碇ヶ関に響くエンジン音
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
翌朝、矢立ハイツの窓の外は白かった。
雪は降っている。
だが、風は強くない。
窓ガラスに叩きつけるような雪ではなく、山の空から静かに落ちてくる雪だった。視界もある。国道の線も見える。山の上の方は霞んでいるが、まったく何も見えないわけではない。
シオナは窓辺に立って、しばらく外を見ていた。
「行けると思う」
ミズホは身支度をしながら答えた。
「風は弱い。視界もある。昨日の巡回班の話だと、越えるなら朝」
サヤはネックウォーマーを巻きながら言った。
「じゃあ、今日がその朝だね」
三人は朝食を軽く済ませた。
残りの味噌汁、乾麺、温かい茶。胃に重くならない程度に食べる。
荷物をまとめ、和室を簡単に整えた。
濡れていた防寒具はほとんど乾いている。手袋も帽子も使える。長靴の中も問題ない。
シオナは部屋を出る前に、昨日の約束を思い出した。
雪に触れすぎない。
冷えたらすぐ戻る。
温冷浴はしない。
ミズホに言われる前に、自分で言った。
「今日は雪遊びしない」
サヤが振り向いた。
「今の、先に言ったね」
ミズホが少しだけ満足そうにうなずいた。
「よし」
外へ出ると、90式は白くなっていた。
夜の間に積もった雪が、車体の上、砲塔、外部ラック、濡れ物箱、ハッチ周りに薄く乗っている。厚く埋もれているほどではないが、放っておくわけにはいかない。
三人は手早く除雪を始めた。
シオナはハッチと視界装置の周り。
サヤは外部ラックと濡れ物箱。
ミズホは荷物と固定具、足元周り。
「ハッチ周り、雪落とし完了」
「ラック、緩みなし。濡れ物箱も開く」
「履帯周り、目立つ詰まりなし」
声をかけ合いながら、短時間で終わらせる。
昨日のようにシオナが一人で雪まみれになることはなかった。
ミズホはシオナの肩を見た。
「今日は白くなってない」
「ちゃんと三人でやったから」
サヤがブラシを片付けながら言った。
「共同除雪は偉い」
シオナは軽く笑って、90式へ乗り込んだ。
エンジンがかかる。
山の朝の静けさに、低い音が広がった。
矢立ハイツの建物を後にして、90式は国道7号線へ出た。
矢立峠。
秋田と青森の境目。
これまで地図の上で何度も見た線が、いま目の前の雪道になっている。
シオナはいつも以上に慎重だった。
速度は上げない。
カーブの手前ではさらに落とす。
橋や切り通しでは路面を読む。
前方の雪の色、轍、吹き溜まり、路肩の境目。すべてを見ながら進む。
サヤは車長ハッチから外を確認し、寒くなる前にすぐ戻る。
「前方、視界あり。路肩の雪深い。道路中央は見えてる」
ミズホは地図と昨日の巡回班のメモを見ていた。
「この先、県境。急がなくていい」
「急がない」
シオナの返事は短かった。
90式は重く、ゆっくり、峠を越えていく。
雪は降っている。
だが、風がない。
それだけで、山の道はまだ道でいてくれた。
やがて、標識が見えた。
青森県。
サヤが息を呑んだ。
「青森……」
ミズホが静かに言った。
「県境を越えた」
シオナは前を見たまま、小さくうなずいた。
「まだ止まらない。まず碇ヶ関」
青森県に入ったからといって、すぐ安全になるわけではない。むしろここからが分からない場所だった。
それでも、三人は青森へ入った。
道は少しずつ下り始めた。
雪の質も、空気の匂いも、秋田側とはわずかに違うように感じた。サヤがそのことを口にすると、ミズホが「気のせいかもしれないけど、境目を越えたって思うとそう感じるね」と答えた。
シオナはその会話を聞きながら、さらに慎重に下った。
そして道の駅いかりがせきにたどり着いた。
駐車場には雪が積もっていたが、出入りの痕跡があった。完全に閉ざされた場所ではない。建物は静かで、最初に見える範囲には誰もいなかった。
シオナは駐車場の端に90式を停めた。
「到着。周囲確認」
三人は外へ出た。
道の駅は静かだった。
雪の音だけがある。
風は弱いが、山の冷気は鋭い。
サヤは周囲を見回した。
「誰もいない?」
ミズホは入口付近の雪を見た。
「足跡はある。新しいのも混じってる」
シオナは90式を振り返った。
エンジンの低い音は、道の駅周辺にかなり響いていた。
静かな山間では、普通の車とは違うその音は、遠くまで届くはずだった。
しばらくすると、建物の向こうから人影が現れた。
一人。
二人。
それから、少し離れたところからさらに数人。
防寒着を着た人たちだった。
手には雪かき道具や杖、あるいは買い物袋のようなものを持っている。全員が警戒していたが、逃げる様子ではない。
先頭の年配の女性が、90式を見て立ち止まった。
「……戦車?」
サヤが小さく言った。
「今日も第一声はそこだね」
シオナは両手を見える位置にして、一歩前に出た。
「こんにちは。秋田側から来ました。大館、矢立峠を越えてきました。自衛官ではありません」
人々は顔を見合わせた。
「秋田側から?」
別の男性が聞いた。
「矢立を越えたのか、この雪で」
「風が弱かったので、慎重に来ました」
ミズホが記録袋を持って前へ出た。
「神町、舟形、庄内、秋田、大館までの情報があります。大館側の巡回班から、碇ヶ関と大鰐までは交流があると聞いています」
その言葉で、人々の警戒が少し緩んだ。
「大館の人たちに会ったのか」
「はい。道の駅やたて峠で」
年配の女性がうなずいた。
「なら、話はできるね。寒いから、中へ入りなさい」
三人は道の駅の建物へ案内された。
内部は完全に営業しているわけではないが、一部が連絡所のように使われていた。暖房は弱い。だが、人が集まる場所として最低限の手入れがされている。掲示板には大鰐方面、碇ヶ関周辺、矢立峠の道路状況が手書きで貼られていた。
そこで、一人の中年男性が三人の話を詳しく聞きに来た。
「大鰐の役場へ、時々通って状況を見ている者です」
その言葉に、三人は顔を上げた。
ミズホがすぐに尋ねる。
「大鰐の役場機能は残っているんですか」
男性は首を横に振った。
「役場そのものだけではありません。役場の近くに、大鰐町地域交流センターがあります。今はそこが実質的な連絡拠点になっています」
シオナは地図を出した。
「地域交流センター……」
男性は地図上の大鰐町のあたりを指した。
「ここです。そこに、弘前駐屯地から撤退してきた自衛隊の人たちが拠点を作っています」
三人は一瞬、言葉を失った。
サヤが小さく言った。
「弘前駐屯地から……撤退」
男性は重くうなずいた。
「弘前市街の状況が悪くなって、駐屯地だけで踏みとどまるのが難しくなったそうです。全部ではありません。残った人たちの一部が、大鰐まで下がって、役場や地元の人たちと一緒に拠点を作っています」
ミズホは急いでノートに記録した。
大鰐町地域交流センター。
弘前駐屯地撤退部隊の拠点。
役場機能と連携。
弘前市街は状況悪化により不明。
シオナは静かに聞いた。
「その人たちは、弘前のことを知っていますか」
「知っているはずです。少なくとも、私たちよりはずっと。弘前市街へどこまで入れるか、駐屯地がどうなったか、青森方面へ行けるか。聞くなら大鰐です」
サヤは息を吐いた。
「昨日、ここで全部決めなくてよかったね」
ミズホもうなずいた。
「大鰐で聞く、で正解だった」
シオナは地図の上の大鰐を見た。
大鰐で役場を訪ねる。
そう決めていた。
だが、そこに弘前駐屯地から撤退した自衛隊がいるとは思っていなかった。
弘前は、ただ連絡が取れていない町ではない。
そこから下がってきた人たちがいる。
なら、その人たちが持つ情報は重い。
「大鰐までは、今日行けますか」
シオナが聞いた。
男性は外の雪を見た。
「今の降り方なら、行けると思います。ただ、昼を過ぎてからの移動は慎重に。大鰐までなら、無理な距離ではありません」
別の女性が言った。
「道の駅で少し休んで、車両を見てからにしなさい。峠越えの後でしょう」
ミズホはシオナを見た。
「まず点検。体も温める。それから判断」
サヤが続ける。
「急がない。大鰐に行くとしても、今すぐ飛び出さない」
シオナはうなずいた。
「そうする」
道の駅いかりがせきで、三人は温かい飲み物を分けてもらった。
代わりに、秋田側から持ってきた情報を地図とノートで伝えた。
神町が生きていること。
秋田駐屯地が残っていること。
大館側との線がつながったこと。
そして、90式が南からここまで来たこと。
碇ヶ関の人々は、何度もその話を聞き返した。
「神町が」
「秋田が」
「大館から本当に越えてきたのか」
シオナはその反応を見ながら思った。
自分たちが運んできたものは、食料や燃料だけではない。
生きている場所の知らせだった。
外では雪が降っている。
だが、道はまだ見えていた。
次は大鰐。
地域交流センター。
弘前駐屯地から撤退してきた人たち。
弘前の空白が、少しだけ形を持ち始めていた。
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