矢立ハイツの宴会場
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
道の駅やたて峠の建物から少し移動すると、雪の中に大館矢立ハイツの建物が見えた。
山の中の温泉宿泊施設らしい、少し古びた落ち着いた外観だった。
看板には雪が積もり、入口の周囲にも白い層ができていたが、人の手は入っていた。完全に放棄された建物ではない。玄関前だけは雪が払われ、出入りできるようになっている。
巡回班の年配の男性が、肩についた雪を払いながら言った。
「今日はここに泊まるといい。峠を越えるなら明日の朝だ」
シオナは北へ続く国道を見た。
道はまだ見える。
だが、雪は降り続いている。山の上の方は白く曇り、境目が分からない。
進めるかもしれない。
でも、進まない方がいい。
その判断を、今のシオナは素直に受け入れられた。
「お世話になります」
三人は90式を建物から少し離れた広い場所に停めた。すぐに出られる向きで、通路を塞がない位置に置く。外部ラック、濡れ物箱、砲口カバー、ハッチ周りを確認し、降り始めた雪を軽く払う。
サヤは車体を見上げた。
「また白くなってきたね」
ミズホが濡れた手袋を確認しながら言う。
「明日の朝も除雪からだね」
「冬の朝礼」
サヤがそう言うと、シオナが少し笑った。
「もう慣れてきた」
「慣れたくないけどね」
三人は必要な荷物だけを持って、大館矢立ハイツの中へ入った。
館内は薄暗かった。
電気は一部だけ生きているらしく、廊下の奥で弱い照明がついている。暖房は全館ではなく、使う部屋と共用部分だけに限っているようだった。
和室を一部屋あてがわれた。
畳。
押し入れの布団。
低い机。
窓の外には、雪に沈む山と国道。
サヤは荷物を置くと、畳に手をついた。
「和室、落ち着く」
ミズホは室内を確認した。
「窓は無事。布団も使える。照明は弱いけど、手持ちのランタンを足せば大丈夫」
シオナは窓から外を見た。
90式が見える。
雪をかぶり始めた重い車体が、駐車場の端に静かに停まっている。
「ここでよかった」
その言葉に、サヤもミズホもうなずいた。
昼食は宴会場を使うことになった。
かつては団体客や会合の客が食事をしたのだろう広い部屋に、今は長机がいくつか並べられている。派手な料理はない。だが、温かい汁物、米飯、漬物、缶詰を使った煮物、少量の乾物が並んでいた。
巡回班の人たちも一緒だった。
大館側の市職員。
消防団の人。
道路管理経験者。
碇ヶ関側から来た作業服の女性。
そして、地域の連絡役らしい年配の男性。
サヤは椀を持って、心底ありがたそうに息を吐いた。
「温かいご飯、助かります」
消防団の男性が笑った。
「こっちも、こんな客が来るとは思わなかったよ。90式で来る三人組なんて、昔なら冗談にもならん」
「今でも冗談みたいです」
サヤが答えると、少しだけ場が和んだ。
食事をしながら、情報交換が始まった。
まずミズホが、南側の経路を説明した。
神町駐屯地。
舟形の共同体。
新庄、最上川沿い、酒田。
にかほ、秋田駐屯地、能代、大館。
どこに人がいて、どこで電気が残り、どこで雪に足止めされたか。
巡回班の人々は黙って聞いていた。
年配の男性が言った。
「秋田駐屯地とつながったのは大きいな。大館側は、南の情報が細切れだった」
ミズホはうなずいた。
「こちらも、青森側の情報がほとんどありませんでした」
碇ヶ関側の女性が、汁物の椀を置いて言った。
「青森側も同じです。碇ヶ関、大鰐までは、細々とですが交流があります。お互いに無理のない日に、峠や国道沿いを見て、情報を置くくらいですが」
シオナはその地名を地図で確認した。
「大鰐までは、人がいるんですね」
「ええ。温泉施設や公共施設を使って、何とか残っています。大きな拠点ではありませんが、食料も水も完全に途切れてはいません」
サヤが少し身を乗り出した。
「弘前は?」
その問いに、宴会場の空気が少し重くなった。
碇ヶ関側の女性は、言葉を選ぶようにして答えた。
「弘前市とは、終末後は連絡が取れていません」
シオナは箸を止めた。
「まったく?」
「はい。少なくとも、私たちの範囲では」
道路管理経験者の男性が続けた。
「終末の前後、弘前市街では軽いパニックがあったと聞いています。駅、病院、市役所、商業施設、避難所。人が集まりました。警察も出た。自衛隊も出た。混乱を抑えようとしたんだと思います」
ミズホは静かに聞いていた。
「その対応で、人が集まりすぎた?」
男性はうなずいた。
「結果としては、そうです。発症者を分ける前に、人の流れが広がってしまった。警察も自衛隊も、止めるために出たのに、現場に出た人たちから感染が広がったらしい」
宴会場はしばらく静かになった。
それは誰かを責める話ではなかった。
止めようとした人たちがいた。
助けようとした人たちがいた。
そして、それがかえって広げてしまった。
ミズホは小さく言った。
「病院でも、同じようなことがありました」
サヤはミズホを見たが、何も言わなかった。
シオナは地図の弘前市のあたりを見つめた。
「それ以降は不明」
碇ヶ関側の女性はうなずいた。
「はい。大鰐より先、弘前中心部までは、こちらから確実に確認できていません。行こうとした人もいましたが、戻ってきた情報は断片的です。道路が完全に使えないわけではないようですが、中心部に入るのは避けています」
消防団の男性が言った。
「青森市はもっと厳しいと見ています」
サヤが顔を上げる。
「青森市も?」
「新幹線がありますからね」
年配の男性が言った。
「終末の初期、首都圏から逃げる人、戻る人、家族を迎えに行く人、いろんな人の流れがあった。東北新幹線で青森まで来た人流が多かったんです」
ミズホが補足するように言った。
「日本海側より、人の流れが太かった」
「そうです。秋田や大館の日本海側、内陸側は、もちろん被害はありました。でも青森市側は、交通の結節点として感染が入りやすかった。駅、港、市街地、避難所。広がり方が大きかったと聞いています」
シオナは地図上の青森市を見た。
青森。
大湊へ向かうには、いずれ青森県内のどこかを通らなければならない。だが、青森市そのものが安全とは限らない。
サヤがぽつりと言った。
「じゃあ、弘前も青森市も、簡単には入れないね」
碇ヶ関側の女性が頷いた。
「入るなら、情報を集めてからです。少なくとも、矢立峠を越えた勢いでそのまま弘前市街へ入るのは勧めません」
シオナは静かに答えた。
「分かりました」
ミズホはノートに記録していく。
碇ヶ関、大鰐までは細い交流あり。
弘前市とは終末後連絡途絶。
終末前後、弘前市街で軽いパニック。警察・自衛隊出動により人の集中と感染拡大。以降不明。
青森市は新幹線による首都圏からの人流が大きく、日本海側より感染拡大が大きかった可能性。
サヤはその文字を見て、少し眉を寄せた。
「大湊までは、まだ遠いね」
シオナは椀の湯気を見つめた。
「でも、青森側に人がいることは分かった。碇ヶ関と大鰐まではつながってる」
ミズホが言った。
「明日は峠を越えて、まず碇ヶ関。そこから大鰐。弘前市街へは、すぐには入らない方がいい」
「うん」
シオナはうなずいた。
「弘前は、外縁から見る。無理に中心へは行かない」
年配の男性が満足そうにうなずいた。
「それがいい。90式でも、入る場所を間違えれば出られなくなる」
サヤは少しだけ苦笑した。
「それ、最近何度も言われてます」
「それだけ大事なことなんだよ」
宴会場の窓の外では、雪が降っていた。
だが、建物の中には温かい汁物と、人の声があった。
この場所は、県境の手前だった。
秋田と青森の境目。
分かっている場所と、分からない場所の境目でもあった。
シオナは食事を終えたあと、地図をもう一度見た。
矢立峠。
碇ヶ関。
大鰐。
弘前。
青森。
大湊。
線は続いている。
けれど、その線の上には、空白が増えていく。
それでも、今日ここで得た情報は大きかった。
弘前が危ないかもしれないこと。
青森市の感染が大きかったかもしれないこと。
碇ヶ関と大鰐までは人がいること。
そして、明日の峠越えは朝にするべきだということ。
サヤは食後のお茶を両手で包みながら言った。
「今日、ここで止まってよかったね」
ミズホはうなずいた。
「うん。進まないで得られる情報もある」
シオナは窓の外の雪を見た。
「明日、越えよう」
誰も急かさなかった。
誰も勢いで進もうとは言わなかった。
矢立ハイツの宴会場で、三人は青森側の厳しさを知った。
同時に、そこにもまだ人がいることを知った。
峠の向こうは、完全な闇ではない。
ただ、慎重に進まなければならない白い道だった。
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