野辺地へ向かう朝
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
浅虫温泉の朝は、青森市内のホテルで迎えた朝とはまるで違っていた。
窓の外には、雪をかぶった温泉街と、灰色がかったむつ湾が広がっている。雲は残っていたが、ところどころに薄い光が差し、海面が鈍く光っていた。
シオナは布団の中で目を開け、まず自分の体を確かめた。
熱はない。
頭も重くない。
喉も痛くない。
体の芯に残っていた疲れも、かなり抜けている。
それでも、すぐに起き上がろうとしたところで、横から声が飛んだ。
「まず体温」
ミズホだった。
すでに起きていて、体温計とメモを持っている。完全に朝の検査係だった。
シオナは少しだけ苦笑した。
「おはよう」
「おはよう。体温」
「はい」
サヤはまだ布団に半分埋もれたまま、目だけ開けていた。
「ミズホ先生、今日も厳しい」
「昨日までが甘かった」
「それ、昨日も聞いた」
体温は平熱だった。
脈も問題ない。咳もない。息苦しさもない。
ミズホはようやく少し表情を緩めた。
「今日は進める。でも無理はしない」
シオナはすぐ頷いた。
「野辺地まで。そこから先は、情報を聞いてから」
「うん。それならいい」
サヤは布団から起き上がり、窓の外を見た。
「今日、海が見えるね」
浅虫の町には、前夜と同じように細い生活の灯りが残っていた。終末後も電力が途切れず、物資は豊富でないにしても、通信と物流の断絶以外は以前に近い形で暮らせている町。
三人は朝食を、ホテルの食堂だった場所で住民たちと一緒に取った。
温かい味噌汁。
米飯。
漬物。
少しの魚の缶詰。
贅沢ではない。
だが、人が作り、人が配り、人が一緒に食べる朝食だった。
平内町役場の職員が、地図を広げてくれた。
「国道4号線は、野辺地までは通れています。途中、雪で狭くなっている場所はありますが、昨日のうちに確認が入っています」
シオナは地図を見た。
浅虫から平内、小湊を抜け、野辺地へ。
その先で国道4号と国道279号が分かれる。
下北半島へ入るなら、野辺地インターから下北半島縦貫道路を使う案もある。
役場職員は続けた。
「野辺地に入ったら、すぐ縦貫道路へ行くより、一度中心方面へ寄るといいでしょう。野辺地病院に役場の人間もいます。終末後の健康相談拠点になっていますから、道路の情報も聞けるはずです」
ミズホが顔を上げた。
「病院に、人が集まっているんですか」
「ええ。ただし、終末ウィルスの患者を集めた場所ではありません。あの辺りは大きな感染爆発を避けられました。今は薬の相談や、慢性疾患、寒さによる体調不良、怪我の手当などを見る場所になっています」
ミズホは少しだけ黙ってから、静かに頷いた。
「分かりました。青森市内で確保した医薬品が少し残っています。使えるものがあれば、渡せると思います」
職員は驚いたように目を上げた。
「それは助かるでしょう。野辺地も薬は不足していますから」
サヤが小声で言った。
「また薬が旅をするね」
シオナは頷いた。
「その代わりというわけじゃないけど、燃料も相談したい。下北へ入るなら、満タンに近い方がいい」
「それも野辺地で聞くのがいいでしょう」
役場職員はそう言って、地図上の野辺地病院付近を指した。
「国道4号と279号の分岐から、一度279号を北上して中心方面へ。病院の駐車場周辺には車が集まっています。90式ならかなり目立つでしょうが、話は通せると思います」
サヤは真顔で言った。
「目立たない90式はない」
浅虫の人たちが少し笑った。
朝食の後、三人は荷物をまとめた。
温泉ホテルの一室は整え、使った布団を畳み、借りたものを戻す。
出発前に、ミズホはもう一度シオナを見た。
「今日は雪に寝ない」
シオナはすぐ返した。
「寝ない」
「湯上がりでもないのに雪に触りに行かない」
「行かない」
「病み上がり明けだから、疲れたら止まる」
「止まる」
サヤが横でうなずいた。
「よし、出発許可」
ミズホは少し笑った。
「私が許可する立場みたいになってる」
「実質そう」
ホテルの外に出ると、90式は薄く雪をかぶっていた。
三人は慣れた手つきで除雪を始めた。
シオナはハッチと視界装置。
サヤは外部ラックと濡れ物箱。
ミズホは履帯周りと固定具。
浅虫の住民たちが少し離れたところから見ていた。戦車を三人の若い女性が手際よく整えている光景は、やはり不思議に映るのだろう。
サヤがブラシを動かしながら言った。
「だいぶ慣れたね、これ」
ミズホが返す。
「慣れた頃が危ない」
「そういうこと言う」
シオナは車体に手を置き、雪を払った視界装置を確認した。
「車体異常なし。行こう」
90式のエンジンが、浅虫の朝に低く響いた。
三人は国道4号線へ出た。
浅虫温泉を抜け、むつ湾を左手に見ながら東へ進む。
海は近い。山も近い。道は国道らしく広いが、雪で路肩が狭くなっている場所もある。
シオナは速度を上げない。
平内町に入ると、生活の気配が浅虫から続いていることが分かった。完全な無人ではない。家の前が除雪され、煙の出ている建物もある。道路脇には手書きの案内板が残り、町内の連絡がまだ生きていることを感じさせた。
サヤは外を確認して戻った。
「人のいる感じが続いてる」
ミズホは地図を見ながら言った。
「電力が維持されてるって言ってたし、平内までは生活圏としてつながってるんだと思う」
シオナは前を見たまま答えた。
「青森市とは違う」
「うん」
サヤの声も少し柔らかかった。
青森市の沈黙を見たあとでは、家の前に残る雪かきの跡だけで、人が生きている証拠に見えた。
小湊周辺を過ぎ、野辺地町へ近づく頃には、空は少しだけ明るくなっていた。
雪雲はあるが、降り方は弱い。視界は開けている。
やがて国道4号線と国道279号線が分かれる地点に差しかかった。
ここでシオナは、予定通り国道279号線へ入った。
サヤが確認する。
「野辺地中心方面だね」
ミズホは頷いた。
「病院で情報を聞く。縦貫道路に入る前の最後の確認」
国道279号線を北上していくと、道路沿いに車の動きの跡が増えた。雪の上に新しい轍がある。完全に放置された道ではない。
そして野辺地病院の近くで、三人は人と車が集まっているのを見つけた。
駐車場には四輪駆動車、公用車らしい車、軽トラックが停まっている。人々は防寒着を着て、建物の入口付近で何かを運んだり、案内したりしていた。
青森市民病院の静けさとは違う。
ここは生きている病院だった。
シオナは病院に近づきすぎず、広い場所で90式を停めた。
エンジン音に気づいた人たちが、一斉にこちらを見る。
驚きはあった。警戒もあった。けれど、逃げ出すような空気ではない。
野辺地町役場の職員らしい男性が、数人とともに近づいてきた。
「どちらから来たんですか」
シオナはハッチから顔を出し、両手を見える位置にした。
「浅虫方面から来ました。青森市内、浪岡、大鰐、秋田方面を経由してきています。下北方面、大湊へ向かっています」
「大湊へ……」
職員の表情が変わった。
ミズホが記録ノートを持って降りた。
「青森市内で、青森港のフェリーへ医薬品を届けました。その時に確保した医薬品や衛生資材が少し残っています。こちらで使えるなら、お渡しできます」
病院側から看護師らしい女性が前に出た。
「医薬品ですか」
「市販薬中心です。解熱薬、咳止め、消毒用品、マスク、手袋、ガーゼ、包帯、補水用品。医療用のものは分かる範囲で分類しています。不明なものは入れていません」
女性はミズホの分類表を受け取り、目を通した。
「これは……助かります。今は市販薬でも本当に貴重です」
野辺地病院の一角に案内されると、そこは救急の混乱ではなく、町の健康相談所のようになっていた。
待合スペースには、発熱者用の別受付、薬の相談、怪我の手当、慢性疾患の相談といった手書きの表示がある。役場の職員もいて、物資や燃料の記録をつけていた。
役場職員は説明してくれた。
「ここには、終末ウィルスの症状で運ばれた人はほとんどいません。最初の頃に町の出入りを絞ったのが幸いしました。ただ、終末後は別の問題が増えました。薬が切れる、寒さで体調を崩す、怪我をする、食事が偏る。そういう相談が多いんです」
ミズホはその話を聞きながら、静かに周囲を見ていた。
青森市民病院で見た、沈黙した医療の跡。
ここにある、生きている医療の残り火。
同じ病院でも、まるで違う。
サヤが小声で言った。
「ミズホ、少し顔が戻った」
「そう?」
「うん」
ミズホは少しだけ息を吐いた。
「ここは、まだ病院として息をしてる」
三人は青森市内で残っていた医薬品を引き渡した。
ミズホは分類表を一つずつ説明し、使い方に注意が必要なものは別にした。
その代わりという形ではなく、野辺地側から燃料の提供が申し出られた。
「下北へ入るなら、満タンに近い方がいいでしょう。こちらも潤沢ではありませんが、少し分けられます」
シオナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。状態を確認してから使わせてください」
給油場所へ案内される。
町の公用車や発電機用に確保されていた軽油だった。
シオナは秋田駐屯地で教わった通り、色、濁り、におい、水分混入の有無を確認した。サヤとミズホも横で見守る。
「問題なさそう」
シオナは言った。
「これなら使える」
90式に給油が始まった。
サヤは車体を見上げながら言った。
「薬を渡して、燃料をもらって、道を聞いて。なんか、旅というより連絡便みたいになってきたね」
ミズホは答えた。
「でも、それが今は大事なんだと思う。余っている場所から、必要な場所へ。知っていることを、知らない場所へ」
シオナは給油の様子を見ながら言った。
「この先は下北半島縦貫道路を使う」
野辺地町役場の職員が地図を広げた。
「野辺地インターから入れば、横浜吹越方面までは通れる可能性が高いです。国道279号線の下道もありますが、集落や交差点が多い。戦車なら縦貫道路の方が走りやすいでしょう」
「途中の状況は?」
「大きな障害の報告はありません。ただし、天候次第です。吹雪けば高規格道路でも危険です。途中で簡単に逃げ込める場所は多くありません」
ミズホが確認する。
「入るなら、天気と燃料と車両状態が整っている時」
「その通りです」
シオナは頷いた。
「今日のうちに吹越方面まで進みます。無理なら戻るか、途中で安全な場所を探します」
役場職員は静かに言った。
「大湊に明かりがあるという話、本当ならいいですね」
シオナは少しだけ目を伏せた。
「確かめに行きます」
給油が終わり、90式は万全に近い状態になった。
燃料。
物資。
医薬品の整理。
車両状態。
三人の体調。
すべてを確認する。
ミズホはシオナの顔を見た。
「だるさは?」
「ない」
「寒気」
「ない」
「頭痛」
「ない」
「よし。でも無理はしない」
「分かってる」
サヤが笑った。
「今日だけで何回聞いたかな」
「必要なだけ」
野辺地病院の人々が、90式を見送るために外へ出てきた。
医薬品を受け取った看護師が、ミズホに言った。
「助かりました。あなたたちも、無事で」
ミズホは少しだけ頭を下げた。
「そちらも」
シオナは操縦席へ入った。
サヤは車長席。
ミズホは砲手席側へ。
ハッチが閉じる。
90式のエンジンが再び動き出した。
国道279号線から野辺地インターへ向かう。
下北半島縦貫道路へ入るために。
浅虫の灯り。
野辺地の病院。
残った医薬品。
分けてもらった燃料。
大湊方面の明かり。
つながったものを抱えて、三人は北へ進んだ。
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