第二十話 腹の中で、爆破は礼儀違反
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十話 腹の中で、爆破は礼儀違反
「これは……本当の……記憶?」
アリスの声は、白い霧の中でかすかに震えた。
霧はまだ、二人の周りをゆっくりと流れていた。
さっきまで見ていた光景が、胸の奥に生々しく残っている。
泣いて縋る幼い自分。
涙を流すノア。
青い小瓶。
指切りの約束。
夢だと思いたかった。
でも、夢にしては痛すぎた。
知らないはずなのに、懐かしかった。
忘れていたはずなのに、身体だけが覚えているようだった。
ノアは答えなかった。
代わりに、どこからともなくチェシャ猫の声がした。
「さぁ、どうだろうね~」
白い霧の奥に、半月型の笑みだけが浮かぶ。
「記憶はいつも正直とは限らない。夢はいつも嘘とも限らない。混ぜて、溶かして、煮詰めたら、さて何味になるでしょう~?」
アリスは唇を噛んだ。
からかわれている。
分かっているのに、心は揺れた。
「濃い霧は、それだけ深く刻まれた記憶……」
アリスは、ネムリの言葉を思い出しながら呟いた。
「きっとこれは……ノアの……」
ノアの手が、わずかに強くなる。
アリスは隣を見た。
ノアは何も言わない。
けれど、その赤い瞳の奥には、今まで見たことのない痛みがあった。
甘い笑顔で隠していたもの。
八年分の沈黙。
忘れないでと言った幼いアリスの声を、ひとりだけ抱えてきた白兎の痛み。
アリスの胸が締めつけられる。
許せないことも、もちろんある。
記憶を封じて、隠され続けたことも、怖かった。
でも、ノアの痛いくらいの想いを知った今、それをもう単純に責めることはできなかった。
チェシャ猫が、白い霧の中でくすくす笑う。
「いいね~。疑って、信じて、傷ついて、それでも手を離せない。とてもおいしいね~」
ノアの目が、すっと冷えた。
「チェシャ猫」
「なぁに、白兎」
「はぁ……」
ノアは深くため息をついた。
その声は静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
「せっかく、大人しく出ようと思ってたのに」
チェシャ猫の笑みが、少しだけ引きつった。
「おや~?」
ノアはアリスの手をそっと離し、一歩前に出た。
白い霧が、彼の足元でさざめく。
その背中は、さっき黒い霧の中でアリスを庇った時と同じだった。
細く見えるのに、決して折れない。
「先に煽ったのはそっちだよ」
ノアの声は甘かった。
いつものように柔らかい。
けれど、その甘さの下に冷たい刃があった。
「僕のアリスを飲み込んで、僕の記憶を勝手に覗かせて、まだ味見するつもり?」
「僕の、だって~。白兎、独占欲は毛並みに悪いよ~」
「黙ろうか」
ノアが指を鳴らした。
白い霧の奥で、何かが光った。
次の瞬間、轟音が響いた。
ばちん、という雷のような音と共に、霧の一部が吹き飛ぶ。
白い世界に亀裂が走り、そこから黒い空間が覗いた。
チェシャ猫の笑みが歪む。
「ちょっとちょっと~! 腹の中で爆破は礼儀違反~!」
「君に礼儀を語られたくないね」
ノアはもう一度、手を上げた。
今度は足元から白い光が伸びる。
光は蔦のように広がり、霧を裂き、見えない壁へ絡みついた。
アリスは息を呑む。
ノアの力を、こんなふうに見るのは初めてだった。
白くて、静かで、美しい。
でも、容赦がない。
白い光が一気に弾けた。
どん、と腹の底に響く音。
霧の壁が割れる。
まるでガラスが砕けるように、白い破片が空中に散った。
その向こうに、マッドの洋館の広間が見えた。
暖炉の赤い光。
長いテーブル。
ロビンとネムリ。
マッドの黒い姿。
「アリス」
ノアが振り向いた。
さっきまでの冷たさは消えていた。
ただ、必死な目をしている。
「走って」
アリスは頷いた。
ノアの手を取る。
二人は、割れた霧の出口へ向かって走った。
背後でチェシャ猫が叫ぶ。
「まだ終わってないよ~! 白兎、きみの記憶はもっと苦くて甘いのに~!」
「また今度ね」
ノアは振り返らずに言った。
「次は君の尻尾を結ぶ」
「やだな~。腹黒うさぎ~」
最後に、チェシャ猫の笑い声が響いた。
けれど、その声は遠ざかっていく。
白い霧が裂け、視界が反転した。
アリスは強い光に目を閉じる。
次に足が床へ触れた時、そこはマッドの洋館の広間だった。
「出た!」
ロビンが叫んだ。
ネムリが泣きながら駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん!」
マッドは静かに立っていた。
けれど、手元の紅茶は完全に冷め、テーブルクロスには大きな染みが広がっている。
空中に浮かんでいたチェシャ猫の顔は、ぐにゃりと歪んだ。
「今日はここまで~」
半月型の笑みが、少しずつ薄くなる。
「また遊ぼうね、アリス~。白兎の苦いところ、まだまだ残ってるから~」
「二度と遊びません!」
アリスが叫ぶと、チェシャ猫は嬉しそうに笑った。
「そう言う子ほど、また来るんだよ~」
最後に、ぎょろりとした目だけが残る。
それもすぐに、煙のように消えた。
部屋に静けさが戻る。
アリスは荒い息を整えながら、ノアの手を握っていた。
まだ離せなかった。
ノアも、離さなかった。
見てしまった。
ノアの記憶。
自分が忘れていた過去。
それが本当なのか、彼と一緒にいることで分かっていく気がしていた。
アリスはそっとノアを見上げた。
ノアはいつもの甘い笑顔を作ろうとして、失敗したような顔をしていた。
その表情が痛々しくて、アリスの胸がまたきゅっと痛んだ。
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