第十八話 ノア…ごめんなさい
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第十八話 ノア…ごめんなさい
マッドの洋館の広間では、時間が止まったようだった。
空色だった扉は、すでに半月型の笑みに変わっていた。そこから、チェシャ猫の顔だけが浮かび上がっている。
ロビンが呆然とした顔で叫んだ。
「おい……なんでだよ!」
チェシャ猫はにんまり笑う。
「君たちが取り引きしたんだよ~」
長い尻尾が、ふわふわと揺れる。
「ネムリを返す。その条件は、お客さんが扉の試験に合格すること。合格した。だからネムリは返した。約束どおり~」
「ふざけんな!」
ロビンが扉を蹴り飛ばした。
鈍い音が響く。
「聞いてねぇぞ、そんなの! アイツを返せ!」
「聞かなかっただけ~」
チェシャ猫はけたけた笑った。
「言葉はちゃんと味わわないとね~。飲み込んでから苦いって言っても遅いんだよ~」
ネムリが泣き出した。
「お姉ちゃん……お姉ちゃんを返して……」
小さな声だった。
その声が、ロビンの怒りに火をつけた。
「チェシャ猫! てめぇ!」
ロビンが飛びかかろうとする。
しかし、その前に空気が変わった。
マッドが動いた。
黒いシルクハットの影が、紫の瞳に落ちている。
彼は何も叫ばなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、一歩踏み出しただけだった。
それなのに、食堂の空気が刃物のように張りつめた。
その瞬間、チェシャ猫の顔が、扉からするりと抜け出した。
半月型の笑みが煙のようにほどけ、茶色い毛並みの身体が、ぬるりと宙へ滑り出る。ふさふさした尻尾が一度揺れたかと思うと、チェシャ猫は食堂の隅に置かれた、枯れ木のような飾り木の上へひょいと飛び移った。
枝の上で丸くなり、ぎょろりとした目だけをこちらへ向ける。
「おっとっと~。帽子屋の手は長いからね~」
マッドが、すっと片手を上げた。
その指先に、黒い糸のような魔術が絡む。
次の瞬間、チェシャ猫の首が、見えない力で締め上げられた。
「ぎゃっ」
チェシャ猫の笑みが歪む。
枝の上で丸まっていた身体が、ぐにゃりと引き伸ばされた。
マッドの声は低かった。
「我が屋敷で、勝手な振る舞いは許さぬ」
「こわいこわい~。帽子屋は首を絞めるのが好きだね~」
「絞め殺されたくなければ返せ」
マッドの指がさらに締まる。
紫の瞳は冷たい。
いつもはどこか浮世離れした美貌に、今ははっきりとした怒りが宿っていた。
チェシャ猫は喉を鳴らした。
「無理だよ~。もう飲んじゃったから~」
「吐け」
「乱暴~」
マッドは答えない。
魔術の糸が強く締まる。
チェシャ猫の身体が、ぶわりと煙のように膨らんだ。
「げほっ」
口から、丸い毛玉が吐き出される。
それは床へぽとりと落ちた。
淡い薄茶色の、妙な毛玉。
マッドはそれを見た瞬間、目を細めた。
「これは……」
チェシャ猫は、苦しそうに笑いながら言った。
「アリスの毛だよ~」
ロビンが息を呑む。
ネムリが泣き声を止めた。
マッドの紫の瞳が、さらに暗くなる。
「取り引きしたのか」
「前にね~。薔薇とミルクと、ちょっとだけ勇気の味がした」
チェシャ猫は舌なめずりをした。
「もう、それはいらないよ〜。今、丸ごと飲み込んだから〜」
その言葉に、部屋の空気が凍った。
ロビンがもう一度飛びかかろうとする。
マッドが手で制した。
「ロビン」
「でも!」
「今暴れても、腹の中までは届かない」
マッドの声は冷静だった。
静かな水面の下で、抜き身の刃だけが音もなく沈んでいるような冷静さだった。
彼はチェシャ猫を睨んだまま言う。
「チェシャの腹は、ただの腹ではない。迷い道だ。食われた者は、恐怖と願望の底へ落ちる。深く沈めば、二度と帰れぬ」
ネムリが震えながら呟いた。
「夢より、深いところ……」
マッドは頷いた。
「早く引きずり出さなければ、あの子は自分の見たいものと、見たくないものに呑まれる」
チェシャ猫の笑みだけが、ゆらゆら揺れていた。
「さあ~。野薔薇のお嬢さんは、どんな夢を見るかな~」
世界が、闇へ落ちた。
*
アリスは黒い霧に飲み込まれていた。
上下が分からない。
歩いているのか、落ちているのか、浮いているのかさえ分からない。
身体はあるはずなのに、指先の感覚が薄い。胸元の時計に触れようとしても、手が霧を掴むばかりで、そこに届かない。
黒い霧が、肌にまとわりつく。
冷たいようで、ぬるい。
優しいようで、息苦しい。
まるで誰かの悪い夢の中に閉じ込められたみたいだった。
「……ここは」
声を出すと、霧に吸い込まれた。
返事はない。
その代わり、遠くに光が見えた。
淡い金色の光。
アリスはそちらへ向かって歩いた。
霧が少しずつ晴れていく。
そして、目の前に現れたのは、懐かしい屋敷の庭だった。
薔薇が咲いている。
淡いピンクの、凛とした薔薇。
風が吹くと、花びらが静かに揺れる。甘くてやわらかな香りが広がった。
「アリス」
優しい声がした。
振り返ると、おじい様が立っていた。
穏やかな目。
少し曲がった背中。
でも大きくて、頼もしい手。
その隣には、お父様がいる。
お母様もいる。
みんな、いる。
失くしたはずの人たちが。
遠くへ行ってしまったはずの人たちが。
アリスは息を呑んだ。
「おじい様……お父様……お母様……」
声が震える。
お母様が笑った。
「アリス、そんな顔をしないで」
お父様が手を広げる。
「おいで」
アリスは一歩踏み出した。
胸の奥で、何かが泣き出しそうになる。
これは夢だ。
そう分かっている。
分かっているのに、足が止まらない。
だって、会いたかった。
ずっと。
心のどこかで、もう一度だけ会いたかった。
おじい様が、いつものようにアリスの頭を撫でる。
「よく頑張ったね」
その言葉に、涙が込み上げた。
お母様の腕の中は、花の香りがした。
お父様の声は、胸の奥まで温かかった。
「もう大丈夫よ。どこにも行かなくていいの」
お母様が、アリスを抱きしめながら囁いた。
その言葉は、とても甘かった。
甘くて、優しくて、ここに溶けてしまいたくなるほどだった。
もう、何も考えなくていい。
ノアのことも。
不思議の国のことも。
鍵も、時計も、八年前の記憶も。
全部忘れて、この薔薇園にいればいい。
そう思いかけた時だった。
ガラガラ、と音がした。
空が崩れる音。
薔薇園の壁がひび割れ、幸せな景色が紙細工のように裂けていく。
「え……?」
おじい様の姿が薄れる。
お母様の腕が霧になる。
お父様の声が遠ざかる。
アリスは手を伸ばす。
「待って!」
けれど届かない。
次の瞬間、世界は暗転した。
薔薇園は、踏み荒らされていた。
黒い土。
折れた枝。
散った花びら。
赤い夕暮れの中に、叔父レオニクの影が浮かび上がる。
冷たい目。
値踏みするような視線。
その後ろに、取り巻きを連れたエドワードが馬に乗っていた。
笑っている。
あの日と同じ、獲物を見つけた人間の顔で。
「逃げろよ、アリス」
エドワードの声が響く。
アリスの身体が震えた。
馬の蹄が地面を蹴る。
薔薇の枝が折れる。
花びらが泥に沈む。
アリスは走り出した。
足が重い。
ドレスの裾が絡まる。
息が苦しい。
背後から馬の音が追ってくる。
近い。
近い。
逃げても逃げても、距離が縮まらない。
「いや……!」
アリスは必死に走った。
けれど、足元の根に引っかかり、転んでしまう。
手のひらに痛みが走る。
見上げると、エドワードが馬上から見下ろしていた。
空が赤い。
薔薇が黒い。
逃げ場がない。
胸が詰まって、声が出ない。
あの時の恐怖が、身体を縛る。
動けない。
息ができない。
アリスは震える唇を開いた。
「たっ……助けて……」
誰を呼べばいいのか。
お母様。
お父様。
おじい様。
みんな、もういない。
それでも、声は勝手にその名前を探した。
「ノア……」
小さな声だった。
「ノア……!」
その瞬間、風が吹いた。
白い風だった。
黒い霧を切り裂くように、白い影が空から降りてくる。
白銀の髪。
白い兎耳。
赤い瞳。
ノアが、アリスの前に立っていた。
その背中は、いつもよりずっと大きく見えた。
甘い笑顔はない。
柔らかな声もない。
ただ静かに、アリスと悪夢の間に立っている。
エドワードの馬が嘶く。
黒い霧がざわめく。
ノアは振り返らなかった。
ただ、低く言った。
「アリスに触るな」
その声は、白い刃のようだった。
ノアが、手を上げた。
たったそれだけだった。
けれど、アリスの周りにまとわりついていた黒い霧が、まるで鋭い風に裂かれた布のように散っていく。
エドワードの笑い声も、馬の蹄の音も、泥に沈んだ薔薇園も、少しずつ輪郭を失っていった。黒い霧は唸るように渦を巻き、なおもアリスを飲み込もうと伸びてきたが、ノアの白い背中に触れた瞬間、じゅっと音もなく消えた。
アリスは、その背中を見上げていた。
細く見えるのに、決して退かない背中。
今まで何度も見てきたはずなのに、こんなふうに見えたのは初めてだった。
守られている。
そう思った。
同時に、胸の奥が痛んだ。
逃げたのは自分だ。
ノアを置いて、時計塔から飛び降りた。
信じきれなくて、怖くなって、帰りたくて、ノアの手から逃げた。
それなのに、彼は来た。
この黒い霧の中まで。
アリスの前に、また立ってくれた。
「ノア……」
声が震えた。
ノアはゆっくり振り返った。
甘い笑顔はなかった。
怒っているようにも見えた。悲しんでいるようにも見えた。けれどその赤い瞳の奥にあったのは、もっと深いものだった。
安堵。
痛み。
そして、どうしようもないほどの心配。
アリスの胸が詰まる。
「ごめんなさい……」
言葉は、ほとんど息のようにこぼれた。
ノアは何も言わず、アリスのそばまで来た。
そして、そっと腕を伸ばす。
今度は、聞かなかった。
抱きしめてもいいか、と。
けれどアリスは逃げなかった。
白い腕が、アリスを包む。
胸元に引き寄せられる。
ノアの服からは、いつもの薔薇に似た甘い香りがした。胸に頬を寄せた瞬間、アリスの身体から力が抜けていく。
怖かった。
ずっと怖かった。
ノアが怖かった。
ノアを信じたい自分も怖かった。
帰れなかったことも、この黒い霧も、全部。
アリスはノアの服をぎゅっと握った。
「ごめんなさい……私、勝手に……」
「大丈夫」
ノアの声が落ちてくる。
優しい声だった。
でも、その奥に疲れが滲んでいる。
「それより今は、帰り道を探そう」
「怒って、ないの……?」
ノアは少しだけ黙った。
それから、アリスの頭に手を置く。
「怒ってるよ」
胸がきゅっと縮む。
けれどノアの手は優しかった。
「でも、それより怖かった」
アリスは息を呑んだ。
ノアはそれ以上言わなかった。
ただ、アリスの髪を一度だけ撫でる。
「僕につかまって」
アリスは小さく頷いた。
ノアの手を取る。
その手はいつもより少し冷たかった。けれど、しっかりとアリスを握り返した。
二人は暗闇の中を歩き出した。
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