第十九話 僕だけは、絶対に忘れない…
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第十九話 僕だけは、絶対に忘れない…
黒い霧はまだ遠くで蠢いている。
足元は見えない。地面があるのか、それとも深い穴の上を歩いているのかも分からない。けれどノアの手があるだけで、不思議と足は前に出た。
闇の中には、時々声が浮かんだ。
アリスの名前を呼ぶ声。
お母様の優しい声。
おじい様の笑い声。
エドワードの笑い声。
時計の針の音。
そして、遠くから聞こえるチェシャ猫の笑い声。
くすくす。
くすくす。
どこからともなく響いてくる。
「まったく」
ノアが低く呟いた。
「底意地が悪いね、チェシャ猫は」
「ねぇ、ノア……ここはどこなのかな?」
アリスが呟くと、ノアは前を見たまま答えた。
「チェシャ猫のお腹の中」
「えっ」
「正確には、帰り道を忘れさせる場所だよ。怖いもの、欲しいもの、忘れたものを見せて、出られなくする」
「出られるの?」
「出る」
即答だった。
それは願いではなく、決定のように聞こえた。
アリスはノアの横顔を見上げた。
暗闇の中でも、彼の白い髪だけは淡く光っている。白銀の糸を月明かりで編んだみたいに、黒い霧の中でぼんやり浮かんでいた。
その時、前方に白い霧が現れた。
ノアの足が止まる。
「……白い霧」
以前、夢と記憶の狭間で見た霧に似ていた。
けれど、あの時とは違う。目の前の霧は柔らかく、淡いのに、底が見えないほど深い。
まるで月明かりを溶かした霧だった。
ノアの声が、少し低くなる。
「記憶を見せる霧……」
アリスはノアの手を握る力を強めた。
「誰の記憶?」
ノアは答えなかった。
答える前に、白い霧が二人を包み込んだ。
視界が溶ける。
暗闇も、足元も、ノアの手の感触さえ、一瞬ぼやける。
どこかで、古い扉の蝶番が軋む音がした。
ぎい、と。
長い間、誰にも開かれなかったものが、ゆっくり目を覚ますような音だった。
アリスは息を止めた。
そして、次に見えたのは、暗い洞窟だった。
湿った石の匂いがする。
壁には古い蔦のような根が這い、天井からは水滴が落ちていた。ぽたり、ぽたりと落ちる音が、洞窟の奥へ吸い込まれていく。
その奥に、古い扉があった。
木でできているのか、石でできているのかも分からない。縁には見たことのない文字が刻まれ、鍵穴の周りだけが、淡く白く光っている。
扉の前に、少し幼いノアがいた。
今よりも、どこか細くて、頼りなくて、それでも白い髪と赤い瞳だけは変わらない。
そのノアが、立ち去ろうとする女の人の手を掴んでいた。
長い髪の女の人だった。
顔はよく見えない。
けれど、その背中は泣いているみたいに震えていた。
「行かないで! お願い!」
幼いノアの声が、洞窟に響いた。
アリスは胸を押さえる。
そんな声を、聞いたことがなかった。
甘く笑う白兎ではなく、何かを失うことを怖がっている、ひとりの子どもの声だった。
女の人は足を止めた。
けれど、振り返らない。
「ごめんね……ノア」
かすかな声だった。
優しくて、苦しそうな声。
「私がここにいたら、全部が壊れてしまう」
「壊れたっていい!」
ノアが首を振る。
「僕がなんとかする。だから、行かないで。お願いだから……!」
女の人の肩が震えた。
その時だった。
洞窟の奥から、別の声がした。
「その扉を開けるな」
男の声だった。
低く、美しく、けれど凍りつくほど暗い声。
アリスは、思わず息を呑んだ。
声だけなのに、空気が変わった。
洞窟そのものが、その男を恐れているみたいだった。
「どこにも行かせない。彼女は、僕のものだ」
男の姿が、霧の向こうに浮かび上がる。
黒い影のようだった。
顔は見えない。
けれど、その人が一歩近づくたび、洞窟の床に黒い染みが広がっていく。
ノアが女の人の前に立った。
「やめてください!」
幼い身体で、必死に腕を広げる。
女の人を背に庇うように。
「お願いです、グレイ様……!」
男は答えなかった。
ただ、ゆっくりと片手を上げる。
ノアの赤い瞳が見開かれた。
「やめて!」
その声が届く前に、男の手が振り下ろされた。
黒い渦が広がる。
洞窟の床から、壁から、古い扉の隙間から、黒い霧が噴き出した。渦は音もなく膨れ上がり、ノアも、女の人も、扉も、全部を飲み込もうとする。
幼いノアが女の人の腕にしがみつく。
けれど、黒い渦は容赦なく二人を引き裂いた。
「ノア!」
女の人の声が聞こえた。
その声も、すぐに闇に呑まれた。
景色が裂けた。
白い霧が渦を巻き、洞窟の輪郭がほどけていく。
―――――――
水滴の音が、鎖の音に変わった。
かしゃん。
かしゃん。
白い霧の中で、赤い光が一筋走る。
次の瞬間、場面が変わった。
今度は、ハートの女王の城だった。
白い大理石の床。
赤い絨毯。
大きな玉座。
そこに、ハートの女王がいた。
豊かな赤い髪。
妖艶な微笑み。
けれど、その顔は怒りに歪んでいた。
ノアは床に倒れている。
女王の足が、ノアの肩を踏みつけていた。
見ていたアリスは息を呑む。
声が出なかった。
「お前のせいだ!」
女王の声が、広間に響く。
「すべて、お前のせいじゃ! 責任を取るのじゃ!」
ノアは抵抗しなかった。
床に片手をつき、苦しそうに息をしている。それでも顔を上げ、女王を見る。
「……責任なら、取ります」
女王の目が細くなった。
「よかろう。ならば白兎、その首にわらわの錠を受けよ」
女王が扇子を振る。
赤い光が走った。
次の瞬間、ノアの首に錠がかけられた。
血のような赤の錠。
そのまま鎖は首筋の脈と共に沈んで消えていく。
ノアの白い耳が、わずかに震えた。
アリスの胸が締めつけられる。
鎖。
ガルが言っていた。
白兎は、この国で最も自由に見えて、最も重い鎖を持つ存在。
それは比喩ではなかったのかもしれない。
ノアは、ずっと縛られていたのだ。
女王の声が響く。
「白兎よ。お前は門を開ける者。ならば、閉じる責も負え」
ノアは目を伏せた。
「……はい」
その返事は、今まで聞いたどの「はい」よりも重かった。
赤い光が、白い霧の中で細く震えた。
かしゃん、と音がする。
次の瞬間、その光は霧の中で一本の道になった。
―――――――
アリスが瞬きをした時、もうそこは城の入り口だった。
まだ少し幼いガルがいた。
今よりずっと背が低く、狼の耳も小さい。黒茶色の髪は乱れ、青い瞳には警戒と怯えが混じっていた。
その手を引いているのは、ノアだった。
ノアは、幼いガルを城へ連れてきた。
「この子を、置いてください」
ノアが言う。
声は穏やかだが、芯があった。
玉座の前で、ハートの女王が激怒している。
「また拾ってきたのか、白兎!」
女王の赤い髪が揺れる。
「城は迷い子の巣ではない!」
「分かっています」
「ならば捨ててこい」
幼いガルの手が、びくりと震えた。
ノアはその手を離さなかった。
「できません」
女王の目が細くなる。
「お前は本当に、面倒なものばかり拾う」
ノアは、いつものように少し笑った。
けれどその笑顔は、今のアリスが知る砂糖菓子の笑顔より、ずっと苦かった。
「困りましたね。見つけるのは得意なのに、手放し方だけはどうにも覚えられなくて」
幼いガルが、ノアを見上げる。
その青い瞳に、初めて小さな光が灯った。
アリスは胸が熱くなるのを感じた。
ガルは、ノアに拾われたのだ。
だからガルは、ノアを疑いながらも、離れなかったのかもしれない。
危うい人だと知っていても、きっと彼なりに、ノアを守ろうとしていた。
白い霧がまた濃くなる。
―――――――
今度は、かすかに、レースのカーテンが揺れる音がする。
暗い部屋。
小さなベッド。
そこに、足に鎖をつけられた幼いアリスがいた。
思わずアリスは息を呑んだ。
以前、夢と記憶の狭間で見た、あの恐怖を思い出す。
冷たいノア。
鎖に繋がれ、怯える幼い自分。
けれど、あの時見たものとは何かが違っていた。
頬を涙で濡らし、必死にノアの服を掴んでいる。
「いや!」
幼いアリスが泣いていた。
「行かないで、ノア!」
ノアはその前に膝をついている。
今と同じ顔。
けれど、涙を流していた。
アリスは、息が止まった。
ノアが泣いている。
あのノアが。
いつも笑って、すべてを誤魔化して、どこか掴めない白兎が。
幼いアリスの前で、静かに涙を落としていた。
「ごめんね」
ノアが言う。
声が震えていた。
「アリス、ごめん」
「いや、忘れたくない」
幼いアリスは首を振る。
「ノアのこと、忘れたくない!」
ノアの顔が歪む。
その苦しそうな表情に、今のアリスの胸まで裂かれるようだった。
「忘れないと、君は帰れない」
「帰らない!」
「帰らなきゃだめだ」
「いや!」
幼いアリスは泣きながら、ノアに縋った。
ノアはその小さな身体を抱きしめる。
きつく。
けれど、壊さないように。
まるで自分の一部を引き剥がされる人のように。
「その時が来たら」
ノアの声がかすれる。
「僕が迎えに行く」
「ほんと?」
「ほんと」
「絶対?」
「絶対」
幼いアリスが、小指を差し出した。
ノアは一瞬だけ固まる。
それから、涙の残る顔で小さく笑い、自分の小指を絡めた。
「約束」
幼いアリスが言う。
ノアは目を閉じた。
「約束」
その言葉の直後、ノアは小瓶を取り出した。
淡い青色の液体。
アリスが霧の中で見た、あの小瓶。
幼いアリスは泣き疲れて、ノアの腕の中でうとうとしている。
ノアは震える手で、瓶の蓋を開けた。
「ごめん」
もう一度、そう言った。
その声は、ほとんど祈りだった。
「君が生きて帰るために」
青い香りが、部屋に広がる。
幼いアリスの瞳が、ゆっくり閉じていく。
それでも最後に、彼女は小さく呟いた。
「ノア……忘れないで……」
ノアの涙が、幼いアリスの頬に落ちた。
「忘れないよ」
彼は答えた。
「僕だけは、絶対に忘れない」
白い霧が、すべてを包み込んだ。
アリスは立ち尽くしていた。
胸の奥が痛い。
息をするのが苦しい。
ノアは、記憶を奪った。
それは間違いない。
けれど、そこにあったのは冷たい悪意ではなかった。
泣きながら、それでもそうするしかなかった人の手だった。
守るため。
隠すため。
どちらでもあった。
どちらか一つではなかった。
アリスは、白い霧の中で小さく震えた。
ノアの手が、今のアリスの手を強く握っていることに気づく。
隣にノアがいる。
彼は何も言わなかった。
赤い瞳の奥で、長い年月をひとりで抱えてきた痛みだけが、声にならないまま揺れていた。
アリスは初めて思った。
自分だけが忘れていたのではない。
ノアだけが、ずっと覚えていたのだ。
八年前の約束も。
泣いて縋った幼いアリスの声も。
忘れないで、という最後の願いも。
全部。
白兎だけが、抱え続けていた。
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