青森の雪とシオナの熱
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
翌朝、青森市内は白く沈んでいた。
ホテルの窓の外では、雪が昨日よりもずっと多く降っている。
風は暴れているほどではないが、粒が大きく、視界を柔らかく塞いでいた。道路の線は曖昧になり、駐車場に停めた90式も、夜のうちにまた白い層をまとっている。
サヤは窓辺で外を見て、少し眉を寄せた。
「これ、出るには嫌な雪だね」
返事がなかった。
振り返ると、シオナは布団の中で目を開けたまま、ぼんやり天井を見ていた。
「シオナ?」
「……うん」
声が少し低かった。
サヤが近づく。
「どうしたの」
「体が重い」
その一言で、ミズホがすぐに動いた。
「起き上がらなくていい」
ミズホは体温計を取り出し、シオナの額に手を当てた。手のひらに熱が伝わる。昨日の港や病院の後だけに、その熱は部屋の空気を一瞬で変えた。
サヤの顔から血の気が引く。
「まさか」
ミズホは落ち着いた声で言った。
「まだ決めない。順番に見る」
体温計の数字が出るまでの短い時間が、妙に長かった。
発熱。
ただし高熱というほどではない。
ミズホはすぐに問診を始めた。
「喉は痛い?」
「痛くない」
「咳は?」
「ない」
「息苦しさ」
「ない」
「胸の痛み」
「ない」
「頭痛は?」
「少し。重い感じ」
「寒気は?」
「さっき少し。でも今はそこまで」
「吐き気、腹痛」
「ない」
「意識がぼんやりする?」
シオナは少し目を閉じてから答えた。
「眠い。でも、話は分かる」
ミズホは頷き、瞳の動き、呼吸、脈、皮膚の様子を確認した。サヤは黙って見ていたが、手だけが落ち着かず布団の端を握っている。
ミズホはしばらく診てから、ゆっくり息を吐いた。
「終末ウィルスっぽくはない」
サヤが小さく息を吸った。
「ほんと?」
「今のところは。咳も喉もない。呼吸も乱れてない。意識もはっきりしてる。昨日の緊張と冷え、疲労、洗浄で体力を使ったことが重なって、一時的に熱が出た可能性が高いと思う」
シオナは布団の中で目だけ動かした。
「ごめん」
ミズホはすぐに言った。
「謝らない。これは体の反応」
サヤも近くに座った。
「昨日、病院行って港行って、帰って洗って、ずっと気張ってたもん。そりゃ熱も出るよ」
ミズホは薬の入った袋を開いた。
「解熱剤を使う。胃に負担をかけたくないし、今は水分も少しずつ取りたいから、座薬にする」
シオナは少しだけ顔をしかめた。
「座薬……お尻出さなきゃだめ?」
「ここは大人しく出さなきゃだね」
「そう」
ミズホは淡々と答えた。
必要な準備をして、ミズホは処置を済ませた。
その後、シオナには水分を少しずつ取らせ、首元を冷やしすぎない程度に整え、布団をかけ直した。
外では雪が降り続いている。
シオナは窓の外を見ようとしたが、ミズホに止められた。
「今日は大人しくする」
「でも、大湊…」
「今日は移動なし」
ミズホの声は穏やかだったが、決定だった。
サヤも強く頷いた。
「そうだよ。外も雪が多い状態だし、シオナ熱あるし、出る理由がない」
シオナは少し黙った。
「90式の雪だけでもどけないと」
「だめ」
ミズホとサヤの声が重なった。
シオナは目を閉じた。
「はい」
ミズホは無線機の方を見た。
「青森駐屯地とフェリーには、こっちから連絡する。体調確認のため本日は移動せず、ホテルで待機。三人のうち一人が発熱。ただし現時点で終末ウィルスを疑う所見なし。経過観察中。そう伝える」
サヤが少し不安そうに聞く。
「それ、向こう心配するよね」
「心配はする。でも黙って動く方がずっとまずい」
ミズホは無線を入れた。
「こちら90式の三名。昨夜投宿したホテルより定時連絡です。本日、シオナに発熱を確認。咳、呼吸苦、意識障害、急激な悪化はなく、現時点では終末ウィルスを疑う所見はありません。昨日の緊張、冷え、疲労による一時的発熱と見て、解熱剤使用の上、移動を中止し一日経過観察します」
青森駐屯地からの応答はすぐだった。
『こちら青森駐屯地。了解しました。移動中止の判断を支持します。発熱が続く、呼吸症状が出る、意識状態が変わるなどあれば直ちに連絡してください。こちらも接触は行わず、無線連絡を継続します』
「了解しました」
続けてフェリーにも伝える。
フェリー側は、薬を受け取った後の船内状況を報告してきた。
発熱者はまだいる。
だが、重篤な急変はない。
解熱薬と補水、区画分離が始まり、船内は少し落ち着いてきている。
その報告を聞いて、シオナは布団の中でかすかに笑った。
「よかった」
ミズホは振り返った。
「喋らない。寝る」
「はい」
サヤは椅子を引き寄せ、シオナの近くに座った。
「今日はシオナが完全休養の日」
「完全……」
「そう。戦車禁止、雪禁止、操縦禁止、外を見るだけもほどほど」
「外を見るのも?」
ミズホが言った。
「起き上がって長く見てたら禁止」
シオナは布団の中で小さく息を吐いた。
「厳しい」
サヤは笑った。
「昨日までが甘すぎたんだよ」
午前中、シオナはほとんど眠っていた。
座薬が効き始めると、額の熱は少しずつ引いていった。汗をかいたので、ミズホがタオルで拭き、着替えを手伝った。水分を少しずつ取らせ、無理に食べさせず、眠れるだけ眠らせる。
サヤはその間、部屋の中を整えた。
濡れた装備の乾燥。
昨日使った防護具の袋分け。
食料の残量確認。
インスタントコーヒーの箱を、なぜか少し誇らしげに並べる。
ミズホは地図とノートを開き、今日の予定を太線で消した。
青森市内ホテル待機。
シオナ発熱。
移動中止。
終末ウィルス所見なし。
解熱剤使用。
経過観察。
サヤがそれを見て言った。
「予定が進まない日って、焦るね」
ミズホはペンを置いた。
「進まないことが必要な日もある」
「ミズホ、医療の人っぽい」
「ぽいじゃなくて、元々医療の人」
「そうでした」
昼頃、雪はまだ降っていた。
90式は駐車場で白くなっている。
普段ならシオナが気にして外へ出ようとするところだが、今日はミズホがカーテンを少しだけ閉めた。
サヤはそれを見て小さく笑った。
「視界制限」
「じゃなくて安静確保」
「ミズホ、意外と強権」
「必要なら」
シオナは布団の中で目を開け、二人のやり取りを聞いていた。
「聞こえてる」
サヤが近づく。
「熱下がった?」
ミズホが体温を測る。
朝よりは下がっていた。
まだ平熱ではないが、悪化はしていない。
ミズホはほっとしたように言った。
「いい傾向。今日はこのまま寝る」
「明日は?」
「明日の朝の体温と症状次第」
シオナは少しだけ悔しそうにしたが、すぐに目を閉じた。
「分かった」
夕方、外の雪は弱くなった。
部屋の中では、簡単な食事を作った。
シオナには消化の良いものを少しだけ。サヤとミズホは缶詰と乾麺で済ませる。
サヤが食べながら言った。
「大湊方面の明かり、逃げないよね」
ミズホは静かに答えた。
「逃げない。もし本当に拠点なら、一日で消えたりしない」
「そうだよね」
シオナは布団から二人を見ていた。
「ごめん」
ミズホは箸を置いた。
「二回目。謝らない」
サヤも言う。
「そうそう。今日は雪も多かったし、シオナが熱出してなくても無理しない日だったよ」
シオナは少しだけ笑った。
「二人とも、言い方がうまくなった」
「旅で鍛えられました」
サヤが胸を張る。
夜、三人はもう一度青森駐屯地とフェリーに連絡した。
シオナの熱は朝より下がり、呼吸症状なし。
フェリー側も重篤者なし。
青森駐屯地は定時連絡を継続し、三人には無理に動かないよう伝えた。
通信を終えた後、部屋は静かになった。
サヤは毛布にくるまり、窓の外を見た。
「今日は進まなかったけど、悪い日じゃなかったね」
ミズホはシオナの体温記録を畳んだ。
「進まないで済んだ日」
シオナは布団の中で、ぼんやりと天井を見ていた。
90式は外で雪をかぶっている。
大湊への道はまだ遠い。
でも、フェリーは孤立していない。
青森駐屯地ともつながっている。
そして自分は、今は寝ていていい。
そう思うと、少しだけ体の力が抜けた。
「明日、下がってたら進む」
ミズホがすぐに言った。
「明日、下がっていて、咳もなくて、だるさも軽ければ考える」
サヤが笑う。
「条件が増えた」
「必要条件」
シオナは目を閉じた。
「了解」
青森市内のホテルで、三人はもう一晩を過ごした。
外では雪が降り続いている。
その雪は道を隠し、90式を白くし、旅を一日止めた。
けれど同時に、青森の寒さはウィルスを弱らせる。
焦らなければ、まだ進める。
その夜、シオナは深く眠った。
大湊へ向かう道を、明日へ預けながら。
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