格納庫の90式
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
「本日の聞き取りは、ここまでとしましょう」
大湊地方総監がそう言うと、会議室の空気が少しだけ緩んだ。
長机の上には、青森県と下北半島の地図が広げられたままだった。赤い線で東京から大湊までの経路が引かれ、青森港、野辺地病院、浅虫温泉、横浜町、大洗、福島北、神町、秋田といった地点に小さな印が増えている。
シオナは、その線をしばらく見つめていた。
自分たちが通ってきた道が、会議室の地図の上では思っていたより細く見えた。
細い。
けれど、途切れてはいなかった。
総監はミズホの記録ノートへ視線を移した。
「ミズホさん。その記録ノートについてですが、必要な箇所だけ写しを取らせていただけますか。原本はお返しします」
ミズホはノートに手を置いたまま、うなずいた。
「はい。写しなら大丈夫です。ただ、書き間違いや、私たちの見間違いもあると思います」
「それも含めて貴重です。現地を実際に通った記録ですから」
記録担当の隊員が、丁寧にノートを受け取った。
「必要なページだけ複写します。終わったらすぐお返しします」
ミズホは少しだけ手を離すのをためらった。
サヤが横から小声で言う。
「大丈夫だよ。ノート、拉致されるわけじゃないから」
「分かってる」
「顔が完全に、娘を嫁に出すお父さんだった」
「そんな顔してない」
シオナが小さく笑った。
ミズホも少しだけ口元を緩めたが、記録ノートが隊員の手に渡ると、やはり視線で追ってしまった。
総監はそれを見て、静かに言った。
「大事なものなのですね」
ミズホは少し考えてから答えた。
「はい。道を忘れないためのものです」
「では、道をつなぐために使わせていただきます」
その言葉に、ミズホは何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
会議はそこで一区切りとなった。
大湊側は、午後以降に各担当で三人の記録を整理し、青森港フェリー、野辺地、浅虫、横浜町との連絡計画に反映することになった。三人には、今日のところは休息を優先するよう伝えられる。
ただし、シオナには一つだけ気になることがあった。
「90式を見に行ってもいいですか」
警務担当の幹部が答えた。
「指定区画内であれば構いません。整備の者も確認しています。案内をつけます」
サヤが立ち上がりながら言った。
「やっぱり気になるよね」
「うん。昨日は降りてから、ちゃんと見られてないから」
ミズホが両手を少し広げた。
「あの子も長旅だったしね」
シオナは苦笑した。
「戦車をあの子呼ばわりするの、もう普通になってきたね」
「シオナが一番そう思ってるでしょ」
返事はしなかった。
けれど否定もしなかった。
三人は案内の隊員に連れられて、会議室を出た。廊下を歩く途中、窓の外に雪をかぶった基地の一角が見えた。除雪された通路の脇に、車両が何台も並んでいる。見慣れない陸自車両もあった。
サヤが窓の外を見ながら言った。
「あれ、しもきたに乗ってた部隊の車両かな」
案内の隊員がうなずいた。
「はい。輸送艦しもきたが合流した際に、同乗していた陸自部隊の車両も大湊に降ろされています。いまは下北半島内の輸送や巡回に使っています」
「海から陸自が来たんだ」
サヤが少し面白そうに言った。
「水陸両用っていうより、船で引っ越してきた感じだね」
ミズホが小声で返す。
「本人たちに言ったら怒られるよ」
「言わない言わない」
格納庫に近づくと、油と金属の匂いがした。
神町駐屯地や秋田駐屯地でも嗅いだ匂いだった。けれど大湊のそれは、少しだけ海の湿り気を含んでいるように感じた。
大きな扉の内側には、90式がいた。
雪と泥を落とされた車体は、それでも旅の跡を隠しきれていなかった。外部ラック。濡れ物箱。荷物の固定跡。足回りに残る雪道の汚れ。主砲には保護のための覆いがかけられ、車体の周囲には点検用の工具と台車が置かれている。
シオナは、自然と足を止めた。
「……いた」
サヤが横で言った。
「逃げないよ」
「分かってる」
「でも、ちょっと分かる」
三人が近づくと、90式の周りにいた整備員たちが顔を上げた。
その中に、陸自の迷彩服を着た隊員たちが数人いた。大湊基地の海自隊員とは少し空気が違う。工具を持っている者、手袋を外している者、車体の下をのぞき込んでいた者。少し離れた場所には、89式装甲戦闘車が停められていた。
サヤがそれを見て目を丸くした。
「なんか、戦車の親戚みたいなのがいる」
陸自隊員の一人が笑った。
「親戚と言えば親戚かもしれませんね。あっちは89式装甲戦闘車です」
「はちきゅうしき……」
「歩兵戦闘車です。こっちの90式とは役割が違います」
シオナは89式を見つめた。
90式より小柄に見えるが、装軌車らしい重さはあった。角ばった車体と砲塔。人を乗せて運び、戦闘もする車両。
その横で整備していた若い隊員が、我慢できないという顔で口を開いた。
「あの、本当に東京からこれで来たんですか」
シオナは少し身構えた。
「はい」
「都内から?」
「はい」
「アクアラインを通って?」
「はい」
「そのあと、千葉から茨城、栃木、福島、山形、秋田、青森ってことですか」
「……はい」
隊員はしばらく黙ったあと、隣の隊員を見た。
「すごいぞ」
隣の年上の隊員がすぐに言った。
「すごいで済ませるな。普通はやらない」
「でも、来てますよ」
「だから余計にすごいんだよ」
サヤが少し得意げに胸を張った。
「シオナ、だいたい30キロくらいでずっと慎重に走ってました」
「30キロで東京から大湊……」
若い隊員が、今度は違う意味で絶句した。
ミズホが横から言う。
「途中で何度も泊まってます。温泉とか、ホテルとか、道の駅とか、駐屯地とか」
「温泉?」
「あちこちで」
サヤが指を折る。
「大洗、土浦の仮設風呂、宇都宮、福島、会津、神町、舟形、戸沢、にかほ、西目、大館、矢立峠、浅虫……」
若い隊員がぽつりと言った。
「なんか、戦車旅番組みたいですね」
年上の隊員が工具で軽くその肩を叩いた。
「言い方」
サヤは笑った。
「でもだいたい合ってるかも。温泉と給油と除雪の旅」
シオナは90式の車体に近づき、そっと前面装甲の端に手を置いた。
冷たかった。
けれど、ここにある。
昨日の夜、大湊に着いてからずっと、どこか落ち着かなかった理由が分かった気がした。自分たちは寝床をもらい、朝食をもらい、会議室で話をした。でもこの車体を見て、初めて旅の相棒が無事に着いたことを確認できた。
89式の整備をしていた隊員の一人が、90式の足回りを見ながら言った。
「履帯の張り、途中で見てもらってますね」
「神町と秋田で見てもらいました」
シオナが答える。
「神町で冬道用に色々してもらって、秋田では燃料の見方を教わりました」
「なるほど。外部ラックも現地改修か」
別の隊員が濡れ物箱を見た。
「これ、いいですね。雪道だと濡れた上着とか手袋とか、車内に入れたくないでしょう」
サヤがうなずいた。
「めちゃくちゃ助かりました。にかほで吹雪いた時とか」
「にかほまで行ったんですか」
「行きました。露天風呂も入りました」
「露天風呂?」
若い隊員がまた反応する。
ミズホが少しだけ目を細めた。
「そこでシオナが雪に寝転びました」
シオナは顔をそらした。
「短時間だよ」
「発熱した人が言う台詞じゃない」
「青森の発熱は別件」
「冷えと緊張も原因だから、別件じゃない」
陸自隊員たちは、そのやり取りに少し笑った。
年上の隊員が、90式の車体を見ながら言った。
「でも、本当によく保ってます。無理に動かした跡が少ない。速度を出していないのが分かります」
シオナは少しだけほっとした。
「怖かったので」
「それが一番いいです。怖がる操縦手の方が長く生きます」
その言葉は、シオナの胸に静かに入った。
褒められたというより、許されたような気がした。
サヤは89式の方へ歩いていき、少し離れて眺めた。
「これは、しもきたに乗ってたんですか」
陸自隊員が答える。
「はい。演習からの帰投予定が、終末でそのまま洋上隔離に近い状態になりました。艦内で感染が出なかったのは、本当に幸運でした」
「それで大湊に来たんですね」
「ええ。降りてからは、むつ市内や横浜町、東通、六ヶ所方面の巡回と輸送に使っています。89式は本来そういう使い方をする車両ではありませんが、今は動く装軌車両は全部貴重です」
ミズホが89式の側面を見た。
「医療搬送にも使うんですか」
「基本は高機動車やトラックです。ただ、雪や路面状態が悪い時には、装軌車両の方が安全なこともあります。ヘリは燃料の都合で簡単には飛ばせませんから」
会議室で聞いた話が、格納庫の中で車両の形になっていた。
しもきた。89式。90式。ヘリ。掃海艇。ミサイル艇。東通の電力。むつ小川原の原油。
それぞれは別々の話だったのに、ここでは全部が「動かすもの」としてつながっていた。
若い隊員が、またシオナの方を見た。
「操縦席、見てもいいですか」
シオナは少し迷ってから、うなずいた。
「私が説明できる範囲なら」
「ぜひ。東京から大湊まで来た操縦席、見たいです」
年上の隊員が苦笑した。
「見世物じゃないぞ」
「分かってます。でも、勉強になります」
シオナは90式に手をかけた。
いつもなら、自分が乗り込むための動作だった。今は、誰かに見せるために、慎重に足場を確かめる。
サヤが下から言った。
「シオナ、ちょっと先生みたい」
「やめて。私、まだ教わる側だから」
ミズホが続ける。
「でも、90式の旅に関しては一番の経験者だよ」
「そんな経験者、増えない方がいい」
陸自隊員が笑った。
「それは本当にそうですね」
シオナは操縦席のハッチ付近で振り返った。
格納庫の中に、90式と89式が並んでいる。
一方は、東京から大湊まで三人を運んできた車両。
もう一方は、しもきたに乗って海から来て、下北半島を支えている車両。
どちらも、本来ならこんな形で並ぶはずではなかったのかもしれない。
けれど今は、ここにある。
シオナは静かに言った。
「この子も、たぶん驚いてると思います」
若い隊員が首をかしげた。
「90式がですか」
「はい。まさか、温泉と道の駅を巡りながら大湊まで来るとは思ってなかったと思うので」
サヤが笑った。
「日本一のんびりした90式かもしれない」
ミズホがすぐに言った。
「でも一番働いた90式かもしれないよ」
年上の陸自隊員は、90式の車体を見上げて、少し真面目な顔になった。
「そうですね。少なくとも、ここへ一本の道を持ってきた車両です」
シオナは何も言わなかった。
ただ、冷たい装甲に触れたまま、少しだけ目を細めた。
会議室では、地図の上に線が引かれていた。
格納庫では、その線を走ってきた車体が、静かに休んでいた。
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