浅虫温泉の灯
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
翌朝、シオナは目を覚ました時点で、自分の体が昨日とは違うことに気づいた。
頭が軽い。
体の重さもない。
喉の違和感も、咳も、寒気もない。
ミズホはすぐに体温を測り、脈と呼吸を確認した。
「平熱。咳なし。喉の痛みなし。だるさも?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
ミズホは少しだけ目を細めた。
「昨日休んだのが効いたね」
サヤがカーテンを開けると、窓の外には白い青森市街と、その上に差す薄い晴れ間があった。雪雲はまだ残っているが、雲の切れ間から光が落ちている。
「天気も昨日よりいいよ」
シオナは布団から起き上がった。
「進める」
ミズホは即座に言った。
「進めるけど、今日は病み上がり扱い」
「もう平気」
「平気でも病み上がり扱い」
サヤが笑った。
「シオナ、今日はリハビリ運転だね」
「90式でリハビリって何」
「30km/h以下で、いつも通り」
「いつも通りじゃん」
三人は朝食を取り、荷物をまとめた。昨日使った防護装備は袋に分けたまま、車内に入れるものと外に固定するものを整理する。青森駐屯地とフェリーへも連絡を入れた。
シオナの体調は回復。
三人とも咳や発熱なし。
本日は青森駐屯地へは立ち寄らず、国道4号線で浅虫方面へ向かう。
以後も定時連絡は可能な範囲で継続。
青森駐屯地からは、無理をせず、野辺地方面は未確認区間が多いので注意するよう返答があった。
ホテルの駐車場に出ると、90式は雪をかぶっていた。
ただ、昨日ほどではない。晴れ間があるため、車体の上の雪も少し柔らかくなっている。
三人は除雪を始めた。
シオナがハッチ周り。
サヤが外部ラックと濡れ物箱。
ミズホが履帯と固定具、車体周り。
「シオナ、息上がってない?」
「上がってない」
「寒気は?」
「ない」
「頭痛は?」
「ない」
サヤが横から言った。
「問診されながら除雪する戦車乗り」
「安全管理」
ミズホは真面目に返した。
シオナもそれには逆らわなかった。
除雪と点検を終えると、三人は90式に乗り込んだ。青森市街を東へ抜け、国道4号線へ入る。市街の中心部には深入りせず、通れる道を選びながら浅虫方面を目指した。
青森市内は静かだった。
弘前のような焼け落ちた印象ではない。
けれど、人の数が極端に少ない街だった。道路には雪が残り、閉じた店舗が並び、放置された車両もある。だが、ところどころに除雪された跡や、誰かが使っている建物の気配があった。
やがて市街地の密度が少しずつ薄くなり、むつ湾の気配が近づいてくる。
サヤが外を確認して戻った。
「海が近い」
ミズホは地図を見た。
「このまま浅虫温泉。道の駅がある」
シオナは前を見たまま答えた。
「今日は浅虫まで。そこで止まるか、進むか決める」
「病み上がりだから止まる寄り」
ミズホが言う。
「まだ言う」
「今日はずっと言う」
サヤが笑った。
「ミズホの病み上がり監督、強い」
国道4号線を進み、浅虫温泉の周辺へ入った。
温泉地らしい建物が見え始める。
海沿いの空気。
雪をかぶった看板。
静かな道路。
そして、道の駅浅虫温泉に到着した。
駐車場は広く、雪はあるが、出入りの跡があった。完全に無人ではない。
シオナは端に90式を停め、エンジンを落とした。
その低い音が消えると、周囲の静けさが戻ってきた。
だが、しばらくすると人が集まり始めた。
最初は建物の陰から数人。
次に、温泉街の方から防寒着姿の人たち。
さらに、車で来たらしい数人。
90式のエンジン音は、車の移動が少なくなった浅虫ではかなり目立ったらしい。
サヤが小声で言った。
「また人が集まってきた」
ミズホが答える。
「でも、逃げてない。警戒はしてるけど」
シオナはハッチを開け、両手を見える位置にして外へ出た。
「こんにちは。青森市内から来ました。浪岡、大鰐、秋田方面を経由してきた者です」
その言葉に、集まっていた人たちの間で小さなざわめきが起きた。
「青森市内から?」
「大鰐から?」
「秋田方面?」
やがて、平内町役場の関係者だという男性が前へ出た。浅虫周辺と平内町側の連絡を見ている人らしい。
「ここでは立ち話も何です。温泉ホテルが使えます。そこで話を聞かせてもらえますか」
シオナはうなずいた。
「こちらも情報を共有したいです」
三人は道の駅近くの温泉ホテルへ案内された。
そこは営業しているホテルではなかったが、地域の連絡所兼宿泊拠点として使われていた。建物の照明は点いており、暖房も弱く効いている。ロビーには手書きの掲示があり、平内町方面、浅虫温泉周辺、国道4号線の状況がまとめられていた。
電気が生きている。
そのことに、サヤがすぐ気づいた。
「ここ、ちゃんと電気が来てる」
役場関係者はうなずいた。
「ここらは、終末後も電力が途切れずに維持されています。もちろん節電はしていますが、完全に停電したことはありません」
ミズホが少し驚いたように聞いた。
「ずっとですか」
「はい。青森市中心部の混乱とは距離がありましたし、浅虫から平内にかけては残った人たちで電気と水の最低限の維持を続けています。物資が豊富というわけではありませんが、通信と物流が切れた以外は、以前の生活に近い形で過ごせている家もあります」
サヤは思わず言った。
「そんな場所、まだあるんだ」
「全部がそうではありません。けれど、ここは運が良かった」
情報交換は、ホテルの食堂だった場所で行われた。
平内町役場の人たち。
浅虫温泉の住民。
道の駅の管理に関わっている人。
そして三人。
シオナたちは、これまでの道を説明した。
東京で90式を見つけたこと。
神町、舟形、庄内、秋田、大館、矢立、大鰐、浪岡、青森市内を通ってきたこと。
青森港のフェリーに医薬品を届けたこと。
大湊方面で明かりが見えたというフェリーからの情報。
青森駐屯地が三沢、八戸、大湊と確実な連絡を持っていないこと。
浅虫側も情報を出してくれた。
国道4号線沿いに野辺地町までは、細くつながっている。
平内町の集落間でも連絡はある。
ただし、感染が多かったとされる三沢方面には人を出していない。
三沢、八戸方面の状況はほぼ不明。
野辺地からむつ湾沿いに北へ向かう道は、完全確認ではないが、少なくとも有戸地区までは行ける見込みがある。
ミズホはノートに書いた。
浅虫、電力維持。
平内町、生活基盤一部維持。
物資は豊富ではない。
通信・物流断絶が主な問題。
国道4号、野辺地まで接続あり。
三沢方面、未確認。感染多いとの伝聞。
大湊方面、フェリー目撃情報のみ。
シオナは地図を見た。
「今日はここで止まったほうが良さそうですね」
自分で言ってから、少しだけ顔をしかめた。
サヤがすぐに頷いた。
「そうです。特にシオナは病み上がりなので」
ミズホも淡々と続ける。
「今日は無理をさせられません」
役場の人はそれを聞いて、すぐにうなずいた。
「それがいいです。温泉ホテルの一室を使ってください。風呂も使えます。ここは湯もありますから」
サヤの顔が少し明るくなった。
「温泉」
ミズホはその横で、シオナを見た。
「ただし」
シオナはもう分かっている顔をした。
「雪には寝ない」
「絶対に」
「寝ない」
「湯上がりで外にも出ない」
「出ない」
「露天で変なこともしない」
「しない」
サヤが口元を押さえて笑った。
「ミズホ、完全に先読みしてる」
「前科があるから」
シオナは少し不服そうに言った。
「一回だけだし…」
「一回で十分」
浅虫温泉のホテルの部屋は、驚くほど普通だった。
布団があり、暖房があり、窓の向こうには雪と海が見える。電気も点く。湯も使える。これまでの旅で何度も無人のホテルや半ば避難所になった施設に泊まってきた三人にとって、その普通さがかえって不思議だった。
サヤは窓辺に立った。
「海だ」
むつ湾が見える。
雪雲の切れ間から薄い光が落ち、海面が鈍く光っている。遠くの先に、湾の奥へ続く道がある。
「この向こうを回って、大湊へ行くんだよね」
ミズホが地図を畳みながら答えた。
「まだ遠い。でも、今日でかなり近づいた」
シオナは窓の外を見ていた。
昨日、布団の中で発熱していた自分が、今日はここまで来た。
青森市を抜け、浅虫まで。
そして、ここには電気があり、人がいて、温泉がある。
「明日は野辺地」
シオナが言うと、ミズホがすぐに返した。
「明日の体調次第」
「はい」
サヤが笑う。
「返事が早い」
その夜、三人は住民たちと簡単な夕食を共にし、浅虫の湯に入った。
温泉は温かかった。
にかほの露天風呂とは違い、ここではミズホの目が光っている。
サヤが湯船で小声で言った。
「シオナ、雪に行きたくなってない?」
「なってない」
「本当に?」
「本当に」
ミズホが言った。
「念のため、風呂上がりは私が見張る」
「囚人みたい」
「患者です」
シオナは湯に肩まで沈み、むつ湾から来る冷たい空気を思った。
寒さは敵であり、味方でもある。
ウィルスを弱らせ、でも人の体も冷やす。
だから油断しない。
風呂を出た三人は、部屋へ戻り、布団に入った。
外では浅虫の町に、まだ灯りが残っている。
終末後も途切れず維持された灯り。
青森市中心部の沈黙とは違う、細く続く生活の灯りだった。
シオナは布団の中で、窓の向こうの海を思った。
フェリーが見たという大湊方面の明かり。
浅虫の灯り。
平内から野辺地へ続く国道4号。
道はまだある。
人もまだいる。
そのことを確かめながら、三人は浅虫温泉で夜を過ごした。
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