからな」
意味は分からない。
けれど危険だということは分かった。
アリスは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼とかいい。調子狂う」
ロビンはそう言って、先に歩き出した。
アリスも慌てて後ろに続く。
洋館の扉の前に着くと、ロビンは遠慮なく扉を開けた。
「帰ったぞー!」
大きな声が、古い館の中に響いた。
中は外から見た通り古かったが、不思議と荒れてはいなかった。
廊下には古い絨毯が敷かれ、壁には奇妙な帽子がいくつも飾られている。羽根飾りの帽子、黒いリボンの帽子、目玉のついた帽子、なぜかため息をついている帽子。
天井から吊られたランプも帽子の形をしていた。
階段は奥で暗く曲がり、どこかで時計が狂った時間を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
その音が、アリスの胸元の時計と呼び合っているようで落ち着かなかった。
しばらくして、奥から長身の男性が現れた。
黒いシルクハット。
全身黒ずくめ。
腰ほどまで伸びた長い黒髪。
紫色の瞳。
首には水晶の首飾り。
彫刻のように端正な顔立ちは、息を呑むほど美しかった。切れ長の目には大人の色気があり、ただ立っているだけで周囲の空気が少し重くなる。
イカれた帽子屋、マッド。
アリスは思わず背筋を伸ばした。
マッドの紫の瞳が、アリスへ向く。
じろりと見られただけで、胸がどきりとした。
「ロビン」
マッドの声は低く、静かだった。
「その子は」
「ノアんとこの子ぶた娘」
ロビンは簡単に言った。
「たぶん時計の手違いで飛ばされてきたっぽい」
マッドはアリスを見続けている。
その視線は冷たいわけではない。
けれど深い。
アリスの姿ではなく、もっと奥を見ようとしている目だった。
アリスは口の中が乾いていくのを感じた。
今の自分は、彼らには子ぶた娘ルーシーに見えているはずだ。
「名前は?」
マッドが尋ねた。
アリスは一瞬迷った。
ノアから、不思議の国で〈アリス〉という名前を軽く扱ってはいけないと、何度も聞かされてきた。
きっと、ここで名乗っていい名前はひとつだけだ。
「……ルーシーです」
アリスは視線を伏せ、そっと礼をした。
「すみません。一晩お世話になります」
沈黙が落ちる。
マッドの眉が、ほんのわずかに動いた。
「本当の名は答えぬか」
その言葉に、アリスの胸がどきりとした。
マッドはしばらくアリスを見ていた。
紫色の瞳は、奥に隠した秘密まで見透かそうとしているようだった。
やがて、彼は薄く笑う。
「賢い」
「え?」
「迷い子が本当の名前を軽々しく口にしないのは、良い判断だ」
アリスは返す言葉に困った。
叱られるかと思った。
怪しまれるかと思った。
けれど、褒められた。
その静かな声に、アリスはほんの少しだけ息を吸う。
今なら、聞けるかもしれない。
ノアがここへ来る前に。
「あの」
アリスは胸元の時計を、服の上からそっと押さえた。
「帰るための手掛かりを、探しているんです」
マッドの紫の瞳が、わずかに細くなった。
ロビンも、こちらを見る。
「私は……元いた場所へ帰りたいんです。何か、知りませんか。扉のことでも、道のことでも」
マッドはすぐには答えなかった。
館のどこかで、狂った時計がひとつ鳴る。
カチ。
カチ。
カチ。
その音だけが、古い廊下に細く響いた。
「帰る扉なら、ある」
マッドが静かに言った。
アリスの心臓が、大きく跳ねる。
「本当ですか?」
「この樹海には、古い扉がある。この世界に最初に出来た扉だ」
「最初に……」
アリスは思わず聞き返した。
マッドは薄く笑う。
「ワンダラーが今の形になるより前から、そこに在った扉だ。国が道を覚えるより先に、扉だけがあった」
言葉の意味は、すべて分かったわけではない。
けれど、それが特別な扉なのだということだけは分かった。
アリスは一歩、身を乗り出す。
「その扉は、どこにあるんですか」
ロビンが顔をしかめた。
「あそこ行く気かよ。やめとけって。古い扉は機嫌悪いぞ」
「でも……」
「だいたい、あれは開かねぇよ」
ロビンはぶっきらぼうに言った。
「鍵がなきゃな」
鍵。
その言葉に、アリスの喉が小さく鳴った。
マッドの視線が、ゆっくりとアリスへ戻る。
その瞳は、胸の奥に隠した名前の輪郭を見ているようだった。
「それって薔薇の鍵ですか?」
その一言で、部屋の空気が変わった。
アリスは息を止める。
時計塔でも聞いた言葉。
どこにあるかも分からない。
けれど、帰るために必要なもの。
「それって、どこにあるんですか?」
マッドはすぐには答えなかった。
ただ、薄く笑う。
「ある少女が持っている」
「ある少女……?」
「この世界の均衡を握る存在」
アリスの指先に、力が入った。
嫌な予感がした。
聞いてはいけないのに、聞かなければいけない。
そんな言葉が、ゆっくり近づいてくる気がした。
マッドは静かに言った。
「アリスだ」
ドキリ、と胸が鳴った。
紅茶の湯気も、廊下の時計の音も、一瞬だけ遠のいた。
――――アリス。
今、自分が隠している名前。
まさか自分が…
薔薇の鍵を持つ存在…
アリスは息を呑み、何も知らないルーシーの顔を保とうとした。
けれど指先だけは、服の布地をきつく掴んでいた。
その瞬間、館の空気がふっと冷える。
まるで、誰かがその言葉を聞いていたみたいに。
マッドは視線をロビンへ移した。
「客人に、お茶を」
「お、ちょうどケーキ買ってきた!」
ロビンが包みを掲げた。
こうして、奇妙なお茶会が始まった。
食堂の長いテーブルには、三つのカップケーキが並べられた。
どれも見たことのない柄をしている。
一つは水玉模様。
一つは時計の針の模様。
一つは黒い帽子の模様。
「……三つ、あるんですね」
アリスはそれに気づいて、思わず口にしてしまう。
ロビンの動きが止まった。
マッドも何も言わなかった。
空気が一瞬だけ変わる。
それまで館に満ちていた奇妙な賑やかさが、すっと遠のいたようだった。
「……三個目は」
ロビンがぶっきらぼうに言った。
「消えた仲間の分」
それだけだった。
アリスは、それ以上聞けなかった。
聞いてはいけない痛みが、そこにある気がした。
*
お茶会は不思議だった。
ロビンはとにかく騒がしい。
今日街で見た変な客の話。
走るチーズの話。
帽子屋の看板が勝手に泣いていた話。
三月うさぎに向かって失礼なことを言ったパン屋の話。
話題は飛び跳ねる兎のようにあちこちへ移り、追いかけるだけで大変だった。
けれど、その中で時々ノアの話も出た。
「あの白兎さ、ほんっと腹立つんだよ」
ロビンはケーキを頬張りながら言った。
「涼しい顔して嫌味言うし、こっちが怒ると余計笑うし。あいつの笑顔、砂糖みたいな顔して中身ぜったい薬草だぞ。苦いやつ」
アリスは少しだけ笑いそうになった。
でも黙って聞いていた。
「でも昔っから、お前みたいな迷い子の面倒だけは、よく見てたな」
ロビンの声が、少しだけ小さくなる。
「……てゆー俺も、迷い子だったけど」
アリスの胸が揺れた。
ロビンも、迷い子。
そう聞いた瞬間、目の前の三月うさぎが、ただ騒がしくて口の悪い少年ではないのだと、少しだけ分かった気がした。
自分の知らないノア。
甘い笑顔で隠している、もっと古くて重いもの。
そして、ノアに助けられたのは、自分だけではなかった。
そう思うと、あの人を簡単に敵だとは言えなくなる。
でも、味方だと信じきることも、まだできなかった。
ロビンは、照れ隠しみたいにケーキを乱暴に頬張ると、ふと思い出したように続ける。
「そういやさ、最近どこ行ってもアリス、アリスってうるせぇよな」
アリスの手が止まった。
紅茶のカップが、わずかに揺れる。
マッドが静かにロビンを見る。
「その名を、あまり大きな声で言うんじゃない」
「別にいいだろ。どうせワンダラー中が探してんだし」
ワンダラー中が…
アリスは喉を鳴らした。
自分は探されている。
ノアだけではない。
マッドだけでもない。
この国そのものが、アリスを探している。
その時、マッドの視線がゆっくりとアリスへ移った。
紫色の瞳は、ただ静かにアリス見ている。
「…どうした」
マッドが、低く言った。
「……先ほどから、手が止まっているようだが」
アリスは息を呑んだ。
何でもない、と言わなければいけない。
けれど声は、すぐには出なかった。
「すみません……お茶が、少し熱くて」
アリスはぎこちなくカップを持ち直し、紅茶をひと口飲んだ。
温かい液体が喉を通る。
けれど胸の奥の冷たさは、少しも溶けなかった。
大丈夫。
きっと、まだ気づかれていない。
少なくとも今の自分は、子ぶた娘ルーシーだ。
だけど、その仮面が薄い紙一枚みたいに頼りないものに思えた。
その時だった。
「やあやあ、楽しそうだね~」
部屋の中に、突然、声が落ちた。
誰かが扉を開けた音はしなかった。
窓も閉まっている。
けれど、そこにいた。
暖炉の上に飾られた古い額縁の中から、にんまりと裂けた半月型の口だけが浮かび上がる。次に、ぎょろりとした目が二つ現れた。ぎざぎざの歯。外側へつんつんと跳ねた茶色の毛。やけに長い髭。最後に、ふさふさとした尻尾が煙のようにほどけて、チェシャ猫は額縁からするりと部屋の中へ滑り出た。
空気が、ぴたりと止まった。
さっきまでロビンの声で騒がしかった部屋が、一瞬で冷える。
長いテーブルの上には、食べかけのカップケーキが三つ。紅茶の湯気が細く立ちのぼり、古いシャンデリアの下でゆらゆら揺れている。壁にかかった帽子たちは、まるで見てはいけないものを見てしまったように、つばを少しだけ下げた。
チェシャ猫は宙に浮かんだまま、身体をくねらせる。
その笑みは、可愛らしさの皮を被った刃物みたいだった。
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