大湊の朝
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あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
大湊基地で迎えた朝は、静かだった。
外はまだ薄い灰色で、窓の向こうには雪の残った通路と、低く沈んだ冬の空が見えていた。宿泊区画の廊下からは、遠くで人が歩く音と、どこかで扉の開く音が聞こえる。
シオナは布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
昨日の夜、大湊の灯りを見た。
むつ市に入ってから見えた生活の気配。基地へ誘導される車両の赤い尾灯。検査区画の照明。衛生科の確認。温かい食事。
どれも確かにあったのに、一晩眠ると、夢だったのではないかと思えてくる。
けれど天井は見知らぬ宿のものではなく、基地の宿泊区画らしい実用一点張りの白い天井だった。
シオナは小さく息を吐いた。
「……大湊だ」
その声に、隣の布団からサヤが顔を出した。
「着いたね」
寝起きの声だったが、言葉だけははっきりしていた。
もう一つの布団では、ミズホが上体を起こしていた。膝の上には記録ノートがある。表紙の角は少し擦れ、何度も開かれたページの端が不揃いに膨らんでいる。
「ミズホ、もう書いてるの?」
サヤが言うと、ミズホは軽く首を振った。
「昨日の分を見直してただけ。大湊に入ったところから、ちょっと記憶が曖昧だから」
「私なんか夕飯の途中から曖昧だよ」
「サヤはおかわりしたことだけ覚えてるでしょ」
「覚えてる。あれは大事」
シオナは少し笑った。
笑えることが、ありがたかった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「衛生科です。朝の確認に来ました」
シオナが返事をすると、女性隊員と衛生科員が入ってきた。二人とも昨夜と同じく落ち着いた表情で、手順も簡潔だった。
体温、喉、呼吸、脈、顔色。青森市内での発熱歴についても、ミズホが記録ノートを開いて説明した。
「青森市内のホテルで朝に発熱。咳、呼吸苦、意識障害なし。解熱剤を使用して安静。翌朝には平熱です。以後、再発なし」
衛生科員はノートの記述を確認し、シオナの顔を見た。
「今朝も平熱です。呼吸音も異常ありません」
シオナは少しだけ肩の力を抜いた。
サヤとミズホも同じように確認される。結果は三人とも異常なしだった。
衛生科員は記録用紙に書き込み、同行の女性隊員と短く確認を交わした後、三人に向き直った。
「昨日お伝えした観察措置は、今朝で解除します。現時点で感染を疑う所見はありません。基地内の移動制限も解除されます。ただし、今日は聞き取りがありますので、会議室へ案内します」
サヤが思わず聞き返した。
「もう普通に歩いていいんですか?」
「はい。もちろん立入制限区域は別ですが、宿泊区画と食堂、会議室周辺については問題ありません」
その言葉を聞いた瞬間、サヤは少しだけ目を丸くした。
シオナも、胸の奥にあった小さな緊張がほどけるのを感じた。
昨日までは、どこへ行っても「ここにいていいのか」を考えていた。道の駅でも、ホテルでも、温泉でも、駐屯地でも、いつも次の出発が背中にあった。
けれど今は、少なくともこの朝だけは、追い立てられていない。
ミズホは記録ノートを閉じ、両手で抱えた。
「聞き取りには、これを持っていきます」
衛生科員はうなずいた。
「助かります。基地側も、その記録をかなり重視しています」
サヤが小声で言った。
「ミズホのノート、出世したね」
「ノートは出世しないよ」
「でも扱いがすごいじゃん」
ミズホは少しだけ困ったように笑った。
「私たちが忘れないために書いてただけなんだけどね」
朝食は食堂の一角に用意されていた。
白米、味噌汁、焼き魚、野菜の煮物、温かい茶。特別な献立ではなかった。けれど三人には、それがかえって胸に染みた。
サヤは味噌汁を一口飲んで、しばらく黙った。
「……普通の朝ごはんだ」
シオナも茶碗を持ったまま、湯気を見つめた。
「普通って、こんなに強かったんだね」
ミズホは箸を置き、食堂の向こうを見た。隊員たちが静かに食事をしている。会話は少ないが、食器の音があり、湯を注ぐ音があり、誰かが短く笑う声がある。
終末後の世界で、音がある場所は貴重だった。
食後、三人は案内の隊員に連れられて会議室へ向かった。
廊下の窓からは、基地の一部が見えた。除雪された通路。停められた車両。遠くの岸壁。そこに並ぶ艦影。風は冷たそうだったが、基地の中には明らかに人の動きがあった。
シオナは足を止めかけた。
サヤが横からのぞき込む。
「海、見えるね」
「うん」
「昨日は暗くて分からなかったけど、本当に海の基地なんだ」
「大湊だもんね」
ミズホは記録ノートを胸に抱いたまま、少しだけ目を細めた。
会議室の扉が開くと、最初に目に入ったのは地図だった。
青森県全体の道路図。下北半島を大きく拡大した地図。津軽海峡から函館、さらに北海道西岸へ伸びる海図。壁一面に貼られたそれらには、赤や青の線が何本も引かれていた。
シオナは一歩入ったところで、少しだけ足を止めた。
地図の中に、自分たちが通ってきた場所があった。大館。大鰐。浪岡。青森。浅虫。野辺地。横浜町。
名前だけなら、ただの地名だった。
けれど今のシオナには、その一つ一つに、雪の色や、風の音や、誰かの顔がついていた。
「こちらへ、どうぞ」
案内の隊員に促され、三人は長机の前へ進んだ。
正面に座っていたのは大湊総監だった。隣には幕僚長らしい幹部、その左右に通信、補給、衛生、警務の担当者が並んでいる。少し離れた席には、むつ市の連絡代表係と紹介された男性、下北半島内の行政連絡を担う女性もいた。
会議室は暖かかった。
だが、空気は張っていた。
大湊総監は、三人が席の前に立つと、ゆっくりと立ち上がった。
「まずは、よく無事にここまで来てくれました」
シオナは反射的に背筋を伸ばした。
「お世話になります」
「朝の検査では、三人とも異常なしと報告を受けています。昨日までの観察措置は解除しました。今日からは、基地内の通常の立入制限を除いて、必要な範囲で移動して構いません」
サヤが小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそです。あなた方が持ってきた情報は、我々にとって非常に重要です。今日は、東京から大湊までの経路と、各地で見た状況を順に聞かせてください」
ミズホは胸に抱えていた記録ノートを机の上に置いた。
表紙の角は少し擦れ、何度も開かれたページの端が、わずかに波打っていた。道の駅で挟んだ紙片、施設名を書いたメモ、道路地図の切れ端が、何枚も間からのぞいている。
記録担当の隊員が、そのノートに目を向けた。
「それが、道中の記録ですか」
「はい。全部ではありませんが、日付、経路、接触した場所、受け渡した物資、通信内容は書いてあります」
「拝見しても?」
ミズホは一瞬だけ手を添えた。
「写しを取るのは構いません。でも、これは私たちの記録なので、原本は手元に置かせてください」
総監はすぐにうなずいた。
「もちろんです。預かるつもりはありません。必要な部分を確認し、写しを取らせてもらえれば十分です」
ミズホは安心したように手を離し、最初のページを開いた。
会議は、シオナの話から始まった。
「最初は東京です。私は都内で90式を見つけました。トレーラーに載せられたまま放置されていて、簡易マニュアルが残っていました」
幹部の一人が静かに顔を上げた。
シオナは言葉を選ぶように続けた。
「砲弾はありませんでした。砲塔上の車載機銃もありません。武装として使える状態ではなかったです。私は、撃つためじゃなくて、移動するために動かしました」
「操縦経験は」
「ありませんでした。最初は、動かせたというより、動いてくれた感じです。計器を見て、警告を見て、速度を落として、止まれる場所を探して……それだけです」
会議室の誰も、すぐには責めなかった。
それがかえって、シオナには重かった。
サヤが隣で少し身を乗り出した。
「私は渋谷でシオナと会いました。人がいなくなった交差点に90式がいて、最初は何が起きてるのか分かりませんでした。でも、そこに残っていても仕方がないと思って、一緒に行くことにしました」
ミズホが地図に指を置いた。
「そこから都内を縦断して、アクアラインで千葉へ出ています。鹿島灘沿いを北上して、大洗へ向かいました」
総監が尋ねた。
「大洗では、何を確認しましたか」
サヤの表情が少し柔らかくなった。
「フェリーターミナルと、水族館です。そこに、ミオがいました」
むつ市の連絡代表係が聞き返した。
「ミオさん?」
「はい。水戸出身で、動物看護の専門学校に通っていて、大洗水族館に実習に来ていた時に終末を迎えた人です」
サヤは少しだけ目を伏せた。
「水族館の人たちは、電気が足りなくなる前に、海で生きられる動物たちを放していました。イルカやアシカやアザラシやペンギンや、いろいろ。ミオはその後も残って、怪我して戻ってきたアザラシの子を世話していました」
ミズホが記録ノートをめくった。
「大洗で確認した生存者はミオ一人です。水族館とホテルを行き来しながら生活していました。私たちは怪我をして戻ってきたアザラシの子の状態を見て、傷が癒えていると判断し、四人で海へ返しました」
会議室の中で、誰かが小さく息を吐いた。
それは軍事情報でも、道路情報でもなかった。
けれど終末後の報告として、確かに必要なことだった。
「ミオにはトランシーバーを渡しています。ただ、電池節約のため決まった時間だけ使うよう伝えました。大洗周辺は、まだ人が戻れる余地があるかもしれません」
記録担当が、大洗の横に小さく印を書き込んだ。
シオナはそこから話を続けた。
「大洗の後、勝田と土浦へ向かいました。勝田駐屯地は静かに閉じていました。土浦には、医療テントや仮設風呂、車両が残っていましたが、人は残っていませんでした」
ミズホの声が少し硬くなる。
「土浦では、駐屯地司令の報告書を確認しました。市ヶ谷や朝霞との通信途絶、県内部隊の土浦集約、発症者の増加、無症状者の宇都宮退避が記されていました」
衛生担当の幹部が静かにうなずいた。
「そこから宇都宮へ」
「はい」
シオナが答えた。
「宇都宮には、志願して残っていた自衛官の方々がいました。大勢は北へ退避した後で、残っていたのは最後まで待つための人たちでした」
サヤが言葉を引き取った。
「森部三佐たちです。そこでは90式も見てもらいました。菅井一曹が確認してくれて、今すぐ安全に動かせる人が他にいないなら、シオナが操縦を続けるのが一番だって言われました」
シオナは少し気まずそうに目を落とした。
「その後、宇都宮の人たちとは途中まで一緒に北上しました。福島のモールのコミュニティに合流して、そこで別れました」
総監が地図上の福島北に視線を移した。
「モールのコミュニティ」
「はい。人が多く残っていて、物資や掲示、最低限の連絡が動いていました。そこで宇都宮から来た自衛隊とは別れて、私たちは会津へ出ました」
ミズホが記録ノートのページを進める。
「会津から山形へ。神町駐屯地で受け入れてもらいました。90式には冬道仕様の整備をしてもらっています。足回り、外部ラック、濡れ物箱、荷物固定などです。整備担当は葛西曹長です」
「神町駐屯地は維持されていましたか」
補給担当者が尋ねた。
「はい。閉鎖するほどではなく、近隣の農村ともつながっていました。冬を越す準備をしていました」
そこから報告は、舟形、新庄、最上川沿い、酒田、にかほ、秋田へと進んだ。
秋田駐屯地では軽油の状態確認を教わったこと。
燃料は号種だけでなく、色、濁り、水分、匂い、保管状況を見る必要があること。
能代、大館、矢立峠、大鰐を経て、弘前市街は危険と判断して避けたこと。
浪岡へ入り、そこから青森市内へ向かったこと。
青森市の話になると、会議室の空気が変わった。
大湊側にとって、そこは見えない場所だった。
「青森市内では、港のフェリーから無線を受けました」
ミズホが言った。
「フェリーは終末時に洋上にいたため、終末ウィルスの流入はなかった可能性が高い状態でした。ただ、船内で風邪かインフルエンザのような症状が出ていて、医薬品を求めていました」
衛生担当者が身を乗り出す。
「あなた方が医薬品を届けたのですね」
「はい。青森市民病院と周辺薬局、ドラッグストアから、市販薬、解熱薬、咳止め、消毒用品、マスク、手袋、ガーゼ、包帯、補水用品などを集めました。船とは直接接触せず、タラップ下に置いて離れ、無線で回収してもらいました」
通信担当者が尋ねた。
「青森駐屯地とは」
「青森駐屯地の周波数をフェリーに伝えました。青森駐屯地側にもフェリーの状況を伝えています。ただ、大湊と安定してつながっている様子ではありませんでした」
通信担当者は、隣の幹部と短く言葉を交わした。
その後、話は浅虫へ進んだ。
「浅虫では、電気が生きていました」
サヤが言った。
「温泉のホテルも使えて、人もいました。平内町の人たちもいて、野辺地まではつながっていると聞きました」
ミズホが続ける。
「野辺地病院は、終末後の健康相談拠点として機能していました。慢性疾患の薬、寒さによる体調不良、怪我、薬の相談などです。私たちは青森で確保して残っていた医薬品を渡しました。その代わりという形ではありませんが、90式に給油してもらっています」
むつ市の連絡代表係が、そこで初めてはっきりと口を開いた。
「野辺地と浅虫に電力が届いていたことは、こちらの運用とも一致します」
シオナが顔を上げる。
総監はうなずき、今度は大湊側の説明に入った。
「こちらの現状を説明します」
会議室の壁に貼られた下北半島の地図を、総監が指した。
「終末到来後、大湊は海上幕僚監部をはじめ各地との通信を失いました。青森、三沢、八戸との固定回線も途絶し、その後は無線でも安定したやり取りができていません」
サヤが驚いたように言った。
「青森とも、ですか」
「ええ。距離が近くても、回線と中継が死ねば近いとは言えません。特に青森市街の混乱後は、こちらから見える範囲が大きく狭まりました」
総監は今度、津軽海峡から北海道側へ線を引いた海図を示した。
「一方で、海の線は完全には切れていません。輸送艦しもきたは、終末到来時に洋上にあり、艦内で感染者を出しませんでした。その後、大湊と通信がつながり、合流しています。同乗していた陸自部隊も大湊に降り、車両を含めて現在こちらで運用しています」
補給担当者が続けた。
「ただし、しもきたは現在、北海道側との物資輸送に出ています。数日後に帰港予定です」
通信担当者が海図上の函館と余市を指した。
「函館、余市方面とは、ミサイル艇と掃海艇を使って断続的に連絡を維持しています。道内の沿岸部の様子も、ある程度は把握できています。ただし、沿岸部までです。内陸は分かりません」
総監が言った。
「我々には海の線があります。だが、陸の南側が見えていませんでした」
その言葉は、三人の前に置かれた記録ノートへ向けられていた。
「釜臥山の空自とも連携しています。レーダー施設は生きていますが、終末後は本来の防空監視だけで大きく動く場面は多くありません。高所からの監視、気象、通信補助の意味が大きくなっています。第25航空隊もヘリは運用可能ですが、燃料節約のため頻繁には飛ばせません。急患搬送、重要偵察、孤立地点確認に限っています」
ミズホはその言葉に反応した。
「ヘリで患者搬送ができるなら、野辺地病院や浅虫との連絡にも使えますね」
「必要ならば。ただ、燃料は慎重に使う必要があります」
総監は次に、六ヶ所方面を指した。
「燃料については、むつ小川原備蓄基地の原油を活用する方向で、周辺自治体、関係者と動いています。原油はそのまま車両や艦艇、ヘリには使えません。精製、輸送、設備、人員が必要です。北海道側との連絡も、その意味で重要です」
シオナは秋田駐屯地で教わった燃料確認を思い出した。
軽油の色。濁り。水分。匂い。
あれは、ただの知識ではなかった。
「電力は、東通原発が柱になっています」
むつ市の連絡代表係が言った。
「終末到来後、既存の電源網は途絶えかけました。ですが冬の下北で電力を失えば、行政も医療も生活ももちません。そこで東通原発を出力を絞って再稼働させています」
彼は地図の上に指を滑らせた。
「出力を絞っているとはいえ、下北半島全体を照らすには十分です。むつ市、大湊基地、東通、横浜町、六ヶ所方面。医療、行政、通信、給水、避難施設、生活圏の維持には足りています。さらに余力として、野辺地と浅虫方面にも電力を届けられています」
サヤが思わず言った。
「だから浅虫のホテルも、野辺地病院も、あんなに普通に動いていたんですね」
「普通に、とは言い切れません」
連絡代表係は穏やかに訂正した。
「ですが、灯りと暖房と給水があるだけで、地域は踏みとどまれます。野辺地と浅虫は、その外縁です。青森市街までは安定していません」
ミズホは記録ノートに目を落とした。
「野辺地病院が相談拠点として残れていた理由が分かりました。薬だけじゃなく、電気があったからですね」
「その通りです」
総監は三人を見た。
「我々は下北と北海道沿岸を支えることに手一杯でした。海の線は細く保っています。電力も、東通を柱にして維持しています。だが、青森市から南の陸路は空白でした」
総監の指が、ミズホの記録ノートの横に置かれた地図へ移る。
「あなた方は、その空白を通ってきた」
会議室に沈黙が落ちた。
シオナは地図を見た。
東京から、大湊まで。
一本の線が、確かにそこにあった。
けれど、その線は自分たちだけのものではなくなっていた。
サヤが小さく言った。
「旅が終わった感じ、しないね」
ミズホは、記録ノートの表紙をそっと撫でた。
「終わったんじゃなくて、つながったんだと思う」
シオナはうなずいた。
大湊に着いた。
でも、それは終点ではなかった。
三人が走ってきた道は、ここで初めて、下北から南へ伸びる線として扱われようとしていた。
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