雪まみれの約束
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
矢立ハイツの宴会場での昼食は、食事というより、地図を囲んだ会議に近かった。
温かい汁物と米飯、漬物、缶詰を使った煮物。
質素ではあったが、山の中で雪を避けながら食べるには十分すぎるものだった。
巡回班の人たちは、大館側と碇ヶ関側の状況を三人に教えてくれた。
碇ヶ関には人が残っている。
大鰐とも細くつながっている。
だが、弘前市街とは終末後、確実な連絡が取れていない。
青森市は、新幹線で首都圏方面からの人流が大きかったため、日本海側や内陸の小さな町よりも感染拡大が激しかった可能性がある。
その話を聞きながら、ミズホはノートに記録していた。
サヤがぽつりと言った。
「でも、山形も新幹線はあるよね。神町は残ってたし、会津の方にもコミュニティがあった。何が違ったんだろう」
ミズホは少し考えた。
「人の流れの太さとか、乗り換えとか、どこで止まったかとか……いろいろあるんだと思う。新幹線があるだけで全部同じになるわけじゃない」
シオナは地図の青森市と山形方面を見比べた。
「便利な道が、いつも同じ結果を生むわけじゃないんだね」
巡回班の年配の男性がうなずいた。
「そういうことだと思います。道は人を運ぶ。助けにもなるし、悪いものも運んでしまう。どこで切れたか、どこで細くなったか、それで町の運命が変わったんでしょう」
それ以上、誰も深くは踏み込まなかった。
いま必要なのは、過去の検証ではなく明日の峠越えだった。
矢立峠を越え、碇ヶ関へ。そこから大鰐へ。弘前市街には、いきなり入らない。外縁から情報を拾う。
それだけを確認して、昼食の席は終わった。
巡回班は大館へ戻ることになった。
「こちらはこのまま戻ります。雪が強くなりすぎる前に下りたい」
作業服の女性が言った。
シオナは玄関先まで見送りに出た。
「ありがとうございました。明日は朝の様子を見てから越えます」
「それがいいです。峠は、行けると思った時ほど止まる場所を考えてください」
サヤが軽く手を振った。
「大館に戻る道、気をつけてください」
消防団の男性が笑った。
「そっちこそ。90式に風邪ひかすなよ」
「風邪ひくのは人間の方です」
ミズホが淡々と返すと、巡回班の人たちは少し笑った。
四輪駆動車が雪を踏みながら駐車場を出ていく。
大館側へ戻る車列が、国道7号線の白い道へ消えていった。
三人はしばらくそれを見送った。
そのあと、シオナは90式の方へ歩いていった。
「少しだけ雪を払っておく」
ミズホが振り返る。
「今?」
「明日の朝、少し楽になるかもしれないから」
雪はまだ降っていた。
強烈な吹雪ではない。けれど、山の雪は細かく、容赦なく肩や帽子に積もっていく。
シオナはブラシを持ち、ハッチ周りの雪を軽く払った。
砲口カバー、視界装置、外部ラック。
濡れ物箱の蓋。
手順はもう身についてきている。
だが、払ったそばから雪が積もった。
サヤが玄関の方から声をかける。
「シオナ、もう白くなってる」
「すぐ終わる」
シオナはそう言ったが、実際には自分の肩も帽子も、袖も白くなっていた。手袋の表面にも雪がこびりつき、足元の長靴にも雪がまとわりついている。
ミズホが近づいてきた。
「シオナ、もう中に戻ろう」
「でも、もう少しだけ」
「駄目。湯上りでもないのに雪まみれになると凍えるよ」
その声は、いつもの落ち着いた調子だったが、少しだけ強かった。
シオナはブラシを止めた。
手袋の指先が冷えていることに、その時になって気づいた。首筋にも雪が入り、服の表面がじっとり冷たくなっている。
サヤが苦笑した。
「にかほの雪ダイブとは違うからね。あれはお風呂の横だったから楽しかっただけ」
「……分かった」
シオナはブラシを片付けた。
三人は矢立ハイツの中へ戻った。
館内に入った瞬間、暖かさが肌に触れた。
全館が温かいわけではない。だが、三人にあてがわれた和室は暖房が効いていた。巡回班が使う部屋を絞って暖めているらしく、そこだけは外とは別世界だった。
ミズホは部屋に入るなり言った。
「濡れたもの、全部脱いで乾かす」
シオナは少し反論しかけたが、袖口を触って黙った。
上着も、手袋も、帽子も、思った以上に湿っている。
サヤはてきぱきとハンガーを探した。
「はい、雪まみれさん。上着こっち」
ミズホがタオルを渡す。
「髪も拭いて。首元も冷えてる」
シオナは言われるままに濡れた外装を脱ぎ、乾いた服に着替えた。暖房の近くに湿ったものを広げ、手袋や帽子も乾かす。長靴の中に雪が入っていないかも確認した。
それでも、体の芯に少し冷えが残っていた。
ミズホは押し入れから毛布を出した。
「くるまって」
「そこまで?」
「そこまで」
サヤが楽しそうに毛布を広げる。
「はい、シオナ包み」
「包まなくていい」
「包む」
シオナは結局、毛布にくるまれた。
畳の上に座り、肩まで毛布を巻かれると、さすがに少し恥ずかしい。
サヤは満足そうに見た。
「戦車乗りの姿か?これが」
ミズホは真面目に言った。
「戦車乗りじゃななくて冷えた人の正しい姿だね」
「はい」
シオナは小さく返事をした。
しばらくすると、サヤが部屋を出ていった。
「大浴場、見てくる」
「一人で大丈夫?」
「すぐ戻る。電気ついてる範囲だけ」
ミズホがライトを渡す。
「滑らないで」
数分後、サヤは少し弾んだ足取りで戻ってきた。
「入れる」
シオナが毛布の中から顔を上げる。
「お風呂?」
「うん。大浴場。ここ、かけ流しっぽい。湯船にちゃんとお湯がある。温度も大丈夫そう」
ミズホの表情が少し緩んだ。
「それなら、今のうちに入ろう。シオナを温める」
「私だけ?」
「三人で。冷えたのはシオナだけじゃないし」
サヤはうなずいた。
「雪見風呂ではあるけど、今日は雪に触るの禁止ね」
ミズホはシオナを見た。
「そう。もう今日は雪に触れちゃ駄目」
シオナは毛布の中で少しだけ肩をすくめた。
「もうしない」
「雪の温冷浴も?」
「しない」
「本当に?」
シオナは少し間を置いてから言った。
「しない。今日はしない」
サヤが笑った。
「今日は、って言った」
ミズホがすぐに言う。
「明日も峠越え前はしない」
「はい」
「峠越え後も、状況次第」
「はい」
「返事が軽い」
「本当にしない」
シオナがそう言うと、ミズホはようやく頷いた。
三人は大浴場へ向かった。
矢立ハイツの大浴場は、にかほの露天風呂とも、大館のホテルの暗い大浴場とも違っていた。
山の中の温泉らしい、静かな湯気が立っている。かけ流しの湯は途切れず、浴槽にはちゃんと温かい湯が満ちていた。
照明は最低限だったが、それでも湯面が淡く光って見えた。
サヤは湯に手を入れて言った。
「あったかい。これは本物」
ミズホはシオナを見る。
「先に入って」
「うん」
シオナは体を流し、ゆっくり湯船に入った。
温かさが足先から上がってくる。
冷えていた手の指、肩、首筋がほどける。雪を払っていた時には気づかなかった冷えが、湯に触れて初めて分かった。
シオナは深く息を吐いた。
「……あったかい」
サヤも湯船に入り、肩まで沈んだ。
「いやあ、これは助かる」
ミズホも静かに入る。
「山でこれはありがたいね」
しばらく三人は黙っていた。
外では雪が降っている。
明日は矢立峠を越える。
その先には碇ヶ関があり、大鰐があり、連絡の途切れた弘前がある。
不安はある。
だが、いまは湯の中だった。
サヤがぽつりと言った。
「にかほの時は、雪に突っ込んでたよね」
シオナは湯面を見たまま答えた。
「あれは、露天風呂の横だったから」
ミズホがすぐ言う。
「今日は駄目」
「分かってる」
「明日はもっと駄目。峠越える前に体冷やすとか論外」
「分かってる」
サヤが笑う。
「ミズホ、完全に雪温冷浴監視員だ」
ミズホは真顔で答えた。
「必要なら監視する」
シオナは少し笑った。
「もうしないよ。今日は、ちゃんと温まって寝る」
「よし」
ミズホはようやく納得したようだった。
湯気の中で、三人の会話は少しずつゆるんでいった。
明日の道の確認。
朝の除雪。
矢立峠の路面。
碇ヶ関で誰に会うか。
大鰐まで進むか、碇ヶ関で止まるか。
話す内容は旅のことばかりだったが、湯の中で話すと少しだけ軽く感じられた。
風呂から上がると、三人は急いで体を拭き、乾いた服を着た。
部屋に戻ると、暖房がちゃんと効いていた。濡れた防寒具も少しずつ乾き始めている。
シオナはまた毛布を肩にかけられた。
「もう大丈夫だよ」
「完全に温まるまで」
ミズホが言う。
サヤは布団を敷きながら笑った。
「明日の朝、シオナが雪に突っ込まないように見張らないと」
「突っ込まない」
「約束?」
シオナは少しだけ考えてから、真面目に答えた。
「約束」
その日、矢立ハイツの和室は外の雪を忘れるくらい暖かかった。
窓の外では、峠へ続く国道が白くなっている。
明日の朝には、また90式の雪を払うことになる。
けれど今夜は、温泉と暖房と毛布があった。
シオナは布団に入りウトウトしだすと、目を閉じる前に思った。
進むためには、温まることも必要だ。
止まることも、待つことも、休むことも。
その全部を覚えながら、三人は県境の手前で明日に備えた。
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