港を離れて洗い流す夜
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
青森港国際クルーズターミナルを離れる時、シオナはすぐに青森駐屯地へ向かうつもりではなかった。
医薬品は渡した。
フェリーと青森駐屯地の無線もつながった。
船側は自主隔離を続け、駐屯地側も定時連絡を取ることになった。
役目は果たした。
けれど、三人は病院へ入り、薬局を回り、港のタラップ下まで医薬品を運んだ。
防護装備をしていたとはいえ、青森市内の感染跡に近づいたことは事実だった。
ミズホは無線を切ったあと、はっきり言った。
「今日は駐屯地には行かない方がいい」
サヤが振り向く。
「念のため?」
「うん。私たちは病院と薬局と港に行った。終末ウィルスじゃなさそうな船には直接触れてないけど、外側に何が付いたか分からない。青森駐屯地に入るなら、こっちで一晩置いて、洗浄して、体調を見てからの方がいい」
シオナは操縦席で前を見たまま頷いた。
「駐屯地には連絡する。今日は市街の外れで泊まって、明日以降に向かう」
ミズホが無線で青森駐屯地へ伝えた。
「こちら90式の三名。フェリーへの医薬品受け渡し完了。念のため、本日は青森駐屯地へ直接向かわず、市内の宿泊施設で洗浄と体調確認を行います。明朝、状況を報告します」
青森駐屯地側の返答は早かった。
『了解しました。その判断を支持します。体調の変化があればすぐ連絡してください。宿泊場所を決めたら、おおよその位置だけ知らせてください』
「了解しました」
サヤは小さく息を吐いた。
「ちゃんと分かってくれるの、ありがたいね」
ミズホは静かに答えた。
「向こうも人員が減ってる。余計なリスクは避けたいはず」
シオナは青森市街の中心へ深入りしないように、通れそうなロードサイドを選んで進んだ。
青森市内は、弘前のように大きく焼け落ちた跡が目立つわけではなかった。けれど、静かだった。
静かすぎる街だった。
車道には放置車両が点々とあり、歩道には雪が積もり、店の看板だけが昔の生活を思い出させる。
人がいたはずの場所から、人の気配だけが抜け落ちている。
サヤが窓の外を見ながら言った。
「弘前とは違うけど……これはこれできついね」
ミズホは頷いた。
「人が少なくなった街」
「東京みたい?」
シオナは少しだけ沈黙した。
「似てる。でも青森は、まだ外側に人がいる。浪岡も駐屯地も船も」
その言葉に、サヤはうなずいた。
やがて、比較的荒れていないホテルが見つかった。
市街中心部から少し外れた場所で、建物のガラスも大きく壊れていない。周囲に放置車両はあるが、入口を塞いではいない。看板は雪に汚れているが、建物そのものは使えそうだった。
シオナは通りの端に90式を停めた。すぐ出られる向き。道路を塞がない位置。いつもの癖になっている。
三人はまず外で手順を確認した。
ミズホが仕切る。
「防護装備は、外でできるだけ外す。汚れた面を内側に触れない。レインウェアは袋に入れる。手袋は最後まで残す。車内に持ち込むものと持ち込まないものを分ける」
サヤが少し疲れた声で言った。
「病院より、脱ぐ方が緊張する」
「脱ぐ時が危ないから」
ミズホは淡々と答えた。
シオナは頷いた。
「手順通りにやる」
三人は駐車場の片隅で、慎重に防護装備を外した。
レインウェアの外側を触らないように、内側へ巻き込む。
テープを剥がし、最後に手袋を外し廃棄する。
N95とゴーグルはすぐ捨てず、袋へ分ける。再利用するものと廃棄するものを分ける。
オリコンを運んだ時に使った箇所、車体の触れた場所、外部ラックの周辺も、消毒液で拭ける範囲を拭いた。
それからホテルへ入った。
館内は冷えていたが、電気は一部だけ生きていた。
ロビーの照明が弱く点き、非常灯も動いている。水道も完全には死んでいないようだった。
サヤがフロント奥を確認して戻ってきた。
「客室、上の階じゃなくて低い階の方がよさそう。階段で行けるし、窓も割れてなさそう」
ミズホはうなずいた。
「まずシャワーが生きてる部屋を探す」
数部屋を確認して、使える部屋を見つけた。
湯は安定していない。
勢いも弱い。
だが、シャワーから温かい水が出た。
それだけで三人は少し黙った。
サヤがぽつりと言った。
「今日、このシャワーはありがたすぎる」
シオナは頷いた。
「念入りに洗おう」
順番はミズホが決めた。
最初にシオナ。
次にサヤ。
最後にミズホ。
「操縦席に一番長くいたし、外で一番多く触ってる。シオナから」
「分かった」
シオナは浴室へ入った。
熱すぎない湯を出し、髪、顔、首、手首、指の間、腕、足元まで丁寧に洗う。
病院の床。薬局の棚。港のタラップ下。
直接触れたわけではないものまで、頭の中に残っている。
洗い流しても、すぐに気持ちが軽くなるわけではなかった。
それでも、湯が流れるたびに、少しずつ体が自分のものに戻ってくる感じがした。
浴室から出ると、サヤが乾いたタオルを渡した。
「どう?」
「生き返る」
「じゃあ私も生き返ってくる」
サヤも念入りに洗った。
普段なら冗談を言いそうなところでも、この時ばかりは静かだった。髪を洗い、手を洗い、顔を洗い、首元を何度も流す。
浴室から戻ると、少しだけ表情が戻っていた。
「シャワー、文明」
ミズホが最後に入った。
彼女は一番時間をかけた。
手順を頭の中で確認しながら、手、腕、顔、髪、首元、足元を丁寧に洗った。病院にいた頃の癖が、こういう時に戻ってくる。
浴室から出ると、サヤが言った。
「ミズホもちゃんと休んで」
「うん」
ミズホは短く答えた。
部屋では、三人分の濡れたものを分けて干した。
病院や港で使った装備は袋に入れ、再利用しないものは封をする。外部ラックへ戻すもの、車内に入れるもの、廃棄扱いにするものを分ける。
それから、ようやく夕食になった。
手持ちの食料で簡単に済ませる。
乾麺と缶詰。温かい茶。
スタバで回収したインスタントコーヒーも、少しだけ試した。
サヤは湯気の立つカップを持って言った。
「コーヒー補給のはずが、フェリー救援になったね」
シオナは少し笑った。
「青森中央インターのスタバ、忘れられない場所になった」
ミズホはカップを両手で包んだ。
「でも、フェリーと駐屯地がつながった。あれは大きい」
「うん」
シオナは頷いた。
「船はもう、ひとりじゃない」
その言葉で、部屋は少し静かになった。
夜、三人は青森駐屯地へ定時連絡を入れた。
「こちら90式の三名。市街国道沿いのホテルに投宿。三名とも現時点で体調異常なし。洗浄実施済み。明朝、再度体調確認後に連絡します」
青森駐屯地から返答があった。
『了解しました。無理に移動せず、今夜は休んでください。フェリーとは定時連絡を開始しました。医薬品受領後、船内対応を進めているとのことです』
ミズホは少しだけ安心したように目を伏せた。
「よかった」
通信を終えると、三人は部屋の灯りを落とした。
外の青森市は静かだった。
弘前のように焼け落ちてはいない。
だが、人のいなくなった市街の静けさは、夜になると一層深くなる。
ホテルの一室だけに、小さな灯りが残っている。
その部屋で三人は毛布にくるまり、できるだけ体を休めた。
明日は青森駐屯地へ連絡し、体調に問題がなければ次の道を聞く。
大湊へ向かう道を。
けれど今夜は、洗って、食べて、眠る。
薬を届けた一日は、そこでようやく終わった。
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